終幕『ブラッド=レッド・フォルクール』



 今日も今日とて、ロンドンの営みに代わり映えはない。

都市の半分は蒸気に覆われ、頭上には、やはり相変わらずの灰色の空が広がっている。

 その空の下、人の往来もまた、相変わらず。悪天によって降る排煙から身を守るように外套を頭から被った人々が行きつ行かれつ。大量の機関式自動四輪ガーニーが蒸気を吐き出し、けたたましい駆動音を響かせて走り抜けていく。その隣を、蒸気馬に引かれた馬車が大通りを闊歩する。都市に張り巡らせた無数の線路を、幾つもの蒸気機関車が黒煙を吹きながら客車を運び、回転羽根付飛行機ダ・ヴィンチ=フライトや機関飛行船が灰色雲の下を飛び交う、まるで混沌を絵に描いたような在り様――それはいつも通りの、悲しいくらいいつも通りのロンドンの姿だ。


 ――だけども、大機関の音はならず。


ゴゥンゴゥンゴゥン――という、いつも聞こえるはずの音が聞こえない。

ロンドンの何処にいても聞こえるはずの大機関の音が、ここ数日は何処にいても聞こえてこなかった。

 あの耳につき機械音は何処にもなく、都市の各所から噴き出す蒸気は鳴りを潜めている。

 当然だ。何せ今、大機関は跡形もなく消滅しているのだ。当然その駆動音が都市に響くことなどあるはずもなく、ロンドンの都市はいつもより少しだけ静か――なんてことがあるわけもない。

 ロンドン全土は――特に政治中枢は大混乱を極めていた。なにせ大機関が賄っていた都市の大部分のエネルギー供給が完全に止まってしまったのだ。ただでさえ大機関消滅寸前の爆破事件で、安眠を貪っていた高官たちが叩き起こされ、今や何日も眠らない日々を送りながら事態の収束に奔走していることだろう。

 勿論、それは新聞やラジオ放送によって得た情報を精査し、吟味した上できっとこんな風になっているんだろうな、という勝手な判断に過ぎないのだが――まあ、自分たちにはもう関係ないことだろうと、トバリは実に無責任な判断を下しながら欠伸を噛み殺した。

 いつもの事務所、いつもの応接間の長椅子に寝ころびながら、トバリは先日の騒動のことなど忘れたように新聞の記事を眺める。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――


『大機関消滅! ロンドン大混乱!』


 三日前に起きた爆破テロ事件。ロンドン中枢地区を中心に都市各所から凄まじい火柱が立ち昇ったことは、今も市民の記憶に新しい。未だ犯行グループからの声明は今もなく、犯人の正体は不明。

 しかし大機関が動いていないことから、犯人の目的は大機関を狙った対政府組織テロリストによるものと見てまず間違いないだろう。

 現場の状況はいまだ不明のまま、英国政府からの発表はない。一部では破壊されたとも、消滅してしまったともいう噂が聞こえてくるが、その情報の真偽は一切不明である。

ロンドン市民の不安を払拭するためにも、とにかく一刻も早い復旧を願うばかりである。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――




