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 結局、私を含め皆、負け戦から帰るような心地で川を越えました。弱々しく、自分達の無力さを呪いながら、喪った悲しみを誰もが背負い、住処である崖へと力なく飛んで行きます。

 ああ。

 肉体的には私はもう、余り疲れてはいませんでしたが、心の疲労はとても酷いものでした。これ以上同じワイバーンが死んでいくのを見てしまったら、私自身どうなってしまうか分かりませんでした。

 生きなければいけない。ただ、それだけが私を突き動かしていました。

 飛んでいると、成獣のワイバーン達が私達の方へ向かって来ました。殺意とかそういうものは感じられず、やはり自力で帰る事がこの試練を終える条件だった、という事を私は理解しました。けれども、達成感は全くありませんでした。

 オチビは死んでしまった。ハナミズも死んでしまった。他の兄姉も生きているかどうか、全く分からない。元からこんなに生まれて来なければ、そしてその少数をみっちり鍛えてくれれば、こんな悲しみを背負う事はしなくて良いのに。

 私はそう嘆きました。ワイバーンという魔獣は、どこに行ってもこんな試練を子に与えているのでしょうか。

 とにかく、私はこの試練には納得出来ませんでした。


 飛んできた親のワイバーンの中には私の母親も居ました。私はそこでやっと試練が終わったと感じ、一気に体が重くなりました。

 無意識に張りつめていた緊張が一気に解け、気力も失せ、皆も他の誰かに釣られるように失速して地面にばたりと倒れて行きました。

 すぐにでも私は眼を閉じて眠りたかったのですが、流石にそういう訳にもいきません。隣に着地した母に、少し乱暴に蹴られ私は惰性で立ち上がりました。

 顔を上げて母の顔を見てみると、乱暴な蹴りとは別に慈しみの表情がありました。何故こんな試練を続けているのか、その事に関しては母も分かっていないのでは、と私はそれを見て思いました。

 母は翼を広げ、私を乗せずに空を飛び始めました。もう、甘える時期は終わってしまったのでしょう。

 私もゆっくりと翼を広げて、母の後を追いました。

 私は飛びながら後ろを振り向きました。川の先には森があり、その先には山脈があります。冬の到来を告げるようなどんよりとした雲が山脈の上方を覆っていて、その部分は既に白くなり始めています。山の頂上も、その先も全く見えません。

 何となく、それを見るとこんな試練をやった理由がほんの少しだけ納得出来た気がしました。

 要するに私はまだ、殻の中に居たのです。

 生まれる時に殻を破り、滑空をする為に殻を破り、そして世界へ旅立てる最低限の資格を持つ為に殻を破った。

 一匹で獲物を狩れるかどうかまだまだ怪しい私達が今回破ったこの殻が最後の殻だとは私には思えませんでしたが、これ以上硬い殻は無いとも私は思いました。もう、子供のワイバーンが大勢死ぬ事は無いと思いました。

 翼で軽く叩かれ、その方を向くとアカが私に頭を下げました。

 それを見ると、最も助けたかったワイバーンは助けられなかった事が私にまた圧し掛かってきました。

 ああ。私が本当に助けたかったのは、アカじゃない。……アカじゃない。

 気付くと涙が流れていました。もう一度、私は飛びながら声を上げて泣きました。

 オチビと一緒に帰りたかった。とても。本当に。

 時間が戻せるなら、他者の魂というものに干渉出来るなら、私は何だってするでしょう。

 試練が終わり、安堵し緊張が解けた私には感情が溢れ始めていました。

 私は飛ぶのをもう一度止め、顔を地面に擦り付けながら、体を叩きつけながら泣き続けました。

 ああ。ああ。

 何も、目に入りませんでした。何かが体に触れてもどうでも良く、私はただただ涙が枯れても叫び、泣き喚きました。

 世界は滲んでいました。


-*-*-*-


 その日は風が強く、春の訪れを感じさせる日でした。

 私は雲一つない真っ青な空を見ながらこのワイバーンとして生まれてからの約一年を思い返しました。

 卵を割り、動けなくなった。

 カラスが空を飛べずに落ちて行き、私は空を舞った。その後に糞を鼻に食らった。

 毎日喧嘩をしていたオチビに初めて負けたその日、糞塗れになりながらカラスの死を実感した。それからオチビと親しくなった。ああ、夏の終わりから秋の中頃までが一番楽しかったなぁ。

