三幕『混沌の坩堝の、その片鱗』Ⅴ


 私とリズィが覗き込んだ赤ん坊の瞳は、不思議な輝きを宿していました。穢れないようでありながら、何処か淀みのある――そんな赫い双眸。

 私は、暫しその瞳の不思議な輝きに目を奪われ……そして、ふと気づく。

 ――……ああ、これは駄目だ。

 そう、頭の中で何かが訴えた瞬間、私は急速に自分の陥りかけている状況を理解し、一緒に赤ん坊を見ていたリズイの肩を摑んで後ろに引いた。

 途端、リズィが「おう?」と声を漏らして目を瞬かせる。表情を歪め、何が起きたのか判らない様子で首を傾げる姿を見て、私は確信した。

「――……【魅了】、ですか?」

以前まえの教訓が活かされてるな。偉いぞ」

 背後から、皮肉交じりの称賛の言葉。振り返れば、ミスタ・トバリが含みのある笑みを浮かべて私たちを見ていた。私は「知っていたなら教えてください……」と溜め息をつく。

 ミスタ・トバリは笑みを崩さず、未だ何処か上の空の様子のリズイの目の前で指を数度鳴らして見せた。リズィはその指を見て、何度か目を瞬かせた後、漸く意識がまとまったのか、「今の……?」と零しながら難しい表情を浮かべた。

 ミスタ・トバリがそんなリズィの頭をぽんと叩き、続けてミスタ・スペンサーの腕の中の赤ん坊をのぞき込み、「やっぱりか……」溜め息を吐いた。

「――……チェンジリング……それもサクリファイス・ベイビィか。碌でもないもん持ってるなとは思ったが……予想以上だな。なんつーもん持ち込んでんだよ」

「取り換え子、ですか?」

 いつか――そう。私が初めてこの事務所に足を運んだ際に、彼が比喩として持ち出した欧州の逸話。人間の子供と妖精の子供を密かに入れ替えて人間に育てさせる――取り換え子妖精。

 今その話を持ち出すということは、この赤ん坊がそうなのでしょうか?

「――正しくは、その子は取り換えられた子だな。だからこそ、事態は一層ややこしい」

 伯爵が頭を抱えながら言う。ややこしい……と彼は言ったが、なにがややこしいことになっているのだろう。

 私は思いつく限りの神話や伝説、民間伝承を振り返ってみる……が駄目だった。幼少の頃からお伽噺や物語よりも、姉の機械に対する論調を聞かされて育ったのがいけないのかもしれない。父や母が学者として身を立てていたのもその意一因だと思う。

(……もう少し、それらしい話をねだっておくべきでしたね)

「――めんどいの?」

 一人落胆する私の隣で、リズィが端的に問いを投げた。こういう時、この子の直接的な感性は本当に助かる。

 リズィの問いに、伯爵は「厄介だとも」と強く頷いた。

幻想種ファンタズマが関わる案件は、総じて面倒ごとであることが多いのだよ」

「ふぁんたずま……?」

「幻想種……ですか?」

 私とリズィが、揃って首を傾げると、伯爵は驚いたように目を見開いたのち、「ああ……」と納得した様子で口を開いた。

「幻想種というのは、一言で言うならば伝説上の生き物たちの総称だ。現在にまで語り継がれる様々な伝説や神話上の生き物たちに、空想上の動物と呼ばれる生き物、あるいは種族をそう呼ぶのだ」

「伝説や神話の生き物や種族……ですか」

「ドラゴンを筆頭に、妖精フェアリー聖領域の守護者ハイ・エルフ黒イ犬ブラックドッグ幻鷲翼馬ヒポグリフ。吸血鬼に人狼ウェアウォルヴもそう。ティル・ナ・ノーグの妖精王など、最たる存在の一つだ。

 極東の河童や鵺などもそれだ。

 凡そ、人間の常識は通用せず、人間なんかよりもずっと遠い昔からこの世界に存在する住人たち――それが幻想種と呼ばれる存在だ」

 滔々と列挙された存在の名前は、勿論私だって知っているような伝説上の、あるいは物語の中に登場する生物たちの名前だった。

 そう、物語上の存在。

 人の空想が生み出した、しかし実際には存在しないはずの生命。

 それを、伯爵はまるで本当にこの世に存在しているかのように話している。私は暫くそれがどういうことを意味しているのか判らず、何度も彼の話を頭の中で繰り返し、その言葉の裏に隠れているのかもしれない真意を探してみたのだけれど……そうやらそういう謎かけや暗喩をしているわけではないらしかった。