「……的外れな新聞だなぁ、おい」


「なぁに。報道機関ジャーナリズムというものは、売れる記事を書くのが仕事であって、真実を伝聞させるのは二の次なのだから、そういう記事にもなるさ」


 執務机の上で同じような内容の新聞に目を通していたヴィンセントが、くつくつと笑いながらそう嘯く。

 トバリは新聞を折り畳みながら、じろりとヴィンセントを睨みつける。


「なぁに我関せず、みたいな涼しい顔で言ってやがんだ。ロンドンの地下を派手に爆破したのお前じゃねぇか」


「ならば大機関をあとかたもなく消し飛ばしたのは、間接的には君でもあるだろう。なんなら、今から二人揃って出頭でするかね?」


「それこそ冗談じゃねぇ。行くなら一人で行ってくれ。俺は極東に逃げ帰る」


「薄情な友人だな、君は」


 むっと眉を顰めながら言うヴィンセントに対し、トバリは口の端を釣り上げながら皮肉を零した。


「――忘れたのか、ビジネスライクだろ?」


「こっちは君を友人と思っていると言うのに、冷たい男だ」


「友達は選べよ」


「選んでいるとも。だから君を友と呼んでいる」


 真顔で言って微笑むヴィンセントに、トバリは言い表しようのないむず痒さを覚えながら嘆息し、気を取り直すように寝転んでいた身体を起こすと――


「――なあ、ヴィンス。ヴィンセント・サン=ジェルマン。一つ聞きたいことがあるんだが、良いか?」


 ――視線を僅かに鋭くしながらそう訊ねた。

 すると、ヴィンセントもトバリの気配の質が変わったことに気づいたのだろう。口元の笑みは相変わらずのまま、彼は真剣な面持ちで首肯する。


「無論だ。何でも聞いてくれ。私が答えられることならば、なんでも答えるさ」



「――フォルクール……ってなんだ?」



 アリステラを殺し、大機関が消滅させ、世間では大機関事件と騒がれるようになった日から――市街に出ると何処からともなく聞こえてくるようになった噺があった。

 韻を踏んだように口にする路地裏の子供たちの声や、機関酒場から聞こえてくる酔っ払いたちの談笑の中に耳にする――怪物を喰らう獣の話。


「ここ数日でやたら耳にするようになったあの噂話――流布ながしたのはお前だろう?」


 トバリの問い――いいや、確認の言葉に、ヴィンセントは隠す様子もなく肯定の意を示す。


「その通りだ。君が聞いた噺は、私が生み出し、人伝に彼方此方で語らせているものだ」


「……何のために、そんなことを?」


「対抗神話だよ、トバリ」


 ヴィンセントはニヤリと笑いながらそう言った。しかし、トバリは意味が判らず首を傾げる。対抗神話なんて言葉は初めて耳にする言葉だった。

 首を傾げるトバリに、ヴィンセントは「仕方がないな」と苦笑しながら口を開く。


「簡単に説明するとだね――要は、都市伝説を否定する対になる話のことをそう呼ぶんだ。

 そもそも都市伝説というのは、口伝で広まった事実無根の噂話にも拘らず、話の内容に真実味があるが故に〝この話は本当のことなんだ!〟と、聞いた誰もが思い、信じてしまうような一種の『現象』のことを指すのだよ。

 ミス・アリステラに創造された偽のパラケルススは、ロンドンにレヴェナントを開放すると同時に、そのレヴェナントの種類に類似する噂話を流した。

 そして夜な夜なレヴェナントによる被害は増えていく。

噂話が存在し、そしてその噂話に符合するような怪事件が続々と起きる――するとどうなる。答えは簡単だ。

 皆が噂話を信じ、その噂話を広げていく。噂だと思っていたところに、噂と同じ怪物が目撃されたり、被害者が出たりすれば――いやでも信じるようになる。

 真実味のある話は、やがて人々に恐れられるようになる。パラケルススの目的であった〝恐怖〟を蔓延させるには、効率が良い手段だったわけだ」


「……長々と説明ありがとう。それで――結局、対抗神話ってのは何なんだ?」


 ヴィンセントの長ったらしい演説に、トバリは若干辟易としながらそう尋ねると――彼は笑みを深めながら言った。


「都市伝説を否定する、対の都市伝説――それが対抗神話だ。たまに聞かないか?

 〝牛肉屋の肉が安いのは、実はあれは牛肉じゃなくて地下道のネズミの肉なんだ〟

 ――とか」


「一時騒がれてた奴か……それがどうしたんだ?」


「その話して、対になる――つまりは噂話を否定する噂話があるのだよ。

 〝牛肉屋の肉が安いのは、実はあれは牛肉じゃなくて地下道のネズミの肉なんだ〟

 という都心伝説に対し、その話は実は、

 〝ライバル店がその店の人気を落とすために流した嘘らしいぞ〟という感じにね。

 これが対抗神話――都市伝説フォークロアを否定する都市伝説フォルクールというわけだ」


 その説明を聞かされた――トバリは漸く、何故ヴィンセントが噂話を流布したのかを悟った。


「つまりパラケルススの――アリステラの都市伝説を殺すために、お前は『フォルクールの獣』なんて噺を作ったのか?」


 そう言うと、ヴィンセントは鷹揚に頷き、片目を瞑って見せながら言った。


「まあ、そういうことだ。正確に話ではなく――君を、だがね」


「――俺?」


 唐突過ぎる言葉に、トバリは僅かに目を見開いた。


 ――対して。


 ヴィンセントはやたら自信に満ちた表情と浮かべると、いきなり椅子から立ち上がって、まるで劇場の上の語り部の如く大袈裟に両手を広げながら言う。



「――ああ、君だよ《血塗れの怪物》。君こそが『フォルクールの獣』そのものだ。血に塗れたような外套を纏う、跋扈する恐怖の象徴レヴェナントから市民を救い上げる救世主ランナー。ロンドンに蔓延る都市伝説の怪物たちを殺し回る怪物ケモノ、《都市伝説殺しの赤き怪物フォルクール・オブ・グレンデル》――それが、君だ」


