4-21

 ……とうとう、この日を迎える時が来ました。

 来てしまった、とは余り思いませんでした。

 もう、空を飛ぶ事すら殆ど出来ません。獲物は息子、娘達に獲って来て貰う始末です。更に、その獲物を食べるのにすら疲労を覚えるようになっていました。

 思考すらも余り鮮明にする事が出来ず、若い頃とは別の意味で、時はあっと言う間に過ぎて行きました。

 そんな、もう何も出来なくなった私は、自分が生きているのかどうかすら疑わしく思う時があったのです。


 冬の前の月が満ちる直前のその日、私は寝ぼけながらも、いつもよりは起きて太陽を眺めていました。

 ……もう、私と同じ年代のワイバーンは全て先に礎となりました。

 智獣を沢山食べた私は、普通のワイバーンよりは少しながら老いが遅かったようです。

 今、私はこの群れで最年長でした。

 とは言え、偉いと言う事は全くありません。ただ、もう何も出来なくなった老いぼれであり、そして子を産み、育てた母である、という事だけでした。

 私は、ここまで生きて来れた事自体が幸運な事だったんだなあ、とワイバーンとしてしみじみと思いました。

 数匹ずつしか、この近くの代は生を全う出来ていないのですから。

 ええ、とても幸運な事です。そして、私は幸せでもありました。

 自分自身に翻弄されても生きて来れて、そして番い、子を残す事も出来た。友も居た。番も居た。

 それはとても、幸せな事でした。途轍もなく後悔してしまう事をしてしまっても、兄妹や友が死んでしまっても、私はとても幸せでした。

 また、私は友達と番が両方族長であったという事に気付き、珍しく思いながら私は目を一旦閉じました。

 もう、最後の日向でゆっくりと過ごす日だとしても、私は一瞬一瞬を噛み締めるように大切に過ごそうとは思いませんでした。

 死への恐怖はもう、殆どありません。徐々に私の体を占めて行く老いがその恐怖をいつの間にか溶かしていました。

 未練も無い事は無いですが、大してありません。

 ……私も族長のように、受け入れる事が出来たのでしょうか。

 それは、分かりません。分かるかどうかも分かりません。

 憧れに近付けたかどうかを自分自身で分かるのか、時間は後一日と少し位しかありませんし。

 もう一度、私は目を開けて、また眠さにつられて目を閉じました。


 最後に獲物を獲って来てくれたのはやはり、ツイでした。

 小振りでも、しっかりと肉の付いた、良く私が好んで食べていた鹿を、綺麗なまま持って来てくれました。

 昼過ぎ、太陽が下り始めた頃、これを食べ終えたら今年の礎となる私を含めた老いたワイバーン達は森へと歩いて行きます。

 私は、ゆっくりと肉を噛み締めました。最後の食事であると共に、最後の役目を果たす為にこの老いた身を後少しだけ、動かさなくてはいけません。

 手は抜かない。こんな老いぼれに負けるようなワイバーンは要らない。

 骨をゆっくりと噛み砕き、飲み込みます。血を飲み、体を潤おわせます。

 半分程で、私は満足しました。余りは、ツイが私の倍以上の早さで食べ終わりました。

「……ヴゥ」

 食べ終えると、その血塗れの口を舌で舐め、それからツイは名残惜しむかのように私の方を見てきました。

 全く、まだけじめが付いていないのでしょうか。

 これから先、ツイも苦労する事でしょう。私のように死ぬ時が近々分かっていて、それを覚悟する猶予が十分に分かっていても、こうして悲しさを覚えてしまうのです。

 私もそうでしたが、そうで居てはこのワイバーンの世界では苦しむ事になるでしょう。

 周りとの別れは、覚悟する猶予何て無い時の方が多いのですから。

 私は背筋を伸ばし、首を回して体を解していきます。

 しかし、苦しむのも、苦しまないのも、どちらも悪い事ではありません。

 ツイはその道を選んだ。ただ、私は余りその道は勧めない。それだけの事です。

 体を解し終えると、私はゆっくりとツイの頭に皮翼と同じく皺々になった翼腕を乗せて、数度とんとん、と叩きました。

「ルルッ」

 楽しかった。ありがとう。

 そうして、私はゆっくりと歩き始めました。