 そろそろミスタ・トバリ辺りが否定の籠った皮肉を伯爵に投げかけるのではと、期待を込めて視線を向けたが、彼は壊してしまった壁の穴の様子を見て「……直すのは無理だな」と独り言ちている。

 どうやら、助け舟はでないらしい。私は唸りながら何度も首を左右に繰り返し傾げているリズィを見て、ついで伯爵を見て、そして恐る恐る訊ねた。

「……一応聞きますけど、冗談でも、夢物語を語っているわけでもなく……」

「――……いるの?」

 私たちの言葉に、伯爵は「無論だとも」と力強く頷いて見せる。

「理解し難い。あるいは受け入れがたいのかもしれないが、私は何も嘘を言っているわけでもな、空想願望を語っているわけではないよ、二人とも。

 だが、彼らは確かに存在している。現存している。人間よりも高次元的存在であるがゆえに認識し難い存在であるし、我々人間と彼ら幻想種の間には、古の時代に結ばれた幾重もの盟約によって、その交流は極めて制約的であり、限定的であるが……決して想像上の、物語の中だけの存在ではない――ということだけは判ってほしい」

 そうは言われても、納得し難いような……私とリズィが揃って難しい顔をすると、ミスタ・トバリが呆れ顔で此方を見ながら「――お前ら、ホームズのところで見てるだろ」と口をはさんできたので、私は「どういうことですか?」と問いかける。すると、ミスタ・トバリは嘆息しながら言った。

「アイリーン・アドラー……あれは上位精霊ハイ・スピリットだ。あの女が、今まさにヴィンスが説明した、幻想種の一種だ」

「……わーお」と、目を丸くしたのはリズィだ。だけど、反応だけなら私も似たようなものだったと思う。

 アイリーン・アドラーは、ミスタ・ホームズの傍らに佇むあの美しい女性の名前だ。確かに、言われてみればそうだと私は納得する。あまりに言動が人間味が強かったから忘れがちになっているけど、あの人は確かに精霊と紹介されたのを思い出す。

 そういう実例を挙げられてしまうと……確かに、その存在を否定するができなかった。だって私は、もう何度となく彼女と遭遇しているのだから。

「そもそも、レヴェナントだって市井じゃあ都市伝説扱いだろ。だが、お前たちはレヴェナントが実在することを知っている。結局はその存在が〝実在する〟ことを理解しているかいないかの違いだ。つーことで、うだうだ悩んでねぇで、いるんだってことを前提で話を聞いてろ」

「うい」

「わ、判りました……」

 リズィが素直に頷く横で、私はどうにも釈然としない気持ちになりながら答えた。ミスタ・トバリの話は、聞いていれば確かにわかりやすい納得を抱けるのだが、その後ろに加えられた余計な言葉に眉をひそめてしまう。

 そんな私たちを見て、伯爵たちは微苦笑を浮かべながら続けた。

「妖精が子供を連れ去る理由は様々と存在する。そのうちの一つ、スコットランドの伝承においては、しばしば子供は地獄を行き来するための対価に用いられることがある」

「子供を税金に……いつの時代の話ですか」思わず苦言を零すが、伯爵は「何を言うのかね」と肩を竦める。

「今だって大国同士、あるいは商会同士が、金銭の代わりに労働力として奴隷を取引の材料にするじゃあないか。エルシニア、それと同じことだよ。彼らは自分たちの子供を支払うのが嫌で、その代わりとするべく人の子を攫うのさ」

 それは大分話の意味が変わってくるのでは? と思いはしたものの、今の本筋とは関係ないので、私は言及することをどうにか堪える。

「……その話と、この赤ん坊にどんな繋がりが?」

 矢次の訊ねると、伯爵は目を丸くして私を見て――ついで失笑を浮かべた。

「はははっ。聡明な君にしては、随分と理解が遅れているじゃあないか。トバリが言っただろう、生贄の児子サクリファイス・ベイビィと」

「生贄……って――まさかっ!?」

 驚いて大声をあげた私は、ミスタ・スペンサーの腕に抱かれた赤ん坊を振り返る。「君が今想像した通りだよ、お嬢さんレディ――妖精に連れ去られ、サン=ジェルマン伯爵曰く交通費代わりになろうとしていた赤ん坊……それがこの児だ」

 無垢そのもののような表情で私を見上げている赤ん坊。その子を腕に抱えたミスタ・スペンサーが肯定の言葉を口にする。

「そして、そうなる寸前で僕が奪取した――まではよかったんだけどねぇ」

「どゆこと?」

 いつの間にか再び赤ん坊の様子を見ていたリズィが首を傾げる。私も、不思議に思う。攫われた子供を助け出したというのなら、問題はすでに解決しているはずなのに、どういうわけかミスタ・スペンサーの表情は晴れなていない。

(なにか問題トラブル……では、それがこの方たちが事務所此処に来た理由?)

