4-20
私がロの首から口を放すと、ロは体をゆっくりと起こして隣に座りました。
一度、寝転がろうとロはしましたが、背中に毒針が刺さっているのを思い出したようで、仕方なくと言ったように座ったまま私の方を見てきました。
私はもう、余り動けませんでしたし、動こうとも思いませんでした。
とても、疲れました。
しかし、ロは私の体に刺さった毒針を口で咥えて抜き、傷を舐めてくれたので、私も力を振り絞って起き上がり、ロの背中と尻尾、それと足に刺さっている毒針を抜いて、傷を舐めました。
私もロも、だらだらと血を流しましたが、そこまで大したものではありません。
強いて大きな怪我と言えば、ロの足にやや深く刺さった毒針程度のものです。私の翼腕の火傷も打撲も、後に残るようなものでもありませんし。
ふぅ、と私は一息吐いてまた、勝利の感慨にふけりました。
ただ、勝ったのか、と思っていると、自分の中でも勝った事が意外だったと思う気持ちがある事に気付き、少し情けなくも思いました。
太陽が、山脈の稜線から見え始めていました。
-*-*-*-
朝が過ぎて行き、私とロの麻痺も取れて来ました。
獲物もツイが持ってきてくれたのを食べ、ロも自分の子供が持ってきてくれたのを食べました。
出血も止まり、翼腕も痛みはありますが満足に動くようになってきています。
疲れは十分にありましたが、飛ぶのが難しいという程では勿論無いですし、また一日をここで過ごすつもりもありませんでした。
立ち上がると、ロは悲しそうな目で私を見てきました。
喧嘩をしようとロが思った理由は、最後にもう一度だけ、という名残惜しむ気持ちではなく、本当に帰って欲しくないという気持ちだったのでしょう。
しかし、無理に引き留めようとするつもりは流石にないようでした。
ロも立ち上がり、私とロは鉤爪を合わせました。がち、がち、と音を立てながら頭を合わせました。
「ヴゥ」と、ロが名残惜しそうに喉を鳴らし、私も喉を鳴らして返しました。
帰らなければいけない。
群れの一員として。私が、群れの一員として最後まで居る為に。
そうして少しだけそのままで居てから鉤爪を外し、私とロはもう一度向き合いました。
それから私は近くで毒針を木に向けて放っているツイを呼びます。
何故だか、緊張はしていませんでした。一緒に帰ってくれなくともそれはそれで良いと思っている訳でもありません。儀式でもなく、こちらに何も害を与えて来ないただの智獣を食べる事に関しどうでも良くなった訳でもありません。
けれども、理由は分かりませんが、それらの事が今朝ロと戦う前と比べたらそれ程重い事でも無くなっていたのです。
ツイは私の方に来て、本当に帰るのか、と疑問の目で私を見てきました。
ええ。帰ります。
私はそのまま翼腕を広げて、空に飛びました。
ドラゴニュートが私の方を、大狼に凭れながら見ています。軽く手を振るだけで、何か口を動かしたりする事はありません。
ロも、ドラゴニュートと同じく私の方を見ているだけでした。
これが本当の別れになるでしょう。私はこの不安定な群れに何もする事なく帰ります。
どうなるかは分かりません。私はこの群れに対して余り良い感情を持っていないのですが、ロとあの大狼が作った新しく出来つつあるこの群れに対して、滅んで欲しくないとは思いました。
そして、ロに対しても、満足した最期を迎えて欲しいとも同じ以上に強く思います。
当然の事でありましたが、私の身近で唯一生きていて親しい同じ代のワイバーンとしては本当にとても強く思う事でした。
試練で死に、色違いとの戦いで死に、捕われた挙句助けに来た私自身が殺してしまい、望まない族長になって早く殺される事を選ばなければいけなくなり。
私の身近な殆どのワイバーンは満足する事無く、私より先に死んでいったのです。
帰る直前になり、鉤爪を合わせた後、空に皮翼を広げた後になって、私は込み上げるものを感じました。
紛らわすかのように、私は目を逸らしてツイの方を見ます。