 暫くして、後ろでツイが空へ飛ぶ音が聞こえます。

 ……それでも、振り返るつもりは無かったのですが。

 しかし、これで本当に最後なのです。その位の我儘は母としてもして良いでしょう。

 振り返ると、同時に振り返っていたツイと目が合いました。

 ただ、数瞬の間だけ私とツイは見つめ合いました。

 そして、私とツイはまた同時に目の前へと振り返りました。


-*-*-*-


 一番先に森へと歩き始めた私ですが、川の前まで着くと一旦休みました。

 もう、飛ぶ事すら出来なくなった私達老いたワイバーンは、この川に身を浸からせて越えなければいけません。

 幸いこの川は大した深さは無く、またケルピの番を除いて大した獣も住んでいないのでそこまで恐怖する必要は無いのですが、この体にとっては渡れるかどうか少し心配でした。

 暫く待っていると、他のワイバーン達も段々とやって来ました。

 この中にはもう、精々顔見知り程度しか居ません。しかし、やはり誰にとっても身を引き締めて渡らないといけない場所であるからか、誰もまだこの川を渡ろうとしていませんでした。

 太陽は赤く染まり始め、もうぐだぐだとはして居られません。

 夜になる前にはその場所に着いて始められるようにしなくてはいけません。

 私は深呼吸を数回してから、恐る恐る流れる川の水に足を浸しました。

 かなり寒い。でも、我慢……出来る。

 そうは思いながらも自分の中でそれが痩せ我慢だったのは分かっていたのですが、私は自分を騙しながらもそれからは、とにかく早く川を抜けられるように歩きました。

 私を皮切りにして、他のワイバーンも川を越し始めました。


 腹の真中辺りまで冷水に浸ってしまい、とても寒く体を震わせながら、私達老いたワイバーンは森の近くまで辿り着きました。

 毎年行われているのと同じように、私達は森に平行になるようにばらばらに散らばります。

 すると、もう戻る事は無い対岸の崖から子を連れて、親のワイバーン達がやって来ました。

 ……さて。

 これから私達は、弱いワイバーンを殺します。

 群れの外に出て、容易に家畜に成り下がってしまうようなワイバーン。この群れで何かしらの危機が訪れたとしても、何も出来ずに死んでしまうようなワイバーン。

 そんなワイバーンを、殺します。

 森と言う限られた資源を食い尽くさないように。この群れが安泰であるように。

 そして、この試練を生きて終えたとしても私達はもう、この川の向こう、崖に戻る事はありません。この森で静かに死んでいくのです。

 一体、これまでどれだけのワイバーンがこの森で死んだのでしょう。

 千? 万? それ以上?

 分かりません。この群れがここでどれだけの間続いて来たか、私は知らないのです。

 私が一番最初の生を受けた時からもしかしたらあったのかもしれませんし、意外と私がこのワイバーンとして生まれる数十年前程度の最近なのかもしれません。

 そして、その群れで生きたワイバーンとして私は同じく、この森で死んでいきます。

 他のワイバーン達も、皆、顔に恐怖や後悔と言った負の表情は浮かんでいませんでした。隠しているようにも見えません。

 自分の生に満足し、迎える死を納得して受け入れている、あの時の族長と同じような目をしていました。

 ……本当に、私もそう見えているのでしょうか。

 それも、やはり分かりません。

 しかし、変に見られていない事も確かでした。

 少なくとも、私は普通には見られている、と私は思う事にしました。


 親のワイバーン達が川を越えた所で私は森の方を向きました。

 もう、本当に私は振り向かない事にしました。今、試練が始まる直前に、孫を連れた私の子供達と顔を合わせたとしても気まずくなるだけでしょう。

 親のワイバーン達は私達の前に着地し、沢山の子のワイバーンが続いて着地しました。

 私がこの試練を受けた時、そして私が子供達をこの試練に送り出した時と全く同じく、これから何が起こるのか察しているワイバーンはやや少なく、それ以外は少し疑問に思いながらもいつも通りに遊び始めました。