 自体がいまいち摑み切れず、私は黙考する。すると、沈黙を保っていたマイクロフト氏が赤ん坊に視線を向けながら口を開いた。

「既にことはなってしまっている――ということだよ。小さなお嬢さん」

?)

 その言い回しに、私は余計に理解が追いつかずに唸ってしまった。

 そんな私を他所に「ふーん」とリズィが一人納得顔で頷いた。まさか今の説明で判ったのだろうか? と驚いてリズィを見る。

 だけど、すかさずミスタ・トバリが「――ふーん……じゃねぇよ。お前絶対判ってないだろ」と彼女の頭を小突き、続けて彼は視線鋭くマイクロフト氏を睨んだ。

「テメェも説明になってねぇよ。今テメェが相手してんのは、何でも判っちまう弟とその相棒じゃなく、まだまだひよっこの半人前ガキと、不慣れなお嬢さんなんだぜ。丁寧に説明してやれ。ましてやテメェは依頼人だ、ミスタ・ホームズ。依頼をするなら、しっかり仕事内容を説明しろ。説明は得意だろ、お役人様」

「噂に違わぬ口の悪さだね、《血塗れの怪物》。しかし、ふむ。確かに君のその汚言にも一理ある……」

 ミスタ・トバリの不遜な物言いに、だけどマイクロフト氏は納得したように頷いた。目元を隠す仮面のせいで、どんな表情を浮かべているのかは判断できなかったけれど、彼は私とリズィを見て僅かに頭下げて。

「失礼した、お嬢さんレディたち。どうやら私は、全員が事態を理解している前提で話を進めていたようだ」

 マイクロフト氏の言葉に、私は慌ててかぶりを振った。

「いえ……どちらかといえば、私が浅学なせいだと思います。伯爵にせよ、ミスタ・トバリにせよ。話を聞いている限りある程度の状況を察知しているようですので」

「彼らは、言ってしまえばこの手の問題においては専門家だ。むしろ、ある程度察してくれなければ困るくらいだな。それは置いておくとして――確かに、仕事ビズを依頼するならば、仕事に関わる面々メンバーに端的でも説明をするのが道理だった。これでは部下を叱れないな」

 含みのある言葉をマイクロフト氏が口にすると、ミスタ・スペンサーが、「まったくですねー」と苦笑いした。

「数週間前、政府直属の研究機関で働いていた研究員が行方不明になっている。政府は彼の失踪に事件性がないか調査することにした。目下調査中だが、未だその研究員の足取りは掴めていない。しかし、彼には子供がいた。それが今、スペンサーの腕の中で寝ている赤ん坊というわけだ。

 失踪する少し前に、研究員が子供について言及していたそうだ。それもかなり深刻な表情で……ね。だから我々は、彼の足取りを摑むためにも赤子の捜索を行った。

 そしてようやく赤子の所在が判明した時には、その赤子は取り換え子として幻想種に拉致された後だった。

 しかし、幸運にもこのスペンサーが赤ん坊の救出に成功したわけだが……そこで問題となるのは、先程サン=ジェルマン伯爵と《血塗れの怪物》が口にした通り、その子は〝取り換え子〟に関する件だ」

「問題?」とリズィが首を傾げる。気持ちは私も同じだった。取り換え子の逸話では、取り換え子に親が気づいた時点で、妖精たちは取り換え子を元に戻すはず。

(……この赤ん坊を取り返すのに、何か問題があるのでしょうか?)