ツイは、悩んでいました。
帰りたくないのでしょうか。……それはそれで、仕方のない事です。
私は、待つ事はしない事にしました。
群れの方へ、私は体を向けて飛んで行きます。振り返る事もしません。
私はここに残るかどうか、それはツイの意志に完全に委ねる事にしたのです。振り返る事すらも、その意志に干渉してしまう気がしていました。
……少し、寂しいですが。
山脈に向って飛び、昼になる頃、私は群れが見える山脈の頂上に来ていました。
群れでは、冬のいつもの光景が広がっています。火を囲んで暖まっていたり、焚火用の木々を森から拾ってきていたりと、そんないつもの光景でした。
そんな平地では雪が降らないこの場所でも、森林限界を越えたここでは今さらさらと雪が降っていて、少し寒さが身に染みました。
冬も毛皮なしで耐えられる体の強さも、衰え始めているのでしょうか。
体がぶるるっ、と震えると、そう思わざるを得ませんでした。
そしてここで、私は初めて後ろを振り返りました。振り返らなかった理由は私自身にもあり、振り返っても名残惜しくなるだけという事がありました。
ここから見える光景は麓にある小さな村と、そこから伸びている小さな道以外は全て森が広がっているだけでした。
しかし、この光景を見るのもこれが最後でしょう。
もう、ここから出る理由もありません。元々、この老い始めた年齢になってここから出た理由も、自分を納得させたかっただけのようなものでしたし。
ふぅ、ともう一度私は息を吐きました。今、私はとても疲れていましたし、ツイが見えない事に関しても、結局そうなってしまったんだなあ、と少し悲しく思いました。
ああ。
でも、一応まだ、帰って来ないと決まった訳ではありません。
そう願う事にしました。
そしてもう一度、私は大きく息を吸い、吐きました。
この群れでこの、ワイバーンとしての生を終える覚悟、次世代の子供達の礎となって死ぬ覚悟は出来ています。
私の番だった族長のようにまで最後の最後まで恰好良く居られる程ではありませんが、そう在れるように頑張りたいです。
私は、そうして群れへと戻りました。
-*-*-*-
体は段階を踏むように老い始めていきました。
春になる頃からまず、私の目に対して体が追いつかなくなったのを感じ始めました。
いや、そもそもこの目に対して体が追い付く事自体とても凄い事だったのかもしれませんが、そうだったとしても思うように体が動かなくなっていくのはとても辛いものでした。
そして、老いた身として自分の洞穴に住む事を止め、少し離れた場所の、老いたワイバーン達が住む大きな洞穴に身を移しました。
体が思うように動かなくなってからは、喧嘩に負ける事も徐々に増えて行きます。
族長、次世代の族長になれる才能溢れるワイバーン、と強さの序列があったとしたら私はその次の位置に居ると自負していたのですが、もうそこには居られませんでした。
そして、体に皺も出始めてきました。
恐怖、というものを確かに私は感じていました。
自分の体が自分の物ではなくなっていく感覚、それは生物としての限界が近付き、土に還ろうとしている準備のように思えました。
しかしながら、それは微々たるものでした。
何度もこうして寿命を迎えて死んだ事があるからでしょうか。それとも、ワイバーンとしてそれはそこまでの恐怖では無いのでしょうか。
どちらでも無いと私は思います。強いて言えば、後者がやや近いです。
その恐怖が微々たるものである理由は、私と言う、父母から受け継いだ血脈を次に残す事が出来た、という事が私の中でいつの間にか強い安堵となっていたの事から来るものでした。
それは、毎日のように狩りに出る私の息子や孫達、マメとアズキの子や孫達を見て、確信出来る事でした。
きっと、これまで何度も子を産んだ事もあっただろうに。
そうも思いましたが、そうだとしてもやはり自分の子供がこうして元気に生きていられるというのは、私の中でとても強い安堵を生むものだったのです。