 ヴィンセントの言葉に、トバリは暫し唖然としたまま彼を見上げ――やがて盛大に呆れの色濃いため息を零しながら、


「……随分と大仰極まりない呼び名だな。そんなものいつから考えてやがったんだ」


 どうにか、言葉を口にすると、ヴィンセントは「よくぞ聞いてくれた!と指を弾き音を響かせて、あろうことかこう言ったのである。


「答えは、君と出会ったあの日からだ。君の登場は、まさに劇的だった。あの旬の君の姿に、私は胸が躍ったのを今も覚えている。レヴェナントすら圧倒し、鮮烈なまでに超然と姿を現して、怪物を平らげ言った君の姿は――私の脳裏に強く刻み込まれた。

 あの時、私は思ったのだよ。このロンドンに跋扈する恐怖を振り払う存在は、君であるべきだと――」


 そして、ヴィンセントにとっては幸と言える、トバリにとっては不幸とも言えるその目論見は、見事成功したわけである。


「君は、見事なまでに都市伝説を殺す獣フォルクールの名に相応しい存在となった。このロンドンにおいて、君という存在は、今やロンドンを脅かす怪異に対しての抑止力となっているわけだ。おめでとう、トバリ」


「……いや、何一つとしてめでたくねーよ」


 心の底からそう思って、トバリはヴィンセントの祝祷を正面から拒絶し項垂れた。結局、自分は終始この男の掌の上で踊っていただけだったらしい。

 彼の思惑通りに。

 彼の願い通りに。

 ロンドンの何処かで誰かが囁く物語の一つに、気づけば組み込まれてしまっていた。

 それもなかなか、悪くはない配役でだ。

 トバリは思わず失笑し、やがてゲラゲラと声を上げながら笑ってヴィンセントを見やる。


「――まあ、つまりはこれにてお役目ごめんってわけかな?」


「そう思っているのかもしれないところ悪いが……そうは問屋が下ろさないのだよ、トバリ」


 にたりと笑うトバリに対し、ヴィンセントはにんまりと不敵な笑みを浮かべながら首を振った。


「パラケルスス――いいや、アリステラは氷山の一角に過ぎない。むしろ彼女がいなくなったことで、これまで何もせずに静観していた者たちが、これ期にと悪だくみをしている可能性は……大いにあり得るんだ」


 真顔で言い放つヴィンセントに、トバリは眉を顰めながら苦笑いする。


「……冗談で、そんなこと言うわけないよなぁ」と聞けば、錬金術師は満面の笑みで「勿論、冗談じゃない」と首肯した。


「だから、君という抑止力が私には――そしてこのロンドンには必要なのだよ」


「勝手極まりない言葉だな」


「仕方がないさ。何せ私は後ろでこそこそするのが得意なんだ。大見えきって、高笑いを上げながら、剣を振り回すのは門外漢なのだよ」


「で、その代わりを俺にしろと? 今までみたいに?」


「――ああ、そうだ。今までみたいに。これまで通りに、だよ。

 勿論、君がこのロンドンに来た目的は果たされている。無理に留まる理由は、君にはないだろう。

 それを知ったうえで――だからこそ私は、こうして頭を下げるわけだ」


 そう言うと、ヴィンセント・サン=ジェルマンが立ちあがて腰を折り、深く深く頭を下げたのである。


「――ツカガミ・トバリよ。

 極東よりやって来た、紅き獣の君よ。

 最早留まる理由を持たない君に、私はこう願い、請おう。どうか今一時このロンドンに留まって、私に力を貸してはくれまいか?」


 真摯な面持ちと、真剣な声音で、歴史に名を刻んだ稀代の錬金術師が、永劫を生きる怪人が、自分に頭を下げている。

 その情景に、トバリは思わず面喰い――そして考える。

 ヴィンセントの言う通り、自分の目的は果たされた。センゲを連れ戻すということは叶わなかったものの、彼女と言葉を交わし、最後の別れを告げたトバリにしてみれば、最早この地に未練はなく、その気になれば明日にでも極東行きの船や飛行船に乗ることだってできる身だ。