 心臓が、とく、とく、と静かに私の胸を叩いていました。

 子供のワイバーンを殺す。

 私にとってそれは、絶対に必要な事だと今は思えました。力を認めて相棒となる訳でもなく、ただの家畜に成り下がってしまったワイバーンはとても、哀れでした。

 魔獣として生きる為に、魔獣として在る為には、矜持が必要なのです。

 ただの獣のような生を送る生物とも違く、智獣のような血から離れさえもする、野生を失う事に因る強固な安泰も無く。

 言葉を持たずとも、複雑な感情を持ち、濃厚な知恵を有する事が出来る魔獣として生きる為には獣の生命力と、智獣の智力が両方とも不可欠でした。

 そして、その力を持つ生物として、矜持を持ち、誇り高く生きる事こそが魔獣の生でした。

 ……しかし、だからと言って、それが出来ない子供のワイバーンを殺せる、とまで私は割り切る事は出来ていませんでした。

 そのように全てのワイバーンに道を示す事も出来ず、そもそも生まれたワイバーン全てを生かせる資源が無い事が分かっていても、割り切る事は出来ていません。

 なので、私はそれを使命感で無理矢理自分の中で正当化していました。

 とは言え、完全に使命感で自分の心を塗り固められる訳でも無く、今、私の心臓は鳴っていました。

 そんな中、親のワイバーン達は空へと飛んで行きました。

 ハツヒ、ハツヨイ、ミツ、アマグモ、ツノマガリ、ヤブレメ、ソラマメ、エンジ、チギレグモ、ハナ、ツイ。

 私の子のワイバーン達全てが飛んで行くのを、私は振り返らないと本当に決めたのにも関わらず、眺めてしまいました。

 そして、残された子のワイバーン達に向き直ります。

 ふぅ、と私はもう一度息を吸って吐き、私は心を整えました。

 ……最後の役目を果たしましょう。

「ヴララララッ!」

 私は吼え、そしてそれでも近付いて来た不用心な子のワイバーンの一匹の頭を食らい、そして高く掲げます。

 同時に他の老いたワイバーン達も吼え、そして子供達へと襲い掛かりました。

 瞬時に阿鼻叫喚が始まり、私は止めに食い千切った子のワイバーンの胴体を子供達へと蹴りました。


-*-*-*-


 逃げる以前に腰が抜けたように動けなくなった子供を殺し終え、私達はばらばらに森へと入って行きました。

 もう、私の心臓は肉体的理由でも、精神的理由でも先程より強く鳴っていました。

 子供を殺した。

 やってしまったと、私は思いました。やらなければいけない事ではありますが、そう思わずには居られませんでした。

 荒く息を吐きながら、私は森の中を歩いて行きます。

 もう、寝る事すら出来ません。試練が終わる頃までは、子供達の試練の壁となって立ちはだかっていなければいけないのです。

 その意志とは裏腹に、逃げ出したい気持ちも私の中に出来ていました。

 逃げる場所なんてもう、無いのに。

 息を整えつつ、歩いているとまた私は、子供のワイバーン達を見つけてしまいました。


 子供達は私を見ると、一目散にまた逃げ始めました。

 私はそれを見ると、無意識の内に毒針を数本放っていました。そして、理解しました。

 これは、戦いでした。

 心に重く圧し掛かろうとも、私はもう、どこかで子供のワイバーンを敵だと認めていました。

 脳裏には、私が子供の時にこの試練で戦った老ワイバーンの姿が思い浮かんでいました。子供のワイバーンに比べれば力があれども、もう私は満足に動く事すらままならず、体力もすぐに尽きてしまうのです。

