3-10
待つ、という事を今まで殆どして来なかったのを今更気付いた。
そこそこの時間を過ごして来て、季節の巡りも日常の内となり、この群れの長となってから何回、待つという事をしただろうか。
外に出られるようになるのを待ち、自由に飛べるようになるのを待ち、暖かい春が来るのを待ち。
狩りを数え切れぬ程やり、食事をその回数だけした。
交尾を番達と何度も行い、何度も飽きぬ絶頂を迎え、何度も子を為して育てて来た。
喧嘩をし、この長となる前までは負ける事も幾多とあったが、長となってからは負けたのは一回だけだ。
どれも、数え切れない。だが、待つ、という行為は数えきれる程しかしていない。
だからこそ、こんな短い間を長く思うのだろうか。
思い返してみると、知った事は信じられない事ばかりだった。
自分はこの群れの中で、最も強いワイバーンの一匹である事は分かっていた。唯一俺と同じなのは、同じ長である、三つ角の彼だけだ。
誰よりも時間を分割出来、それに対応出来る。
誰よりも繊細且つ豪胆な動きを出来る。
誰よりも感覚が優れている。
そして、この群れで生まれてからずっと過ごしてきた俺は、森の事も熟知していた。
住んでいる生物の種類も大体知っていたし、赤熊と呼ばれているらしい、血の色とは違う綺麗な赤色をした熊が一匹で居る事も知っていた。
毎日のように狩りをしに行くから当然だが、この数年もおかしな点は無かった。強いて言えば、魔獣らしき馬が一時期ここに居た事位だろうか。
しかしまさか、数年も前から幻獣と呼ばれている、智獣とも俺や三つ角のあいつとも隔絶的に離れている生物が居る何て事、出会って、言葉と言うものを無理矢理習得させられてからやっと気付かされた。
……彼女はその内帰って来るらしい。
外界で死ななければ、俺がこの群れの長を辞める前に帰って来る。
「大した時間は掛からない。この群れを出た時点で、もう鍵は解けてしまったから」
「堰き止められた水が一気に放たれるように、彼女は思い出していく。もう、再び堰き止める事も出来ないし、その水がどうなるか、結末も一緒。
俺は何度もそれを見て来た。信用しても良い」
幻獣は俺よりも遥かに長く生きている。言葉にはその彼女を見て来た時間の重さがあった。
信じられると思えた。
しかし、信じられないと今でも思う。
初めてそれを知らされた時は特に、あり得ないとも思えた。
-*-*-*-
どうしても分からない。
何か目的を持っている事は確かだ。その目的が全く分からない。
どうして、嫌でも番を作ろうとしない? どうして俺の事を良く思っているだろうに、俺からも逃げる?
何故今、ここから去るんだ? 一体、何なんだ、お前は。
…………くそっ。
もう、雲の中に隠れてしまった。俺がここから出るのは良くない。
特に三つ角と居る今、今では友だとは言え、あいつも完全には信用出来ない。
追い掛けられない。
「ウルラララッ!」
……反応は、やはり、ない。
帰るしかない。
曇り空、嫌な気分だ。
肌寒く、じめじめとしている。暖かくなってきたとは言え、気が滅入る。
……気分が悪いな。とても気分が悪い。こんなのは初めてだ。
喧嘩をする気にもなれない。そうしてもこの憂さは晴れやしない。交わろうとも、同じだろう。一体、あいつは何だったんだ。帰って来るとも思えない。
いらいらしていた。誰でも良いから蹴飛ばしたい、獲物を一方的に蹂躙したい。そんな欲求にも駆られる。
咆哮として、取り敢えずそれを少しでも吐き出そうとした時、何かぞっとする感覚を覚えた。
初めての感覚だった。何なんだ?