(……さて、どうしたものかねぇ)


 トバリは考える。

 目の前で頭を下げたまま、此方の返事を待つ――自分を友人と呼ぶこの男に対して、自分はどう答えるべきか。

 きっと否応どちらの答えを出したとしても、この男はその結果を受け入れるだろう。

 それを知ったうえで、自分はどんな答えを彼に返すべきなのか……

 考えて、考えて、トバリはそっと自分の右腕を見て、力を込める。

アリステラの手によって千切れたはずの腕は、血浄塵型を展開した折に、まるで何事もなかったかのように元通りになっていた。

 だけど、元通りの腕かと言われれば――少しだけ、違っているような気がした。

 ほんの僅かに、熱を帯びるような感覚。

 まるでこの腕を置き土産にした彼女が、内側から何かを言っているような――そんな錯覚を覚える。

 そして、錯覚でも構わなかった。

 この腕がこうしてある――それにはきっと意味がある。なんて思いくて。


「――ったく、仕方ねぇなぁ」


 もう、獣だとか怪物だとかいう呼び名とはおさらばだと思っていたのだが――もう少しだけ、その名を背負って回るのも一興だろう。


 そんな風に考える異聞に苦笑しながら、だけど悪い気はせず、トバリはいつも通りの悪辣な、皮肉っぽい笑みを口元に浮かべながら、頭を下げたままの友人に言い放つ。


「――お前のおふざけに、もう暫くだけ付き合ってやるよ。その代わり、しっかり給料払えよ? 雇い主殿マイ・オーナー


 その言葉に、その科白に、ヴィンセントは喜色を顔に彩らせながら頭を上げて諸手を上げて叫んだ。


「勿論だとも! ああ、勿論だとも! 君のその英断に感謝する、我が友よ!」


 何がそんなにうれしいのか良く判らなかったが、ヴィンセントはそう言って今にも踊りだしそうな勢いで声を上げたので――まあ、それもいいいかと思って苦笑していると、


「――ん? 伯爵どったの? ダンス?」


 ひょっこりと、覇気のない科白と共にリズィが執務室の扉を開けて入って来た。髪が寝癖でぼさぼさなところを見る限り、どうやら寝起きらしい。

 トバリはテーブルの上に転がっていたブラシを手に取ると、ひょいとリズィに投げ渡しながら言う。


「随分遅い起床だな、もう昼だぞ」


「――なんで判った?」ブラシを受け取りながら首を傾げるリズィ。

「鏡を見てから同じ科白を口にしてみやがれよ」と、呆れ顔でトバリが返すと。


「めんどい。で、伯爵はどったの?」


 そう一言で切り捨てて、少女は部屋のど真ん中でくるくると回り始めたヴィンセントを見やりながら首を傾げた。

 ヴィンセントは回るのをやめてリズィを振り返り、喜々とした表情で言う。


「聞いてくれ、ミス・リズィ! トバリは今しばらくこの地に残ってくれると言ってくれたのだよ! 良かった、これでまだまだ食事事情に困らないですむ!」


「そっちかよ!」


 聞きたくもなかった告白に、渾身の突込みを入れるトバリ。しかしヴィンセントは聞く耳持たぬと言った様子で鼻歌を歌いながら、自分の執務机に戻っていく。

 その背を睨み付け。やっぱり帰るべきだったかと早くも公開を覚えるトバリだったが、リズィがじぃぃぃっとこっちを見ているのに気づき、首を傾げる。


「どうかしたのか?」


 そう尋ねると、リズィは「なんも」と首を横に振って、何事もなかったようにトバリの隣に腰を下ろして背凭れに身を預けると


「――もうしばらくはお世話になれるってことか。じゃあ、よろしく」


と、僅かに口元に笑みを浮かべながらそう言ったのである。

 ヴィンセントといい、リズィといい、今日は変なことが起きる日だなとトバリは思っていると――



「――結局、ロンドンに残ることにしたんですね?」



 ……今日一番、可笑しなことが起きた瞬間だった。

 どうにも聞きなれてしまった声が背後から。振り返ってみれば、普段ヴィンセントが怪しい研究をしている隣室の扉を開けて、青い髪に白衣の少女――エルシニア・アリア・リーデルシュタインが、此方を見ている姿があった。


