mission8-31 戦場、再び




 船がスヴェルト大陸の北の港に着いてすぐ、ターニャは戦場に向かって駆け出そうとした——が、髪をぐいと引っぱられ、後ろに倒れそうになった。


「どこへ行く? 余の護衛任務を自ら進みでたのは貴様だろう、ターニャ」


 王が不機嫌な声音でターニャを睨みつけている。


 そうだ、この目だ。両親を処刑されたあの日から、ターニャを縛り続ける男の目。幼い意志を蟻を潰すかのように踏みにじった目。


 しばらく戦場にいて王のもとを離れていたからこそよく分かる。この目が王に逆らう意志を砕き、無意識のうちに彼の機嫌を伺って行動するよう促してくる。


 だが、もう見失うものか。


 ターニャは奥歯を噛み締めながら、自らの胸の内を悟られないよう頭を下げて答えた。


「……はい、申し訳ございません。陛下のお側を離れることはいたしません」


「分かっておれば良いのだ。なに、はやる気持ちも理解できる。戦場というものは人の血をたぎらせる魔力を持っている。余もこの感覚は久しぶりだ……早いところひと暴れしてルーフェイの呪術士どもを黙らせてやりたいものよ!」


 クリストファー十六世はそう言って豪快に笑った。周囲の兵士たちもそれに合わせるように笑う。


 だが、ターニャにはすぐにそれが彼らの本心でないことが分かった。兵士たちは皆いつまで経っても終わらない戦争に辟易している。早く国に戻って家族とともに争いのない場所に逃げ延びたいと考えている。皆、王の顔色を伺いながら、笑みを顔に貼り付けているだけ。憶測ではなく、彼らが漂わせている空気感から確かに感じとる。


(ここに上陸してからだ……以前はこんなにはっきりは分からなかったのに、今は他人の意志が手に取るように分かる)


 王の意志も彼女には見えていた。


 彼だけは、一点の曇りもなく純粋にいくさに対して前向きな心持ちのようだった。


(どうして王様は疑わないんだ……? 元軍属だったら、この戦争を続けることに意味がないことくらい、分かりそうなものなのに)


 確かめる術はなかった。


 人の意志とは、ベクトルのようなもの。ターニャにはそれぞれの人々の意志がどちらに向いているかは分かるが、その意志の裏にある理由までは分からない。


 王は出迎えた見張り兵士たち——その中にはエドワーズもいた——の一人を小突くと、先に来たはずの第一王子が今どうしているのかを尋ねた。正確には第一王子ではなく、影武者ウーズレイだ。家庭教師に聞き出した情報によると、本物の第一王子は今エルロンド北東にある王家の所領でのうのうと過ごしている。


「第一王子は現在、ガルダストリア王の命により、ヴァルトロの首長の息子と共に前線に向かわれております」


「ヴァルトロの首長の息子……ああ、確かライアン・エスカレードとか言ったな。彼もこの戦争が初陣ではなかったか? なるほどガルダストリア王め、なかなか粋な計らいをしてくれたようだ」


 含みのある口調でそう言うと、王は見張り兵士にキャンプまで案内するように命じてつかつかと歩みだした。ターニャも彼の後に続く。


 途中、すれ違ったエドワーズがぼそりと呟くのが聞こえた。


「どうして戻ってきたんだ」


 よく見ると、以前よりも包帯を巻いている箇所が増え、眼下にはくまができて顔色が悪い。ターニャが意識を失っている間にも、彼はずっとここで終わらない戦争の日々を過ごし続けていたのだ。


「……ごめん」


 その時のターニャには、それくらいしか彼に言える言葉がなかった。






 きっかけはなんだったのだろうか。


 そう尋ねられれば、当時戦場にいた人々は皆一様に首を横にひねるだろう。


 それくらい、『終焉の時代ラグナロク』の訪れは突然であった。


「う……」


 砂に埋もれていたターニャは全身を軋ませながらなんとか砂上に這い出た。突然の大地震、地割れ、敵味方関係なく襲いかかってきた砂の波。


「何、これ……」


 周囲を見渡して、思わず息を飲む。


 先ほどまで、王と共にルーフェイの一個師団の拠点に攻め込んでいたはずだ。野太い掛け声と、人々が大地を踏む音、そして鎧と刃がかち鳴らす金属音。熱気と血の臭いに包まれていた、灼熱の戦場。


 だが、今は見る影もない。


 周囲には彼女を除いて誰もおらず、あたり一面砂だらけ、昼間だったはずが太陽はいつの間にか陰り、黒い砂嵐が周囲に吹き荒れていて視界が悪い。


(みんな砂に飲まれたのか……?)