 数匹が相手になるならば、私の方がもう不利でした。私の方が不利なのに、奇襲をした訳でもないのに、逃げるとは何事だ、と私はどこかでそれを見て怒ったのです。

 毒針は、数本が外れ、数本が二匹に刺さりました。もう、狙いすらも殆ど定まらないので、適当に放つしかなくなっていました。

 その二匹は転び、残りの三匹が振り返りました。

 戦うのか、二匹を置いてでも逃げるのか、私はそれを選ばせる為にゆっくりと歩きました。

 彼らは、そして戦う事を決意し、私に対して吼えました。

 私も吼え返し、走ります。手加減は要りません。していたらあっと言う間に殺されてしまうかもしれません。

 最終的に殺されるのが役目だとは言え、そう簡単には殺されたくありませんでした。

 まず、私はある程度近づいた所でいきなり体を回し、尻尾で薙ぎました。とは言え、若かった頃の力ももう全然出ません。

 その体勢に移るまでの時間も掛かっていますし、威力も比べてしまえば低いでしょう。

 しかし、それでも子供達の二匹に当たったのが分かりました。

 叩き飛ばした感触で、一匹の骨が折れたのが分かりました。もう一匹も直撃は避けたものの、その場に倒れ込んだのが分かります。

 そして、体を回転させ終えると、上に跳んで回避した一匹が私の目の前で小さな鉤爪を振るっていました。

 咄嗟に私は頭を下げてそれを躱します。

 もう、それだけで私の体はとても疲労していました。

 しかし、簡単に倒される訳にはいきません。三匹で襲い掛かって来るのならば、こんなワイバーンを殺せて貰わないといけません。

 私は躱した直後に着地したワイバーンに対し頭突きをして距離を取り、大きく息を荒げました。

 また、同じ動きはもう、出来ません。体が悲鳴を上げていました。

 筋肉と関節が軋み、今では骨が自らの重量にさえ痛みを訴えています。

 棒立ちになるか座ってでも休みたい気持ちが湧き上がってきます。

 しかし、そうする訳にはいきません。一匹は戦闘不能になってしまったようですが、尻尾が直撃しなかったワイバーンは鉤爪を地面に突き立てて立ち上がり、頭突きをしたもう一匹もそれを見るとまた私に襲い掛かってきました。

 受け身になってはいけない。確実な勝ちは、求めない。

 また、私は自分が子供だった時に戦った老ワイバーンの事を思い出しながらそのワイバーンに向けて翼腕の鉤爪を向けました。

 あの時、アカと初めて共に戦った時、老ワイバーンはアカを殺せる場面がありました。

 しかし、老ワイバーンはアカを殺すのを優先するより、立ち上がって来た私に対処するのを優先していました。

 要するに、殺すのが最優先ではないのです。強いワイバーンを生き残らせる事の方が優先されるのです。

 ある程度の高さを持って薙いだ私の翼腕は伏せて躱され、そして皮翼に鉤爪を突き立てられました。

 もう飛ぶ事も無く、治癒される事も絶対に無く。だからこそ、私は、あの時の老ワイバーンのように、その鉤爪を引き抜く事を優先せずに、鉤爪ごと子供のワイバーンを遠心力によって投げ飛ばしました。

 また、そのまま私は回転します。立ち上がり、私に向って来たもう一匹のワイバーンに対して、攻撃する為に。破裂しそうな程に早く、強く動いている心臓に更に負担を掛けながら。