……思い返す今こそ、その幻獣に会う度にその感覚はするが、俺にとってその感覚は、群れの長としては逃げてはいけないものだった。
そして、森から俺の居る上空まで酷く距離が空いているのにも関わらず、逃げてはいけないと思い、態々そこに行こうとした自分が馬鹿だったという事に、後で気付いた。
その時の俺の事を、井の中の蛙と言うらしい。
念の為、少しその感覚がする場所から離れて降りる事にした。
ただ、何とも言えない感覚だけで、その何かが近付いて来ているのも分かる。
……怖い? 狩りの立場が逆転したような、嫌な錯覚がする。
気付くと、相手の姿も見えないのに思わず身構えていた。呼吸も荒い。
何だ、この感覚は。
体が動き辛い。俺が狩る時、獣はこんなにも気配だけで脅迫されるものなのか?
明らかに違うだろう。
成獣する前、親にこの森の中にほっぽり出されて猪と対峙した時、そこまで俺の体は強張ってなかった。猪の方が有利だったが、それでもだ。
更に、猪から何度も突きを食らい、立ち上がるだけなのもやっとになってさえ、こんな強張りはしなかった。
……勝てる気が、しない。微塵たりとも。
いや、俺は何を考えてる? 俺が勝てなかったらそれは、この群れが終わるのと同じだ。
姿が見えた。
俺はそこで、いつの間にか戦意を失くしていた。勝てないという事が姿を見ただけではっきりと突きつけられた以上に、その麒麟と呼ばれているらしいその幻獣の美しさに戦いの気持ちを奪われた。
柔らかい土の上を、耳を澄まさなければ聞こえないような微かな音しか出さずに、その四足の美しい獣は俺に近付いて来た。
目が自然と合う。
逃げなければ、という気持ちが削がれた。いや、削がされたのか。
俺達が身振り素振りで気持ちを伝えるのよりもより強く、その目の意志だけで、俺を殺さないという事が分かった。
また、俺に用があるという事も。
そしていきなりその獣は何かを俺に対して行い、俺がそれに身構えるよりも前に、頭に何かが流れ始めた。
「ヴッ……」
何だ、これは。
「動かない方が楽」
……何故、……あれ?
何だこれは。俺は、何を思考している? いや、そもそもどうして、智獣が使うような言葉を……。智獣? 言葉?
いや、俺はこんな明確な言葉を使った思考、今までした事がない。俺、明確、言葉、思考。何だそれは。勝手に分からされている。
勝手に俺の頭が塗り変えられていくような、何だそれは。
「言葉が伝わらなきゃ色々不便だから、勝手に聞き取れるようにしてる」
そもそもどうして、こいつの言葉が理解出来るようになっている?
俺の頭に勝手に記憶が流れ込んでいく。痛みは無いがとても不快だ。俺の体が、俺だけのものではなくなっていくような、そんな勝手に俺を否定されたような、そんな感じがする。
俺の感覚が、こいつの感覚に塗り替えられていく。
「ウルラッ!」
「嫌? 言葉を持たない種族に説明する方が面倒なんだ。我慢して」
ああ、くそったれめ。
無視すれば良かった。切実に。
もう、遅いが。とても、もう。
「……さて、俺の話す言葉は理解出来てる?」
理解出来ていた。そして、抵抗のしようもない。
渋々頷くと、その幻獣は続けて言った。
「幻獣ってのは、こうやって記憶を無理矢理与える事も出来る。
言葉だけを聞き取れるようにしても、それに付随する知識もなきゃ意味が無いから。そんな知識も入ってる筈」
確かに、と嫌々俺は辺りを見回した。
赤く、甘い果物が秋頃に成る木と覚えていた木の種類の名前が出て来た。
この森に住む、赤熊の特徴が自ずと今まで知っていた以上に細かく浮かび上がって来た。
「まあ、全部お前達の生活には要らないモノだろうけれど、お前が知りたい事を教えるにはこうするしかないから。我慢して」
……知りたい事?
