第8話 すべてのことばは嘘をついている
すべてのことばは嘘をついている。
会話とは、嘘と嘘をつきあいながら本当のことを伝え合うゲームだ。
おれは二十歳にしてひとつの悟りを開くにいたった。それが上にかかげた二行だ。すべてのことばは嘘なのだ。ひとつたりとも信じてはいけない。それが東洋哲学の答えなのだ。
「お客さま、お帽子が落ちましたが」
と、店員が話しかけてきても信じてはいけない。嘘なのだ。おれは客ではないし、帽子も落ちてはいないのだ。おれは客のようにみえて客でないものだし、帽子も落ちたのではなく、ただ移動しただけだ。いや、ひょっとしたら、落ちたのは帽子以外の宇宙すべての方かもしれないではないか。いずれにせよ、嘘なのだ。帽子も帽子ではなく、帽子のような何かにすぎないのだ。帽子と呼ばれるそのものは、帽子そのものではないのだ。
「わたし、あなたが好き」
などと、女の子に話しかけられても信じてはいけないぞ。女の子はわたしのようでいてわたしではないものだし、厳密にいえば、女の子とおれはひとつにつながった因果律をもつ単体なのだし、あなたはあなたのようでいておれのようでいて、それでいておれそのものではないものなのだから。好きだというのも、好きに見せて本当は好きとは微妙にちがう感情なのだから。わたし、あなたが好きというのは、嘘なのだ。わたし、あなたが好きとはわずかにずれて存在する現象のことなのだ。
「おれも好きだよ」
と答えたおれのことばも、もちろん信じてはいけない。おれと呼ばれるものは、おれそのものではないからだ。おれはおれではないし、好きというのも好きなような好きでないような微妙なことばには表わせない感情なのだから。すべてのことばは嘘なのだ。おれも好きだよは、おれも好きだよそのものではないのだ。
いや、だが嘘だからといって、おれが彼女と一緒になるのをさまたげるものは何もない。
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