 しかし、当たりませんでした。

 回転を終え、膝を付き、両翼腕で倒れる上半身を支えた時、その子供のワイバーンは私の上空に居ました。跳躍したのではなく、確実に飛んでいました。

 顔を上げる事すらもう辛い事ですが、それは分かりました。

 口からは涎が垂れ、全身がばらばらになりそうな感覚がします。

 しかし、この一瞬、動かない訳にはいきません。幾ら疲労していても、幾ら体に痛みが走ろうと、動けるのならば、最後まで足掻かねば壁として私は成り立ちません。

 私は、衰えた感覚を研ぎ澄まし、そして勘にも頼り、上空から私に攻撃しようとしてくる子供のワイバーンに対して頭を持ち上げて頭突きをしました。

「グゥッ!」

 その子供のワイバーンは頭突きの衝撃で回転しながら前に落ちました。

 しかし、止めを刺すには時間がありませんでした。

「ルアアアアッ!」

 私が投げ飛ばした子供のワイバーンはまた立ち上がり、私に吼えました。

 殺させない。

 そんな思いが強く、伝わってきました。

 しかし、私はもう、殆ど動けません。立つ事すら今は出来ません。

 走って来るその子供のワイバーンに対しては、私は毒針を放つ事しか出来ませんでした。その毒針も、尻尾さえもががくがくと震える今、当たる気は全くしませんでした。

 そして案の定、毒針は刺さりません。幾ら放とうとも、そのワイバーンには当たりません。

「ヴ、ヴゥ」

 ここで、私は死ぬのでしょうか。試練が始まってまだ余り時間が経っていない今。

 体はもう、殆ど動きません。ワイバーンは距離を詰めてきます。私が頭突きをしたワイバーンも起き上がりました。

 少なくとも、この二匹のワイバーンは強いワイバーンでした。私が殺すべきワイバーンではありません。

 しかし、最後まで足掻かないのは、それでも私の中で許されない事でした。

 動かない体ですが、この数瞬の間に、後一回なら動けるまで回復した気がしました。

 最後、もう一度、体を回します。翼腕で体を持ち上げ、膝を起こし、大きく息を上下させながら。それしか、この二匹を一度の動きで倒す方法はありませんでした。

 攻撃は勿論読まれているでしょう。

 もう、二度も体の回転による攻撃をしたのです。一度目も二度目も、全てのワイバーンに当たる事はなく、躱されていました。

 ……翼腕は地面すれすれに。尻尾は、少し高く。

 小細工をして。

 私は、力を振り絞って回転しました。

 地面すれすれに薙いだ翼腕は、伏せようとしたワイバーンの片方を強烈に転ばせました。もう一匹には当たらず、飛んで躱されます。

 しかし、高く浮かした尻尾に当たりました。骨の折れる感触はせず、翼腕で適切に防御された感触がしましたが、そのまま私は弾き飛ばしました。

 後、半回転。後、少しだけ、動け。

 もう一匹、私は倒していません。転ばせただけです。ここで止まっては、私の負けです。

 そしてもう一度、私は翼腕で掬い上げるようにしてもう一匹のワイバーンを投げ飛ばしました。

 両方とも、木に強烈にぶつかった音がして、今度こそ私は倒れました。


「アアッ、ヴェァッ」

 本当に、動けない。幾ら大きく呼吸しようとも、疲労は取れず、心臓が収まる様子もありませんでした。

 私が弾き飛ばし、投げ飛ばしたワイバーンは、動く気配はしませんでした。

 私は、勝ちました。

 しかし、今、それらのワイバーンを殺す事は出来ませんでしたし、私が動けるようになっても、その二匹は殺しません。

「ヴゥ、ヴヴヴッ」

 ……ああ。

 私が最初に弾き飛ばしたワイバーンの、苦痛の声が聞こえました。確か、骨を折った筈です。

