七幕『怪物の胎内で育まれたもの』Ⅰ
サザーク地区の工場地帯にあるホーエンハイム・インダストリーの無人事務所から、地下に続く階段にトバリは、暗い闇の中を軽快な足取りで進んでいく。
光の届かない完全な暗闇を明かりの一つも持たずに歩けるのは、その目にかけている
その一つが暗視である。
ゴーグルに備わった暗視機能のおかげで、トバリは明かり一つなくとも、暗闇の中に何があるのかはっきり見えていた。夜目にはそこそこ自信があったのだが、流石に完全な暗闇の中では資格で見ているのではなく、単に鍛えた五感で資格を補っているに過ぎない。当然、ある程度は周囲の状況は判るものの、目が見えている状況とでは雲泥の差があり――当然、足運びも遅くなる。
だが、このゴーグルがあればそんな心配も不要だった。
まったき夜行性動物の視覚も真っ青な機能に、トバリは気分を良くして暗い階段と通路を揚々と進んでいく。
「はっはっ! こいつはいいな。すげー便利じゃねーか。惚れ薬なんか作ってないで、こーゆのをもっと作れっての」
「才能がある人間というのは、えてしていらないことばかりするものですよ」
同じように機関眼鏡をかけたエルシニアが、溜め息交じりに言った。トバリは納得したように頷き、「なるほど、そいつは真理だな」と同意する。
暗い、暗いその場所。ロンドンの遥か下層。
ロンドン地下最深部――
それは、この大都市ロンドンを支える巨大な蒸気機関が設置されている場所である。本来ならば王族か首相などのみが許される、余人が踏み入ることは決して許されない不可侵領域。
長い暗闇を抜けて、僅かに照明が通路を照らし出した。トバリたちはゴーグルを外して素のままに周囲を見回す。ご丁寧に通路の壁には大機関への道順が記されていたので、二人は顔を突き合わせ、肩を竦めながらその方向に進んで――そうしてしばらく歩き続けること十分ほどで、それを見つけた。
そこは巨大な吹き抜けだった。
遥か頭上からずっと地下深くまで続いているような深淵が覗けるような、そういう縦穴。
そしてその縦穴を貫くように悠然と君臨する、巨大な、無数の機械が絡み合った大型の機械。
ゴゥン……ゴゥン……という機械独特の駆動する重低音を響かせ、大量の蒸気をあちこちから吹き出すそれを見て、二人は思わず感嘆の声を零す。
「凄い……」
「……これが、大機関か」
二人は君臨する大機関を見上げ、感歎の吐息を零すと共に――僅かにその柳眉を顰めた。
――大機関。このロンドンを、ひいては蒸気機関文明を象徴する、大都市に建造される動力源。
しかし、なんだろうか。その形はまるで――
「……人間、みたいだな」
ぼそりと、目の前に聳える大機関を見上げて、トバリはそう零した。
大機関の形状。天井高くまで伸びた二つの機関部に、其処からゆったりと、地の底まで伸びる形。英文字のYに似ているその形状。もっと詳しく例えるならば、何故だろうか。それは磔にされた人間を彷彿させる
「てっきりただの巨大な動力機械があるとばかり思ってたんだが……こいつはどういう趣向で作られたんだ?」
投げやり気味に、トバリは隣に立つ少女へと尋ねた。
エルシニアは同じように眉を顰めながら考え込むように俯き、そして言った。
「以前……何かの論文で読んだことがあります。都市を動かすほどの大型蒸気機関は、その運用で生じるエネルギーの動きが人間の生命活動に似ていることから、その形状を人に近いものにする必要があると。その論文では、大機関のことを〈
「……
こんな機関工学の塊のようなものを作りながら、どうしてそんな迷信染みたものを取り入れなければならないのか、いまいち理解に苦しむ。
目の前に存在する人型の大機関を見上げながら、トバリはコートのポケットから黒く細長い、掌に乗るくらいの大きさの匣を取り出し、スイッチを押して手耳に当てる。
「あー。ヴィンセント、俺だ。聞こえていたら返事をくれ」
『聞こえているよ、我が友人。さて、目的の場所に到着したかな?』
「概ね、な」
トバリは肩を竦めながら電話越しに尋ねる。
「さて錬金術師。
そう軽口で問うと、ヴィンセントは『なに、簡単だ』と揚々と答えた。
『それを派手に破壊すればいい』
「……はあ?」
まるでちょっとゴミ捨てに行ってきてくれとでもいうような軽い口調に、トバリは思わず我が耳を疑い、思わず「
そして『では、始めるとしよう』という言葉を最後に通話が切れた。ツー・ツーという電子音だけが聞こえてきて、渋々とトバリはポケットを衣囊にしまう。
そうして改めて眼前に佇立する巨大な機械を見上げる。
それは――それこそがこのロンドンの生活を支える大機関である。
この国に存在するすべての蒸気機関の頂点に存在し、ロンドンの大部分のエネルギー供給を賄っている心臓でもある物体。
