mission6-34 イヴォルとマグダラ
翌日、イヴォルは何事もなかったように目を覚ました。どうやら時の島からの長い船旅での疲れが溜まっていたらしい。
彼は高地に慣れていない身体を休めることなく、すぐにベッドを抜け出して大図書館の中を練り歩いた。そしてきょろきょろと大図書館の中をさまよっては、愛しげに古びた本の背を撫でる。
エリィの一族に酷似した彼の外見はこの土地において周囲の目を強く引きつける。儂はバルバラに借りたフードをイヴォルに
「お主、目はほとんど見えておらぬのじゃろう。バルバラからそう聞いたのじゃが」
イヴォルは紫色の瞳で儂の方を見ると、優しげな微笑みを浮かべて言った。
「私は
その表情はとても二十くらいの若者のもののようには思えない。この世を達観した聖職者のような、穢れひとつない穏やかな笑みであった。
儂は”千里眼”で彼の未来を視ることはしなかった。視なくとも分かる。彼の命の灯はもう消えかかっている。わずか一年の寿命だと知りながらも、命がけで時の島を囲む険しい海域を超えてこの土地にたどり着いたのだから。
「なぜ命を削ってまで島を抜け出してきたのじゃ?」
するとイヴォルは本棚に敷き詰められた本の背表紙をなぞりながら答える。
「時の島には本が少ないのです。たまにどこかの船の漂流物を浜辺で拾うことはありましたが、大抵ページが濡れてしまったり破れていたり。続きが気になる本がたくさんあるんですよ。だから、世界中の本が集まるナスカ=エラの大図書館を一度訪れてみたいとずっと思っていたんです」
「たったそれだけのためにか……?」
「はい……と言ったら、大巫女様はお叱りになられるでしょうか? 時の島の民は、
しゅんと肩を落とす彼に、儂は首を横に振る。
「いや、そもそもお主らを時の島に閉じ込めた儂ら祖先の行いに非がある。むしろお主らがこの時代まで律儀に言い伝えを守り抜いてきたことに驚いておるよ」
「時の島の民は皆まっすぐなのです。そして……少し臆病なのです。今さら島の外に出たとして、その世界で生きていくことはできるのだろうか、できないならば島の中にいて自分たちの運命の時を待った方がいいんじゃないか、って。私もずっとそう思っていました……自分の死を意識するようになるまでは」
イヴォルは本を一つ手に取り、パラパラとページをめくる。失明しかかっている彼の目では細かい文字を読むことはできない。彼は本の中身を読んでいるというよりも、ページをめくり、その紙一枚一枚に染み込んだ歴史や人々の思いを嗅ぎ取っている……そんな風に見えた。
「医者に寿命を告げられて、私は自分が今まで何のために生きてきたのか分からなくなってしまいました。私は島の
ヘイムダルの石版に刻まれた、大巫女にしか読み取ることのできない時の島の伝承。そこには神石クロノス覚醒の儀についても書かれている。強制的に共鳴と覚醒を起こすためには、人々の生きる時間——つまり、残りの寿命を捧げなければいけない、と。
「私はとても自分勝手な男です。島の民には何も告げず、一人で島を出てきてしまいました。残り一年、自分の命を精一杯に燃やすためにはあの島の中にはいられぬと思ってしまったのです。まだ幼い弟は……ジーンは……きっと重い使命を彼に押し付けた私のことを恨んでいることでしょう。それだけが心残りです」
イヴォルは本を閉じると俯いた。穏やかな表情の中に後悔の影が差す。
年は大きく離れているといえど、彼と儂は同じであった。自らの死を見つめ、その後に生きる者たちの行く末を
じゃがそれは一人であったからだ。
同じ想いを抱える者同士が出会ったこと。それは孤独の累乗ではなく、儂にとっては希望に見えた。
「……お主の気持ちはよう分かる。儂も自分の残された時間をいかに使うか悩んでおった。……じゃが、今ようやく何をすべきかが見えた気がする」
——ミトス創世暦九八三年。
イヴォルがナスカ=エラにたどり着いて一年が経った。
彼はほとんどの者にその存在を知られることなく、大図書館の一室でひっそりと息を引き取った。