 首だけをその声が聞こえる方向にどうにかして向けると、血を吐きながら、よろよろと動きながら、動けない私に対して止めだけでもと歩いて来るワイバーンが居ました。

 荒い呼吸をしながら、未だに動かない体を僅かでも動かそうとして、動かない事に私は恐怖しました。

 死の覚悟をしても消えない、やはり私は族長のようにはなれてなかったと瞬時に理解出来る、目の前に訪れた直接の死への恐怖。

 ふらり、ふらりとそのワイバーンは自分の寿命がもう無い事を分かりながら、私に近付いて来ていました。

「ヴ、アアッ」

 ふと、本当にこんな状況になっても自分の体から雷が発せられない事に私は絶望し、安堵しました。

 今も尚、私の角と一体化していると言っても良い、数十年付けていた腕輪は効力を発揮している。いや、もしくは、私の体がもう、魔法を使えない体になっているか。

 どちらでも良いです。雷によってこの森を燃やしてしまう事だけはせずに済んだのですから。

 そんな事が脳裏で一瞬の間過り、しかし目の前の恐怖からは逃げる事が出来ず、どくん、どくん、と心臓は更に激しく鳴り始めていました。

 ずり、ずり、と私は辛うじて動いた尻尾を這わせ、そのワイバーンへと先を向けました。

 しかし、そのワイバーンは躊躇う事はありません。もしかしたら、見えていないのかもしれません。

 翼腕の上に尻尾を乗せ、もう目の前に来つつあるワイバーンに対して毒針を向け、放ちました。

 どす、とそれは足に刺さり、ワイバーンは転びます。

 しかし、ワイバーンはそれでも翼腕で這い、私に近付いてきました。

 ……もう、見えていない。

 血を吐きながら、翼腕で這って私の口の前に這って来るワイバーンに、私の中の恐怖は失せて行きました。

 口を開けようとも、そのワイバーンは私に向って馬鹿正直に這ってきました。

 意志だけではどうにもならないのです。

 そう思いながら、私はそのワイバーンの頭を噛み千切りました。


-*-*-*-


 どうにかして立てるようになった時にはもう、夜が訪れていました。

 とは言え、疲労が消えている訳では全く無く、気を張っていなければ今にも寝そうな気がしました。

 体の中に、疲れという塊がこびりついているような、そんな感覚です。

 一度動けばまた、私は地に伏して荒い呼吸をする事になるでしょう。

 ただでさえ僅かしかない体力が、もうほぼ無いと同じになり、膂力も今は衰えた平時よりも酷く落ち込んでいるでしょう。

 寝たい。今すぐにでもこの場に突っ伏して寝たい。

 とにかくそう思いましたが、これが最後なのです。

 私は気絶した二匹のワイバーンに尻尾を軽く当てて軽く起こしてから、姿を見られる前にこの場を去る事にしました。


 暫く歩いている内に、歩く事さえも疲労になっている事に私は気付きました。

 どうするべきでしょうか、と流石に私は悩みます。

 しかし、悩む間も無く私の体は自然と木に凭れていました。

 今寝たら、起きる事も無いかもしれません。けれども、起きていてももう、試練に立ちはだかる壁としても意味を為さないのも確かでした。

 大蛇が冬眠をする前に必死に食い物を探しているこの冬の夜の森で、もう浅く寝る事も出来ない私が寝るのはかなり危険です。

 どうしようか。

 ただ、そう悩んでいる間に私は座ってしまい、そして瞼が下がって来てしまいました。

 もう、悩む事すら出来ず、動く事もせずに私はその心地良さに身を委ねました。


-*-*-*-


 目が覚めると、目の前には、しゅるしゅると舌を鳴らしながら私を様子見している大蛇が居ました。

 驚き、私は思わず立ち上がり、吼えて威嚇しました。