 コボルトがやってきて、父が去って行った。

 そのすぐ後に二度目の試練がやってきた。大蛇と戦い、勝ったもののオチビを守れなかった。泣きながら、オチビを殺した。

 アカと出会い、アカを助け、老ワイバーンを何とか殺した。三匹の雄のワイバーン、イ、ロ、ハと出会い、そして空を飛べるようになった。

 最後にケルピに数匹殺された。

 ……帰って来れた兄姉は、ノマル、マメだけだった。けれどもマメは冬の狩りの最中、森に消えてしまった。六匹居た兄妹は私とノマルの二匹だけになってしまった。

 記憶に刻まれるように残った事はたったそれだけの事でしたが、とても濃密だったと私は思いました。

「ヴル?」

 隣にはアカが居ました。狩りに行くかい? と私に問いかけていました。


 私もアカも、他のワイバーン達も冬を越えた今では、体は成獣とほぼ同じ位まで一気に成長していました。食べた量に直接比例するかのような成長ぶりでした。

 角もしっかり頭の先から二本、太く頑丈なものが生えています。牙も肉を容易く噛み千切れる、鋭く白い歯と共に完成し、大蛇などなら一噛みで殺せる程に顎の力も強くなっていました。尾の先からは毒針も飛ばせるようになり、火球も出せるようになりました。どちらも、練習不足でまだ実戦には使えないのですが。

 皮翼も簡単には破れないような頑丈さを備えていました。

 その体が急激に成長した冬、ここは雪が降る程の寒さはありませんでした。偶に慣れない狩りを皆と共にしながらも、他の時間は火を囲んでゆっくりと過ごし、夜になれば広い洞窟の中で皆と寝る。偶にやらなければいけない冬の夜中の見張りはとてもきついものだったと、私は突き刺すような寒さと共に思いました。

 辛い事もありましたが、冬も楽しかった、といえば楽しかったのです。

 けれども、心の奥底から楽しめる時はありませんでした。

 私の中ではオチビの存在は気付かない内にとても大きなものになっていて、それが喪った時に心で理解され、同時に一生消えないような傷も出来てしまったのでした。

 姉さんとハナミズが死んだ事も大してその後の私には新たな傷とはなりませんでしたし、マメが消えてしまった時も私は涙を流しませんでした。それどころかその時、私はマメと一緒に生き残ったもう一匹のワイバーン、アズキが泣いているのを見て、ああ、私と一緒になった、とほっとしているのを感じていました。

 それ程に、私の中でオチビは大きな存在だったのです。

「ヴゥ」

 行こうか。

 私はアカと共に翼を広げました。


 一年を過ごし、私は私でしかないという事を知りました。私はワイバーンとしての同一性は大して持っていません。身近な者を喪ってもすぐに立ち直れるような精神の頑丈さも持っていないのです。野生と知性の境界線に立てる獣、魔獣という定義に私は余り当て嵌まりません。

 私の前世は何だったのか、それが分からなければ私は何としての同一性を持っているのか分かる事は無いでしょう。

 けれども、それに拘る必要も無いという事も私は知りました。

 そんな同一性などと言う小難しい事考えずに愚直に私らしく生きても、このワイバーン達の中で暮らすのには何も支障はなく普通に暮らせる、という事を私は知りました。それをもっと早く気付けていたらなぁ、とも、この時期まで気付けなくて良かった、とも私は思いました。

 試練の前にそれを気付き、友達が増えていたらそれはそれで、オチビだけを喪った悲しみよりも数倍も深い悲しみに遭ってしまう可能性もありましたし、けれどももっと友達が生き残り、もっと楽しく生きられた、という可能性もあったからです。

 私とアカは力強く羽ばたき、森へと飛び立ちました。

 空を飛べるようになってから何度も体感した地面から足が離れる感覚が、何故か今日は新鮮に感じられました。

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