遠く――というほどではないが、背後の通路を破壊した大機関の拳と、それによって生じたすさまじい破砕音によって、自分を蹴り飛ばした友人の叫び声は聞こえてこなかった。

 何と言ったのかはまあ、大体想像がつくのだが……それにしても、だ。


「まったく……酷いことをするな、トバリめ」


 背中を足蹴にされ大きく突き放されて無様に顔から床に倒れたヴィンセントは、鼻頭を抑えながらさっさと立ち上がって、背後の通路を破壊した大機関の拳から離れようと歩き出す。

「――だ、大丈夫ですか? 伯爵」エルシニアが倒れたヴィンセントに駆け寄り、彼と共にすぐ傍にあった通路に駆け込みながら心配そうに此方を見て来たので、ヴィンセントはすぐに佇まいを正して真摯に頷いて見せた。


「ああ、大丈夫だ。むしろこの程度で済んだのは幸いだろう。彼に蹴り飛ばされなければ、今頃私は肉片になっていただろうしね」


「それは否定しませんが……もう少しこう、助け方というものがあったのではないでしょうか?」


「まあ……それは否定しないがね」


 眉を顰めながら言うエルシニアに、ヴィンセントは同意を示すように片眉だけを持ち上げて苦笑する。

 そして五〇メートルも歩かないところで足を止め、振り返りながらエルシニアを見据え、


「――さて、ミス・エルシニア。トバリはああ言っていたが、こんな事態だ。君の姉君は我々を逃がすつもりはないだろう。勿論、我々も彼女をこのまま野放しにするつもりはない。君には申し訳ないがね――彼女は、此処で討たせてもらう」


 ヴィンセントは努めて冷徹に言い放った。残酷かもしれないが、彼女の思想や行動は、最早看過するわけにはいかないものだ。下手をすれば〈アルケミスト〉に並ぶ――あるいは上回りすらする狂信と妄執。あらゆる既存の生命に微塵の価値を置かず、鋼鉄と機関の世界こそを是とするのならば――例え彼女が〈アルケミスト〉に連なる者でなかろうとも、ヴィンセントは討たねばなるまいと強く感じたのだ。

 それは錬金術師としてではなく。

 元〈アルケミスト〉であるからでもない。


 ただ、超命なれど――この現在に生きる一個人として、彼女の存在は認めるわけにはいかないと感じた故の決断である。


 ヴィンセントの言葉に、エルシニアは僅かに目を丸くしたが――数秒の沈黙ののち、沈痛な面持ちを浮かべながら、しっかりと此方を見て力強く頷いた。


「――……判っています。そうしなければならないのだということはもう……私自身理解しているつもりです。それに――ついさっきですが、私の中でも、姉との決別の決心はつけたつもりでいますから」


 今にも泣きそうな――涙を堪えたような表情でそう告白する少女の姿に、ヴィンセントは僅かに沈黙した。そして、


「――……そうか。ならば、私から言うべきことはもうあるまい」


 嘆息すると共に微笑を浮かべ、その肩をポンと叩きながら頷く。


「君は、君の為すべきことを。私は私の為すべきことをしよう――さしあたって、君は向こうへ」


 言って、ヴィンセントは今まさにと追って来た道を指した。エルシニアはその道の先に視線を向けてしっかりと頷いて見せた。


「伯爵は、どうするのですか?」


「役割分担だよ、ミス・エルシニア。前衛フォワードは彼の領分。そして私の領分は君が言った通り――裏でこそこそすることだ」


 にやりと、意地の悪い笑みを浮かべてヴィンセントは肩目を瞑って見せる。

 そんな彼に様子にエルシニアは肩を竦め――微笑を浮かべた。


「何をするつもりなんですか――と訊いても、答えてはくれなさそうですね?」


その通りだイェス。ただ、言えることがあるとすればそうだな……君たちが勝利を手にしなかった場合、無駄になるようなことだ」



「――くそったれめ、、、、、、



 突然、エルシニアがそんな科白を投げつけて来たので、ヴィンセントは寸前までの茶目っ気を宿した表情を一変させ、その猛禽の如き双眸を丸く見開いた。

 そんな彼を見て、エルシニアは声を零して笑い、


「――と、ミスター・トバリなら言うでしょうね」


 そう言い残して、彼女は颯爽と踵を返して走り出した。立ち止まることなく、一直線に。そして通路の果てで鋼鉄の翼を広げると、一瞬にしてその姿は見えなくなって――

 その背を、目を丸くし痴呆のようにあんぐりと口を開けたまま見送ったヴィンセントは、やがてその肩をゆっくりと震わせ――そして、そう。かつてあの夜。血塗れの若者に出会った時と同じように、腹を抱えて天井を仰ぎ――笑った。


「ふは……ふははは。ふははははははは! これは、これは――見事にしてやられたものだ! ああ、素晴らしき哉、素晴らしき哉!」


 今の状況を考えれば、何一つ素晴らしいことなどないだろう。切迫し、緊迫し、友は今もなおその命を文字通りかけながら、自分よりも遥かに巨大な怪物地、それを従える魔女と戦っているというのに――自分はなんということか。少女の放った見事な一撃に、腹を抱えて笑ってしまうとは。

 笑って。

 笑って。

 笑って。

 目の端に浮かんだ涙を指で拭って、漸く笑いが収まった頃には、優に一分は過ぎていたかもしれない。

 ヴィンセントは頭の上のトップハットの唾に指を添え、ほんの僅か目深に被ってから、改めて今しがた自分が歩き、少女が走り去り――そして、《鮮血の怪物グレンデル》たる友が戦っている大機関区画を見据えて、今度は不敵で、怪しい、これぞヴィンセント・サン=ジェルマンと言われるであろう笑みを浮かべながら、祈るように言葉を口にした。


「――さあ、我が友よ。レヴェナント狩りの《鮮血の怪物》たる君よ。私が選んだ、ただ一つの存在。汝は、怪物を狩る――そのためだけの獣。

 さあ――その神すら鏖殺せし爪で。

 さあ――その伝説すら喰らう牙で。

 容赦なく、

 一切合切の遠慮なく、

 平和を脅かす者たちを須らく討ち滅ぼせ! ツカガミ・トバリ――君こそが、このロンドンに流布される唯一つ《都市伝説殺しの対抗神話フォークロア・キル・フォルクール》なのだから!」







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