 すると大蛇は驚いて逃げて行きました。

 どうやら、大蛇は寝ている私を襲って良いものか迷っていたようです。衰えても体躯の大きなワイバーンはワイバーンとして警戒される対象なのでしょう。

 危なかったと、いきなり跳ねた心臓を落ち着かせながら、ある程度は体の疲れが取れている事に気付きました。

 動ける。暫くは。

 腹は減っていましたが、もう食べる必要も無いでしょう。

 試練は今日、そして明日で大体終わります。それまでの間、何か食べずとも動けます。

 そうして、私はまた、歩き始めました。


 暫く歩いていると、赤熊に会いました。

 赤熊の寿命はどの位なのか、私は知りませんでした。しかし、この赤熊は未だに衰える気配を見せず、元気に生きています。

 赤熊は私を見つけると少し止まりましたが、大して興味も持たずにまた私とは違う方向に歩いて行きました。

 奔放な生き方を私は良いな、と思った事もありましたし、殆ど孤独に過ごしている赤熊を哀れに思った事もありました。

 赤熊は、無意識の魔法の使い方が単純であるが故に、魔獣の中でもとても強い部類に入ります。その筋力は他の魔獣の何にも負けませんし、その毛皮は剣や槍を用いたとしても容易には傷つけられません。

 赤熊にとって敵と呼べる存在は智獣にも、魔獣にも殆ど居ないのです。

 それは、生きていく上でどうなのか、私には分かりませんでした。敵が居ないというのは、目標が無いと言う事と同義な気がしたのです。

 特にこのたった一匹でこの森で暮らしている赤熊にとっては、雌争いをする事さえもありません。

 楽しいのでしょうか?

 とても聞きたくなる事でした。

 すたすたと去ってしまう赤熊を見ながら、それでも赤熊は納得しているんだろうな、と思いました。

 それも、一つの生き方でした。

 赤熊が見えなくなるまでぼうっとしていると、足に激痛が走りました。


「ヴゥ、ア゛ッ!?」

 驚いて、私は足を振り回してその唐突に噛みついて来た子供を振り解こうとしました。

 そこにもう一匹の子供のワイバーンが私のもう片方の足に突進を仕掛けて来て、私は転びました。

 ぶちぶち、と私の足の肉が、噛み切られ、私は悲鳴を上げます。

 血が噴き出したのが分かりました。

 私は遮二無二に尾を暴れさせますが、その尾にも噛みつかれます。

 振り返って姿を見ると、そこには昨日戦った子供のワイバーンではない、違うワイバーンが居ました。

 二匹で行動しているようで、どちらもどう見ても飢えた顔をしていました。

 噛み千切られても良い。ここで死んでも良い。けれど、簡単に負けてしまう訳にはいかない!

「ヴラァ!」

 私は吼え、体を寝返らせて尻尾に噛みついているワイバーンを反動で地面に叩きつけました。

 そのワイバーンは怯みますが、倒せてはいません。

 そしてその隙にもう一匹が私の翼腕に乗って来て、翼腕の根本に噛みつきます。

 私はまた、悲鳴を上げました。ぶちぶちとまた、私の翼腕が噛み千切られていく感覚がしました。それを振り解こうとしている間にまた、尻尾に噛みつかれて私は怯み、その間に両方とも、最後に一際大きくぶち、と音を立てて肉が噛み千切られました。

 つんざくような痛み。それが、私を襲いました。

 ただ、その噛み千切られた一瞬、私の体から二匹は離れました。

 私は体を回しながら移動し、とにかく二匹から一旦距離を取りました。

 右足、尻尾、左翼腕。どれももう、動きませんでした。尻尾からは毒針も放てません。もう、ただ遠心力で振り回すしか出来ませんでした。血がどくどくと流れ、すぐさま私の体から力が抜けて行きます。