そして今、私の何代目の子になるかは忘れましたが、その一匹が私に対して喧嘩を挑んできました。
今ここに居る二種の特徴をそれぞれ受け継いだワイバーンです。そして、才能は私以上にある、族長になれるワイバーンでした。
しかし、まだ負けはしません。
本当に成獣したばっかりのワイバーンにはまだ、負ける訳には行きません。
まだまだ、私にはやれる事があります。それをしっかりと全うしなければいけません。
私は空へ飛びました。体には僅かな違和さえも感じ始めていましたが、大きくはありません。
「ウル゛ララ゛ラッ!」
……ああ。
その咆哮は、特別でした。胸に来るものがありました。そのワイバーンは私の番であった族長の血を受け継いでいると同時に、その族長の一番の友であった色違いの族長の血も受け継いでいたのです。
そして血だけではなく、強さも受け継いでいました。
あの二匹の魂は消えてしまったのでしょうか。それとも、どこかで幻獣として転生しているのでしょうか。
そんな事を思いながら、私は向って飛んで来るそのワイバーンに火球を飛ばしました。
-*-*-*-
智獣も無事にドラゴンに言われた数を食べ終える事が出来てほっとすると、それで私の中の何かが切れたのか益々私の体は衰えて行きました。
もう、後数年か、と私は思います。
死に対する怖さは常に薄く私の心を覆っているようで、それを思うとやはり、私は族長のように格好良くはなれないだろうな、と今でも敬意を覚えました。
族長と最後に交尾をし、そして気絶させられたあの日の事はとても良く覚えています。
族長の、何の負の感情も無くそれを受け入れていたその目は、あの時の私にとってはとても悲しいものだったのですが、今の私はそれに加えて絶対に折れない芯のある強さがあると思える目でもあると思えました。
そして、私は死が近付くに連れて気付きました。
私の中にそんな大層なものはありません。
私の中で一番強い思いは、自分を終わらせたいと思う願望です。ワイバーンとして生きて、ワイバーンとしてこの生を終わらせたいという思いも強いものですが、結局どちらも私自身の事です。
……群れに尽くした族長のその目は、そんな私には到底出来るものでは無いのです。
しかし、それでも良いのでしょう。
私はそんな生き方を出来るワイバーンでは無かった。私自身の魂に振り回されて、私自身を持て余して、それで精一杯だったのかもしれません。
私の今は、そんな生き方をした結果なだけです。無理に変えようと思う事もありません。
目に霞みも出て来た頃、ツイが帰って来ました。
それも、子供と番を連れて。
ああ、やり遂げたんだな、と私は嬉しく思いました。きっとただの智獣も沢山食べたのでしょうが、私と旅に出た時とは段違いに逞しくなっているその姿を見ると、そんなに私の中でも大した問題でも無い事になりました。
ツイは、本当に老いた私を見て、悲しそうにしながら鉤爪を合わせてきました。
……聞きたい事が沢山あります。
ロはどうしているのか。ドラゴニュートと大狼はもう死んでしまったのか。あの群れ自体は今も平穏なのか。
しかし、聞けない事に対して何もしようとは思いませんでした。それが、ワイバーンです。普通の獣、魔獣です。
ただ想うだけで、満足でした。
そして、ツイは構えてきました。
……もう、私はツイにも負けるでしょう。膂力も非常に衰え、飛ぶ事すらも辛くなり、寝る時間さえもが一日の半分を占めるようになりました。
私は、もう、ただの穀潰しでした。
もう少し弱ったら、試練に向います。
しかし、ツイは私を母として、そして先に逝く存在として、まだ自分の中でけじめが付いていないのでしょう。
私は、それに付き合う事にしました。
体を解し、肩を回し。
……きっとこれが私にとって最後の、母としての仕事だろうと思いながら。
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