「もう数年、ここでお前達の生活を見てる。お前、あいつの事を不思議に思っていただろう? その位分かる」
あいつ……。
何故、こんな幻獣が彼女の事を俺より知っているように言うんだ?
「記憶を無理矢理押し付ける方があいつの事を知るには手っ取り早いんだけど、暇だから口頭で伝えても良いかな。どっちにする? 口頭の方が良い?」
俺はそれに頷いた。記憶を押し付けられる感覚は嫌な事極まりない。
「そうか」
麒麟は座り、言った。
「少し、長くなる」
-*-*-*-
月明かりはまだ少なく、朝になる前に私はロを急かして町の方へと飛びました。
日中、森の中に降りて身を隠し、ロが馬に乗って駆けている人間の群れを襲おうとするのを止めたりしながらも、町へと飛びました。
ロは、私がロに頼み事をしたい事を何となく分かってくれているようでした。
夜になり、町の近くに着きました。ロはやはり見つかる事自体は怖いのか、少しそわそわとしています。
少しだけ待っていて。
「……ヴル」
何をしたいんだ? そう問われますが、待っていてと私はもう一度伝え、私だけ一旦町の中へ入りました。
翼の音を極力立てないように、滑空するように私は町の中を飛んで行きました。
火が焚かれている場所は少なく、町はかなり暗いまま、静寂に包まれていました。
魔法は肉体と魂の波長を合わせる事によってしか使えず、即ち物に任せて魔法が勝手に行使されるという事はありません。
残念と思う私がどこかに居ましたが、今はそれに安堵していました。
無人で外を明るくするには、火を焚くしか方法が無いのです。誰かが居たとしても、魔法が使えなければそれは同じです。
高度な技術が無ければ、途端に上空まで明るくする事は出来ません。私が見つかったとしても、逃げ切れない事はまず無いでしょう。
私は暫く飛び、外を出歩いている智獣が殆ど居ない事を確認してから、魔獣の檻のそこそこ近くに降り立ちました。
見張りが居たら、それを始末してからロを連れて来ようと思っていました。
見える限りでは二人が火を持って檻の近くを周回していて、それを始末出来れば、短い時間でしょうがロを連れて来れると思えました。
ゆっくりと、石畳で舗装されていない土の地面の上を音を立てないようにして歩いて行きました。
耳を足音に傾けながら、私は慎重に待ち構える場所を決めて待っていました。
毒針を首に放って声を出せなくしてから、血を出さないようにどうにかして殺し、死体をどこかにやってしまおう。
食べたいのは山々でしたが、流石にそうしている時間も余裕もありません。血の臭いも出てしまう事ですし。
そして、失敗は出来ません。心臓は少し高鳴っていました。
少し時間が経つと、ざり、ざり、と足音と共に声が聞こえてきました。
「マスターがさあ、偶に悪態を吐く時に俺達じゃ分からない言葉で何か呟いているじゃん。『くそったれ!』とか『役に立たねぇな』とか。あれって何て言ってるか知ってるか?」
「くそったれ、と役に立たない、だ」
「……ま、汚い言葉とは予想していたがな。人間ってのは、どうも裏表が激しくて困る」
「同感だ。それにさ、どうして海の向こうから来たって奴等は種族差別が激しいんだろうな。未だにあっちは種族毎でしか国を作ってないみたいだし、戦争もやっていない時は無いんじゃないか、と思える位しているし。
そういやさ、『お前等は野蛮だ』とも良く言っているだろ? それ、お前等は野蛮だ、と言ってるんだぜ?
あんたの方が野蛮だっつーの。笑えるよな」
「ははは、馬鹿らし。良いとこねえな、マスター」
…………え?
どうして、私の思考している言語が人間の言葉なのでしょうか? それも、他の種族に排他的な国の。
どうして、私の前世はコボルトなのに。一体、何がどうなって。
何か、途轍もなく嫌な予感がしました。
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