 疲れでもない、もう、どうしようもない力の抜け方でした。

 その二匹は私の肉を呑み込むと、俄然力が入ったように私に向って襲ってきました。

 彼らは捨身でした。何もまだ食べていなかったのでしょう。そしてまた、どちらも才能あるワイバーンでした。

 ここで死ぬ。私はそう確信しながら、やはり、最後まで足掻く為に私も捨身になる事を決心しました。


 一匹が飛び、一匹が身を伏せて私に向かってきます。

 私は近くに来るまで待ってから、身を伏せて私に向って来たワイバーンのみに狙いを定め、姿勢を低くして片足で突進しました。

 狙われたワイバーンは私が怪我をしている事を見越し、私の左に避けようとしてきました。

 そうすると思った。

 私は、体を捻じってもう動かない翼腕をそのワイバーンに当てました。背中にもう一匹のワイバーンに乗られ、激痛が走りますが、私は無視する事にしました。

「グッ」と血塗れの翼腕を身に当てられ、そのワイバーンは一瞬怯みます。

 私はそこに噛みつき、木へと投げ飛ばしました。

「ヴルァッ!」

 背中の肉を噛み千切られ、毒針の針が無くなるまで刺され、仲間を片付けられたワイバーンが私に対して怒りを向けてきました。

 がくがくと、私の体が震えます。肉体に限界が訪れていました。

 後、少しだけ。後、もうちょっとだけ。体、動いてくれ。

 激痛が全身を走り、視界が完全にぼやけた中、私はそう思いました。

 ワイバーンがもう一度、私の背中に噛みついた途端、私はまた体を寝返らせました。ワイバーンは潰される前に跳躍して、今度は私の腹に着地しようとしていました。

 動く右翼腕を振り、先の方が着地しようとするワイバーンに当たり、叩き飛ばせはしなかったものの、バランスを崩して私の腹の上に墜落します。

 私はそこを、体を持ち上げ、翼腕で締めました。

「ア゛アアアッ」

 暴れますが、私はそのまま、体を前に倒れさせ、自分の重みと共にそのワイバーンを気絶させました。


-*-*-*-


 気絶させたワイバーンを最後の力を振り絞って腹の下から出し、仰向けになりました。

 だらだらと、私の全身からは血が出ていました。もう、目にはぼやけた何かしか映っていませんでした。

 空を見たかったのですが、残念です。

 けれども、激痛を覚えながらも、体が闇に沈んでいくような感覚を覚えながらも、私は満足していました。

 そう簡単に殺されるようなワイバーンが余り居なかった。

 それだけで、私は良かったのです。ただただ逃げ惑うワイバーン達を殺して回るだけにならなくて良かったと、私は安堵していました。

 ……ああ。

 私の、このワイバーンとしての記憶は、最後幻獣に転生した時、殆ど失われてしまっているのでしょう。

 それは、やはり名残惜しい事でした。

 楽しかった事は沢山ありました。

 そして、後悔も沢山あります。どう足掻いても再会出来る事は無いワイバーンにもう一度会いたいという気持ちも沢山あります。

 けれども、それらも含めて私は満足していました。

 ワイバーンとして、生きる事が出来た。私は、この自分を終えられるようになった。

 だからこそ、私は名残惜しく思うのですが。

 ……ああ。

 激痛が体から失われていく感覚がしながら、何か灰色が私の視界に映りました。

 木に叩きつけた一匹です。

 そのワイバーンは、きっと私が自分を殺さなかった事を疑問に思っているでしょう。

 その内、それは分かります。自分が試練を行う側になって、そしてこの群れで長く生きれば分かって来る事です。

「ヴーッ……アーッ、ア゛-ッ」

 最期に、このワイバーンとして私は声を出しました。

 族長のように綺麗でもなく、ただの普通のワイバーンの嗄れ声です。

 良い気分だ、と私は思いました。

 何にも勝るような安堵を私は覚えていました。

 灰色が私の視界から消え、気絶した仲間のもう一匹を起こす音が僅かながら聞こえます。

 それを聞きながら、ただ一つ、私はこの群れが、形が変わろうともいつまでも安泰である事を願いました。

 視界は狭くなって行き、音が聞こえなくなります。

 そして、私の体から、魂が抜け出て行く、体が軽くなる感覚を覚えました。


-*-*-*-


-*-*-*-


「……良い顔しやがって」

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私、ワイバーンです。 マームル @ma-muru

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