つまり今、トバリたちの目の前にある代物は、それだけこの国にとって重要な代物だということ。それを――
「――壊せ。って、簡単に言ってくれるなぁ」
目の前の大機関を見上げながらそう零す。
「まあ伯爵が言うのなら、必要なことなのでしょう」
「そして実行犯の俺たちは国際指名手配ってか。おっさき真っ暗じゃねーか」
エルシニアの諦念交じりの科白に軽口を叩きながら、トバリはさてと考えを巡らせる。
口では否定的なことを言って見てはいるものの、実際のところトバリの思考は目の前の大機関を破壊する方向にある。
別に、これと言って明確な意思はない。
単純に、雇い主の依頼を遂行するだけ。
理由としてはその程度。被害をこうむる側からしたら迷惑極まりない理由。
いや、もうひとつあった。
そのことに気づいて、トバリは僅かにほくそ笑む。
雇われているから、雇い主の意向に従った――なんて理由よりも、よっぽど自分らしくてはた迷惑な理由が、一つあった。
「何を笑っているんですか?」
そう尋ねてくるエルシニアの言葉に頭を振り「なんでもない」とはぐらかし――そして腰に吊るした短剣を引き抜く。
途端、少女の表情が訝しげになる。
「……まさかとは思いますが、その短剣でこの大掛かりな機械を壊すつもりですか?」
「それは何処をぶっ壊すかによるな」
にやりと笑い、トバリは無造作に短剣を投擲した。放たれた短剣は、まるで射放たれた矢の如く空気を切り裂いて大機関へ吸い込まれていく。
勿論、刃は通らない。
それを見送り、二人は互いを見合い――トバリは肩を竦め、エルシニアは嘆息した。少女の表情は言外に「それ見たことか」と物語っている。
「別にいいんだよ。ぶっ壊せっていうのは、多分方便だろうし」
言って、視線はエルシニアから大機関へ。そしてそのさらに奥――機械の向こう側に見える人影へ。
その出現は唐突だった。
ひたひたと、這い寄るような気配と共に姿を現す白い存在。
咎人の喉元に咬み付く牙、トガガミ・センゲ。
またの名を《
赫色の大刃を翼のように広げて悠然と佇む姿には、堂々たる風格すら感じられる――殺戮の申し子。
「よう。結構早い再開だね」
にやりと、白髪の美女が笑う。
「まったくだよ。気の休まる暇もねぇったらありゃしない」
隣で緊張を孕みながら身構えるエルシニアの気配を察しながら、トバリは肩を竦めてそう嘯く。
掌の上で短剣をクルクルと回しながら、わざとらしく周囲に視線を巡らせる。
「お前のご主人様はいないのか?」
「ああ、そうだよ。あれで結構忙しい人だしねー」
今日の天気の話をするような気軽さで尋ねると、センゲもまたトバリと同じように軽い調子で答えた。
日常の端的な、まるで仲の知れた相手と話すような雰囲気で応答する二人。そんな二人の様子にエルシニアは苦言する。
「貴方たち……どうしてそんな気軽に会話が出来るんですか?」
その問いに苦笑する。
「別にこいつと殺し合うのは昨日今日が初めてじゃないからな」
「そうそう。ボクはトバリがこーんな小っちゃい時から知ってる。そしていろんなことを手取り足取り教えたよ」
センゲはそう言うと何かを思い出したのか、まるで陶酔したかのような頬を染める。「何を教わったんですか?」と視線だけで尋ねてくる同行者に、トバリは肩を竦めて溜め息を零した。
「子供らしいことから、子供らしからぬことまでさ」そう適当に言葉を投げながら、トバリはセンゲを見据える。
「毎日毎日、子供がおままごとみたいに殺し合ったよなぁ。トバリは弱っちくて、いっつもボクにズタズタにされてたよ」
おままごとと殺し合いが同列に扱うような人間と、よくもまあ付き合い続けたものであると昔の自分を称賛したくなる。
「ホント、懐かしいよ。あの時は楽しかったなぁ。ぴーぴー泣いてた小っちゃいトバリが、今じゃこーんな立派になって」
「お前は俺の母親か」
「似たようなもんじゃん」
「まあ、確かに」
そんな風に――。
ほんの数日前に殺し合ったことなどなかったように。
故郷の地で袂を別ったなんてなかったというように。
そんな風に言葉を交わす二人。
傍から見れば、頭がイカれているように見えなくもないだろう。
だけどそれは別段おかしなことではない。
それは彼らにとっての当たり前のことだった。
トバリたちは常に戦場にいる。
トバリたちは常に、殺し合いの只中にいる。
だから、これは挨拶のようなもので、準備運動のようなもの。
特に意味もない言葉遊び。
するべきことは、決まっている。
封神血族は殺しの一族だ。殺して、屠って、血の海に沈める、そういう血筋に連なる者たちだ。
故に――。
もし同族と戦場で出会ったのなら、最後にすることは何時も決まっている。