「……アンタ、そこで何してだ?」


「研究ですよ。伯爵の手伝いをしながら」


 トバリの問いに、彼女はそう言って至極当然というふうに肩を竦める。一瞬、その言葉に納得してしまいそうになったが、どうにか思考停止に陥ることなく、トバリは続けた。


「――じゃなくて、どうしてアンタが此処にいるんだって話だ」


 と質問を口にしたものの、大体予想はつく。


「私が雇った!」


「やっぱりか!」


 案の定、ヴィンセントの仕業だった。トバリは肩を怒らせてヴィンセントを睨み付ける。すると、彼は何が面白いのかにやにやと笑いながら、いけしゃあしゃあと言うのである。


「やはり職場に彩りが欲しくてねぇ。かつ、私の研究を手伝ってくれそうな優秀な助手を探していたら、なんということだろう――彼女が名乗りを上げてくれたのだ!」


「――アンタ正気か? 騙されてないか? 脅されてないか? 変な薬、飲まされてないか?」


 自慢げに胸を張るヴィンセントはこの際無視し、トバリは本気で心配しながらそう尋ねると、エルシニアは肩を竦めながら鷹揚に頷いて見せた。


「貴方がそんな疑問を抱くのには同意しますが――大丈夫です。勿論、正気ですよ。考えたうえで、彼のところで研究をすることにしましたから、ご安心を」


 そう微笑んで言うエルシニアの様子は、いつぞやのリズィのそれと同じだった。

 ならば、自分が何かを言ったところで決断を変えることはないだろうと思ったトバリは、やれやれと肩を竦めながら言った。


「そうかよ……なんの研究をするのかは知らないが、そこの錬金術師バカみたいに爆発だけはさせないでくれ」


「ご安心ください。私は伯爵バカとは違いますから」


 言って二人、揃って皮肉げに口の端を釣り上げる。部屋の奥のほうでヴィンセントが「君たち、私に対してそれはあまりに失礼じゃあないかな?」なんて言っていたような気もするが、毎度可笑しな研究で部屋を黒煙塗れにするような輩の戯言は聞かないに越したことはないのだ。

 初めはヴィンセントと二人だった。

 少し前にリズィがやって来て、にぎやかになった。

 今はさらに一人増えて、どうにも騒がしくなっていたなぁと。

部屋の真ん中。来客用椅子の対座に腰かけながら、柄にもなく感慨に浸る。

すると――


こんこんこん

こんこんこん


 三回打ちを二回続けてスリーノック・ツー――部屋の入り口。来客用の扉から、ノックが聞こえてきた。

 いち早く、ヴィンセントが反応した。彼は佇まいを正すと、執務椅子に腰かけながら言う。


「どうやら、お客人のようだね。トバリ――出迎えを」


「へいへい。りょーかいですよと。リズィ――紅茶、用意しろよ」


 立ち上がりならそう投げやりに零すと、リズィがやる気なさげに「ほーい」と言って体を起こした。

 同時に「手伝いますね」と、エルシニアが紅茶の用意を始めるリズィについて行った。その様子を見送りながら、トバリは「微笑ましいもんだ」と口の端を釣り上げながら言い――扉へと向かう。

 本音を言えば、客など暫く迎え入れたくはない。なにせこんな怪しい請負屋にやって来るような仕事なんて、厄介ごとに決まっているのだ。

 そうは思いつつ、今度は同時にどんな面倒ごとに巻き込まれるのやらと覚悟を決めながら、トバリは扉へと手を伸ばした。


    ◇◇◇


 ――ゴゥンゴゥンゴゥン

 いつも聞こえてくる大機関は響かない。

 しかれどロンドンの日々は変わらない。

 空はいつも通りの灰色雲。排煙と煤が彩る空模様。


 十九世紀末の英国。


 蒸気と機関の都にて、虚実が彩る都市伝説。



 ――これは鋼鉄と鮮血が紡ぐ、幻想蒸気譚である。







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