 そんな私の様子を見かねたのか、あるいは話さなければと思ったのか……ミスタ・スペンサーが赤ん坊の様子を見ながら言った。

「さっき、伯爵殿が言っていたやつだよ、美人さん。税の対価として用いられることがあるって。この子は、その税の対価として既に支払われてしまっているんだ」

「つまり、我が部下の行動は、誘拐された子供の救出ではなく、取引が成立したものを横から奪い取った――即ち略奪行為ということになる」

 ミスタ・スペンサーの言葉を引き継ぐようにしてマイクロフト氏が淡々と語った状況に、私は言葉を失った。

「当然、この赤ん坊を材料に取引をした幻想種は、必死になってこの赤ん坊を探している。ご丁寧に、アンカーまで施されているため、この児が目を開いている間は、幻想種たちに存在が気づかれてしまう……」

「だから機関魔導式で可能な限り寝かせてるんだよねー」ミスタ・スペンサーは機関式時計を手にしながら苦笑した。それはそれで、その赤ん坊の今後が心配になるのですけど……という突っ込みは入れないほうがいいのでしょうと、私はそれは必要な措置なんだと強引に自分を納得させる。

「そのうえ、どういう理由かは不明だが、あの浮遊するレヴェナントにまで追いかけ回されているとなれば、その両方に通じる専門家に頼る以外なく――そして、それに該当する者は、此処にしかいない」

 この場にいる人たちの視線は、自然と彼に集束した。

 彼に――ツカガミ・トバリに。

 腕利きの請負屋にして《血塗れの怪物》の異名を持つレヴェナント殺し。そしてこれまでの会話の流れから察するに、恐らく彼は幻想種なる存在とも渡り合えるのだろう。確か彼は極東でも有数の魔祓いの血筋でもあるそうだし、血筋それが関係していることは想像に難くない。

 といっても、視線を向けられた当人はというと、別段その指摘を誇るでもなく、ただ腕を組んで口を一文字に引き結び佇んでいる。

 そんな彼の態度にこそ満足したというように、マイクロフト氏は両手を二度合わせてから、私たちを一瞥しながら言う。

「我々英国政府からの依頼オーダーは――私の部下であるこの男、レナード・スペンサーの一定期間の護衛だ。まあ、正しくは彼が保護した赤ん坊を、あらゆる外敵から守ってほしい。

 起源は次の満月の日までだ。そうすれば、もろもろの問題は――少なくとも、〝取り換え子〟についてはそれで解決する」

「満月――となれば、一〇日後か……ふむ」

 伯爵が懊悩するように目を閉じた。恐らく、この依頼を受けるかどうかを考えているのでしょう。

 しかし、どうやらマイクロフト氏はこれ以上待つつもりはないらしく、

「それで、依頼を受けるか否かの返答を、そろそろ聞かせてもらいたいのだが?」

 と、伯爵の返答を急がせた。

 伯爵は閉じていた目を開き、マイクロフト氏を眺め、続けてミスタ・スペンサーを見た。

「幻想種たちとの盟約を破ってしまった君たちの行動はさておいて……レヴェナントが関わっている以上、見ざる聞かざるというわけにもいかないだろう。引き受けるともさ」

「それはありがたい」と、伯爵の答えにマイクロフト氏は満足した様子で鷹揚に頷くや否や、彼は颯爽と立ち上がる。そして優雅と称するに相応しい所作で立て掛けていたステッキを腕に引っ掛け、外套と帽子を手に取った。

「――それでは、私はこれで失礼する。これでなかなかに忙しい身の上でね。どうか私の部下を宜しくお願いする。軽薄ではあるが、それでも他に代えがたい男だ。どうか守ってくれ」