「マグダラ様……後のことはお願いします」
それが彼の最期の言葉であった。相も変わらず穏やかな笑顔で、もう何も見えていない紫の瞳を宙に向けながらそう言った。
イヴォルが生前望んだ通り、彼の遺骨は時の島の海域に向かって散骨を行った。それは故郷に対しての後悔の念によるものではなかった。いつか世界が『終焉の時代』を迎えた時に、
儂はこれまで幾度となく人の死を見送ってきたが、決して慣れることはなかった。ましてや同じ想いを抱えていたイヴォルの喪失には、これまでにない悲しみを感じた。彼が亡くなった日には”御隠れの日”と偽って一切の公務に手をつけなかったほどに。
じゃが孤独ではなかった。
それはきっと——自らの身に一つの希望を宿していたからがゆえに。
——ミトス創世暦九八四年。
”祈りの間”にてヘイムダルの石版に記録を行っている時、アディールが儂を訪ねてきた。
「母上、少しばかりお話が」
「何用じゃ。平和協定の件ならば儂は一切認めんと言ったはず。その意思は変わらん。両国は内戦を口実に戦争を始める気なのじゃ。なぜそれが分からん?」
そう、ついに世界は終焉への第一歩を歩みだした。
砂漠の国アトランティスで起きた内戦にガルダストリアとルーフェイの両国が干渉し、利権をめぐってにらみ合いをしているのである。
両国の有力者からは平和協定の内容を改定するよう、ミトス神教会に申し出が来ているとのことであった。表向きは時代に合わせての内容更新であるが、要は戦争開戦の足かせとなっている平和協定に抜け道を作るための工作である。
アディールは申し出を承認して、ミトス神兵団をガルダストリア陣営に派遣すべきと提言してきたが、儂はそれを断固として跳ねのけた。
アディールの主張は「ナスカ=エラが今の時代を生き延びていくには優勢のガルダストリアに肩入れすべき」というものであった。
理屈は分かるが、ナスカ=エラは中立の立場を破ってはならない。それに二つの大国の戦争は間違いなく『終焉の時代』を誘引する要因となろう。
運命に抗っても無駄であることは分かっている。じゃが、それでも希望を失いたくないのが人間なのだ。
アディールはゆっくりとした歩調で部屋の中に入ってきた。
「いいえ、その話ではありません」
「では何じゃ」
「母上……いい加減、そろそろ次代の大巫女を決めませんか? もうすぐ八十歳になられることですし」
その声音はやけに落ち着いていて、儂は本能的に寒気を覚えた。じゃが、この時はまだアディールの本心には気づいていなかった。たとえ口論をしたとしても、我が子に対して嫌悪の念を抱くなどあってはならぬ……そんな理性が無意識のうちに働いていたのかもしれない。
儂のわずかな感情の変化を読み取ったのか、腕の中に抱えていた幼子が小さく喚く。
勘の良い子じゃ。この子はきっと、儂の持つ力などいずれ軽く飛び越えてしまうほどに成長するであろう。透き通った色の異なる両の眼が不思議そうに儂の顔を見上げている。
儂はアディールの方を振り返らぬままに答えた。
「必要ない。この子が成長するまでは儂は大巫女であり続けるつもりじゃ」
背後からアディールのため息の音が聞こえる。
「昨年生まれたミハエルですか。母上はなぜその子に入れ込むのです? 大巫女を継げぬ男児ではありませんか。まして、父親は不詳なのでしょう」
ミハエルの父親のことは誰にも告げてはいない。知っているのは儂と、亡くなった彼と、そしてこの記録をいずれ視ることになる次代の大巫女だけ。
「お主がそう思うのなら、その両目は節穴ということじゃな」
その時、ミハエルが小さな手をヘイムダルの石版に伸ばした。柔らかな指先がウグイス色の石に触れ、一瞬強い光が空間中にほとばしる。
「これは……!?」
アディールのうろたえる声がした。
この光はミハエルの呼びかけに神石ヘイムダルが応えた証。従来であれば当代の中で最も神通力の強い女児でしか成しえなかった
「この子は間違いなく大巫女の器じゃよ。ミハエルこそが儂の意志を継ぐ者じゃ」
儂がミハエルの頭を撫でていた、その時だった。