相対したなら、殺し合うだけ――。
センゲの両腕。袖の広い服の間から覗く双腕が赤く染まる。
硬質化する鮮血。それは封神血族の異能――血浄塵型の顕現。
殺戮のための腕を携えた邪鬼が、攻撃的な笑みを浮かべる。
「さあ、楽しいお喋りは此処まで。そろそろ殺し合いの時間だぜ、
呵呵と強烈な笑い声を上げ、邪鬼は巨大な吹き抜けにあった落下防止用の柵を踏切にして高く飛翔する。
同時に、センゲの腕からぶしゃりと血が噴き出し、次の瞬間には結晶化する。
「そーら、よっ!」
そしてあろうことか、センゲは結晶化した血の塊を握りつぶし、まるで投球するかのようにこちらに投げ放ったのである。握りつぶされたことで細かに砕けた血の結晶が、弾雨となって降り注ぐ。
対処は一瞬。
即座に反応し、煙るような速さトバリの腕が閃く。
投擲されたのは、愛用の鎖。
ただし――その鎖は今、無数の短剣を携えていた。
まるで蛇に翼が生えたような光景。目にしたセンゲが「ぎゃはは! なんだそれ、すげーじゃん!」と感嘆したように哄笑した。
無数の短剣を携えた鎖が螺旋を描いて虚空に踊る。広がる幾つもの刃は、降り注ぐ結晶の雨を受け止めて切り散らす。
だが、それでもすべては防げない。
零れ落ちるように螺旋を抜けてきた弾雨を、右手の短剣で叩き落とし、同時に左手で鎖を操り尚も降り注ぐ弾雨を妨げながら、
「――エルシニア・リーデルシュタイン」
少女の名を呼ぶ。
一泊遅れて我に返ったらしいエルシニアが「は、はい!」と応じた。尚降り注ぐ弾雨を剣戟で受け止めながら言葉を続ける。
「俺はこいつと遊んでるから、お前はお前のやるべきことをやれ」
背後で少女が頷く気配。そして走り去る音。
気配が遠退いていく。
よし、それでいい。
「あれれ。あのお嬢ちゃん行っちゃったぜ? 良いのかいトバリ。せっかく二対一だったのにさぁ」
「良いんだよ。お前と殺り合うには役不足だし。何より足手まといだ」
「そんなことないぜ? あの子、どうやらボクと同類っぽいしさー」
頭上から降る声。トバリは鎖を引き戻し、改めて相手を睥睨する。巨大な機械――大機関の上に足を掛けて見下すセンゲの視線を受けながら、トバリはだらりと腕を下ろして無行に身構える。
「背中――随分使い勝手良さそうだな? あのお嬢さんは苦労してたぜ」
「ボクは封神だぜ? あんな中途半端にしか機関を扱えないような処女と一緒にするな」
言って、《心臓喰い》が飛来する。
双腕。左右の腕がそれぞれ閃く。ただ単純な拳撃。だがそれは充分に必殺たり得る一撃。極最小限の体捌きで躱し、懐に踏込み一撃を見舞う。全身の動きを連動させての懇親の刺突。
だが、やはりセンゲには通じない。
捉えた胸部からは固い感触。肌蹴た衣服の隙間から覗くのは、鮮血に染まった肌!
顔以外の全身、至る部分に施される赫い装い。
それは血の外皮。あるいは鱗。血浄塵型によって造られた
「そんな鈍らじゃ通じないっての! キミも使えよ。使って、振るって、ボクに抗って見せろ!」
咆哮する《心臓喰い》。
その両腕が鎌の如く、その両足が戦斧の如く、嵐のように次々と標的(トバリ)を追う。
防御は不能。
センゲの打撃は、ただそれだけで混凝土に擂鉢の穴(クレータ)を作るほど。受けに回れば、その結果は言うまでもない。
トバリは全神経を集中して回避対応する。
さてどうする? と、自問自答。
センゲの拳打と蹴足を躱しながら思考を巡らせる。
センゲと自分の実力差。それは十二分に理解しているつもりではある。極東にいた頃。ひいては封神の屋敷にいた頃に、嫌と言うほど体感し、痛感させられていた。
当代最強。その名を欲しいがままにしていた殺戮の怪物。
だが、それを差し引いて尚、今のセンゲは強い。
離別したあの日からの空白の時間に加え、〈循血機関〉という規格外の力まで得たこの戦闘狂を相手取るのは、トバリを以てしても至難の業だ。
――だが、やらねばならない。
この邪鬼の相手を出来るのは、少なくとも自分以外になり得ない。
エルシニア・アリア・リーデルシュタインでもなく。
ヴィンセント・サン=ジェルマンでもなく。
ましてやリズィでもない。
相対するべきは自分。ツカガミ・トバリ以外には決してできないこと。
自身に奮いを掛けて肉薄する。
双腕を二刀で受け流しながら首筋を薙ぐ。
普通ならば必殺の一撃も、血装の怪物には容易く防がれる。しかし、だからと言って諦める理由にはならない。
この間抜けを地面に叩き伏せて、言わなきゃならないことがある。
だから――今自分がするべきことを見据えて、トバリは旧知の怪物と対峙する。
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