 そう言い残すと、マイクロフト氏はもうこの場に用はないと言わんばかりに踵を返し、颯爽と事務所を去っていった。

 そして、残された私たちはというと……

「えーと……というわけで、暫くの間よろしく?」

 一人取り残されて、結果何処か困ったように眉尻を下げたミスタ・スペンサーの、そんな挨拶を訊く羽目になったのである。


      ◇◇◇


 ――パタン、と。

 ミスタ・スペンサーを空いている部屋に、リズィが案内するために部屋を後にした。

「ようやく、事態を理解しました……できれば次からは、無知な人間にも判るように、早々に理解している誰かが説明してくれても良いと思うのですけどね」

 同時に、私は溜め息を吐きながら皮肉を零す。しっかりと、視線はミスタ・トバリと伯爵に向けた上で、だ。

 二人は揃って互いを見やり、どちらともなく肩を竦めた。ミスタ・トバリはやれやれと溜め息を吐き、伯爵は微苦笑を浮かべ――そして噤んでいた口を開く。

「まあ、申し訳なかった。今後は同じことがないように、必要とあらばすぐにでも説明することを心掛けよう」

「是非に、そうしてください――貴方もですよ、ミスタ・トバリ」

 使い終わったティーカップを片付けるミスタ・トバリに声を掛けると、彼は億劫称に渡し見て、

「ん? ああ。善処するさ」

 と、適当な返事で応じた。

「絶対しませんよね、その生返事は」

「今する話か、それ。それよりも仕事ビズの話だろ。仕事の」

 私の追及を受け流し、強引に話の流れを変えながら、ミスタ・トバリは続けた。

「満月って言ってたが……ロンドンじゃ何処に行ったって空は見えないぞ。意味がないだろう?」

「いや、月齢を利用した儀式――という意味合いでは、月が見えていようが見えていまいが関係はないな。勿論、月光を利用した魔術儀式を想定するならば、月が見えていることが望ましいが……今回相手となるのは幻想種だ。我々にとっては常識的見解でも、幻想種かれらにまで適応するとは限らないからね」

 伯爵の指摘に、ミスタ・トバリは「それもそうだが……」と、納得しながら難しい表情を浮かべた。

「……しかし、幻想種に追われる赤子に、レヴェナントに追われる男か。一体どのようなめぐりあわせをすれば、そんな状況になるのか……興味深いね」

 くつくつと笑う伯爵の姿に、ミスタ・トバリが肩を上下させながら「出たよ。面倒ごとに好き好んで首突っ込むやつ」と言うので、私はそんな彼の言動にこそ呆れてしまい、つい指摘の言葉を口にした。

「貴方が人のこと言えますか? ミスタ・スペンサーを助けに入った貴方も同類ですよ」

 すると、ミスタ・トバリは気まずそうに口を噤み、視線を漁っての方向に向けて黙々と片づけを続けた。

 そんな私たちのやり取りを見て、伯爵が声を上げて笑った。

「一本取られたな、トバリ。いやはや、口の悪さでは君の方が上手でも、口論するなら俄然エルシニアの方が強いようだね」

「へーへー。そーゆーことでいいよ」

 と、ミスタ・トバリは何処までも投げやりな返事をしながら、伯爵に言った。

「――ともかくだ。ヴィンス。情報が少な過ぎる。さっきのマイクロフトの話じゃあ、判らないことだらけだぜ」

「そうだな。レヴェナントといい、幻想種といい、判っているのはそれらの存在が彼らを狙っている――という程度。これでは対策のしようがないのは言うまでもない」

「それに……マイクロクト氏の話やミスタ・スペンサーの状況で忘れがちですけど、レストレード警部の事件の調査も必要ですよね?」

 私の言葉に、ミスタ・トバリと伯爵は顔を突き合わせて溜め息を吐いた。

「そういやそうだった……お前が安請け合いするからだな」

「あの段階では、此方の方が優先度が高いと思ったのだよ。しかし蓋を開けてみれば、どちらも厄介という意味では同等イーブンだったがね」

 言い終わると、伯爵は重い腰を持ち上げ、長椅子から立ち上がった。

「まずは、レナード・スペンサーを預かるにあたって、この集合住宅の防衛強化だな。結界を強化し、彼らの部屋の防御と存在を遮断する術式は用意できる限り最高のものに整えよう。それで暫くは時間を稼げるはずだ」

「だといいがなー」と、ミスタ・トバリが軽口を叩いた。伯爵は顰め面になりながら、

「茶々を入れるんじゃないぞ、トバリ。君も働くんだ」

「何処に行けばいい?」

 淡々と、彼は言葉を口にする。それは質問というよりは確認に近い口調だ。これから何をすればいいのか判っている――そんな様子で、ミスタ・トバリが訊ねると、伯爵は私に視線を向けた。

「エルシニアと共に、パーウィック・ストリートのマダムのところへ行ってくれ」

「あそこに行くなら、まだリズィのほうがましだろ……少なくともこちらのお嬢さんレディ同伴で行く場所じゃあないと思うけどな……まあ、了解だ」

 言うや否や、ミスタ・トバリがカップを重ねたお盆トレイを持って事務所兼書斎を後にする。

 私は、それを黙って見送った。いや、見送ったというよりは、その場で立ち尽くしていた。

 いや、ええ……はい。

 私は困惑する。

 私は混乱する。

 しないわけがなかった。

 だって、えーと……今この人たちが何気なく交わした会話の中に、信じられない名称があったから。

(パーウィック・ストリート……にって!? だってあそこは……え、えええええええ!!?) 

 名前だけは知っていた。

 叶うならば知らぬままでいたかったけれど、 残念ながら私は知っている。

 ソーホー地区の、パーウィック・ストリート……そこは、ロンドンでも有数の快楽街であり、そして……娼館が立ち並ぶ通りの名前だった。





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