身体が強く後ろに引っ張られた。とっさに抱きかかえていたミハエルを石版の台座に預ける。羽交い締めにされ、身動きが取れない。息が苦しい。
「アディールッ……! これは一体……!」
「母上……あなたは余計なことをしてくれました。せめてもの親子の情けで、次代の大巫女くらいあなたに選ばせてあげようと思いましたが、残念ながらもうその猶予はありません」
アディールの冷たく囁く。何とか彼の拘束を抜けようとしてみても、さすがに身体の衰えが言うことを聞かない。
「お主、何を……んぐッ……!?」
アディールの手が儂の口を覆い、その瞬間口内に強い苦味がわっと広がる。
アディールが拘束を解き、その反動で儂の身体は”祈りの間”の床面に叩きつけられた。
喉が焼けるように熱い。むせる度に意識がぼんやりとして力が抜け、儂はその場に倒れこんでいた。
「ハァ……ハァ……アディール……儂に、何を、飲ませた……ッ!」
幼いミハエルは、何が起こっているのか分からないまま泣きわめいている。だが、その声すらだんだんと遠くにあるように感じて耳が膜を張ったように機能しない。
アディールは冷笑を浮かべた。
そしてしゃがみこんで儂に目線を近づけると、声を潜めて言った。
「ルーフェイの薬師は素晴らしい技術を持っておりましてね。何日も気づかれないように食事に仕込み、やがて病に見せかけて人を昏睡状態に陥らせることができる毒を調合できるのです。まぁ今はついカッとなって残り数日分の毒を一気に投与してしまいましたが、さほど計画に支障はないでしょう」
「アディール……お主……は……」
「いいですか、母上。もはや”千里眼”による政治など時代遅れなのですよ。あなたが一番それを分かっているはずでしょう。二つの国を大戦まで導いてしまったあなたが!」
アディールはそう言って、泣きわめくミハエルの方に近づいていく。
「や……め…………ろ…………」
儂の手は力が入らず、台座には届かない。アディールは見せつけるようにしてミハエルを抱きかかえると、にっこりと微笑んだ。
「ご安心ください。この子を殺すような真似はしませんよ。仮にも兄弟ですから。ですが……私の邪魔はさせません。異端児として一生牢獄で過ごしてもらいましょう。そしてこの力は私のためだけに使わせる。それが、この子が生き延びるための唯一の道です」
「……馬鹿、者が……! 『終焉の時代』が始まって……このままでは、我らも滅びる……なぜ、それが分からんッ……!」
「ククク、まだそのようなおとぎ話を信じておられるのですか。これからは武力と経済がものを言うのです。時代に乗れない老人は、どうか安らかにお休みくださいませ」
アディールがミハエルを連れて”祈りの間”を出て行く。しんと静まる空間の中で、儂の意識はだんだんと暗闇の中へと落ちていった。
——ミトス創世暦九八九年。
『終焉の時代』の到来による影響なのか、儂は再びこの世に意識を取り戻すことができた。
じゃがもう時間は僅かにしか残されていない。この記録を終えたら、おそらく二度と目を覚ますことはないじゃろう。
儂は残りの力を振り絞り、眷属を一体生み出した。詳しくは視えぬが、時の島の未来に歪みが生じている。ミハエルの存在が
そして、これが最後の記録である。
ミハエルよ。
お主を過酷な境遇に晒した父と母を恨んでおるじゃろうか?
それで救われるのなら、好きなだけ恨むが良い。
じゃがお主は力を持つ者じゃ。力を持つ者は、必ずそれを活かさなければならぬ。使わないのであれば利用されるまで。そしていずれ己の生に意味を見出すことなく朽ち果てるであろう。
強く生きよ。
儂がお主に望むことはただそれだけじゃ。
お主がありのままにいられる場所であれば、どこに生きようと構わぬ。どんな人間と共に過ごそうが構わぬ。
志半ばにして散る父母に、その力強い生き様を見せておくれ。
そして孤独に苛まれそうになった時は、どうか思い出してほしい。
我らはいつもお主を見守っている、と——。
***
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