 この異常な光景の中で、ターニャは少しだけ安堵していた。今は、自分を縛る王の姿がどこにもない。


 不謹慎であることは分かっている。だが、ウーズレイを探すなら、今しかない。


(あいつは確か、ヴァルトロの御曹司と前線にいるんだっけ……)


 この砂嵐では方向感覚はまるで掴めない。ただ、彼女の中には不思議と確信があった。黒い砂嵐が最も激しく吹き荒れている場所、そこにウーズレイはいるのだと。


“そう。ついにこの時が来てしまったのだ。手遅れになる前に早う我の元へ来い……”


 同じ方向から、かつて母親の姿をして目の前に現れたものの声がする。


 相変わらず腹の傷は完治していなかったし、砂の波に飲まれた時に手足の骨がいくつか折れていたが、それでもターニャは足を引きずりながら砂丘を歩きだした。






 途中、エルロンド軍が拠点にしていたキャンプの近くを通りがかった。どうやらここも砂の波に飲まれたらしい。天井布を張っていた木の柱がところどころ砂の中から突き出ているくらいで、ほとんど跡形もなく崩れ落ちている。高々と掲げられていたエルロンドの国旗は無残に破れて砂の中に埋もれていた。


(エルロンド軍は、もう終わりだ……)


 キャンプにいた負傷兵たちは皆下敷きになってしまったのだろうか。そんな懸念が頭をよぎった時、かすかな子どものぐずる声が聞こえてきた。


「うぇっ……ええん……おなかへった……おなかがへったよう……」


 この光景の中で初めて聞いた人の声だった。


 ターニャは声がする方へと駆け寄る。すると、柱の陰に赤い肌の鬼人族の子どもと、その眼前で倒れている兵士の亡骸があった。兵士の腰には食糧の入ったポーチが取り付けられている。


 すぐそばまで近づくと、鬼人族の子どもはターニャに気づき、ハッとしたような表情を浮かべて頭を抱えてうずくまった。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! お願いです、殴らないで……! オレ、この人のご飯をとろうとしたわけじゃないです……身分の高い人からごはんをもらえる、〈チックィード〉の順番は後だって、ちゃんと分かってますから……!」


 その子どもはずいぶん痩せていて、栄養不足か鬼人族特有の黒髪は水気がなく白髪が混じっている。奴隷兵士として育てられた鬼人族の子どもたちは戦争が始まってすぐに戦地に送られ、身体が丈夫だからこそ他の兵士たちよりも生き延びることが多かった。だが、彼らがいくら戦地で働こうと、亜種族を迫害する風潮のあるエルロンドでは歓待されることはない。


「……今のあたしは見張り兵士でもなんでもない。それに、その兵士はもう死んでいる。腹が減ってるなら勝手に食べればいい」


「だけど、身分の高い人のものに勝手に手を出すことは王様がダメって……おれたちが生きていくには王様に従わないと……」


「その王様こそが間違ってるんだよ!」


 ターニャは苛立っていた。その間違っている王の命令に従い、同じ〈チックィード〉であるはずの彼らに酷い仕打ちをしてきた自分に。


 彼はまるでウーズレイに出会う前の自分とそっくりだった。


「もう、こんな地獄は終わらせなきゃ……」


 ターニャは鬼人族の子どもの、折れていない方の角に手をかける。片方は王に折られた角。これのせいで彼らは王に縛られ続けている。それならば——。


「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 ターニャが角の先端を折った瞬間、鬼人族の子どもは白目をむいて悲鳴をあげた。だが、苦痛以上に怒りが勝ったらしい。目の端に涙を浮かべながらも、強い力でターニャの折れた腕を掴んできた。伸びた爪が皮膚を裂き、どくどくと血が流れ出す。


「何すんだよ! オレの……オレ様の角を……!」


「もう君は自由だ。君の角を折ったのはエルロンドの見張り兵士じゃなくて、ターニャ・バレンタインだからね」


「は……?」


「これからは、王にも見張り兵士にも怯える必要はない。食べたいものは好きに食べればいいし、このどさくさに紛れて鬼人族の里に帰ってもいい。それが、あたしからの君への指示だ」


「なにそれ、わけ分かんねぇよっ……!」


 鬼人族の子どもはそう言いながらも、ターニャから手を離して死んだ兵士の食料を漁りだした。涙をぼろぼろこぼしながら、ポーチの中に入っていた食糧を口の中にかき込む。


「君、名前は?」


 ターニャが尋ねると、少年はきっと睨むように顔を上げて言った。


「ヨギ。ヨギ・ヤンハだ。あんたには散々痛い目に遭わされたのに、今まで名前覚えてなかったのかよ」


「ごめん。だけど今度は絶対忘れない」


「本当に?」


「うん。君に一生残る傷をつけたんだ……その分あたしは君の名前を一生忘れない」


 そう言って、ターニャはその場を後にしようとする。


「待って、どこに行くんだよ」


「ちょっと迎えに行かないといけないやつがいてね」


「どんなやつ?」


「そうだなぁ……あたしや君と同じで、物心ついた時から理不尽な目にあって、王様に囚われて……それでも王様を信じ続けてるバカなやつだよ。あたしが迎えに行ってやらないと、きっといつまでも目を覚まさないからさ……」


 そうだ、絶対に迎えに行く。


 いつまでも帰らないターニャのことを心配したからこそ、ウーズレイは戦場に行くことを拒否しなかった。ターニャがウーズレイとの約束を果たすために戦場を逃げ出したことも知らず。


(ちゃんと会えたら、もうこんな場所からさっさと離れて、誰にも縛られることのないところに逃げよう……エドワーズやヨギも連れて、みんなが自由に生きられる場所に行くんだ……)


 ターニャは改めて自分の意志を確認すると、再び黒い砂嵐の吹き荒れる方角へと歩き出した。


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