2-9

 痺れで殆ど動けないまま、外から数匹のワイバーンがやってきました。

 それに続いてアカが後ろから申し訳なさそうに、おずおずと歩いて来ます。

 とす、と私の目の前に一匹のワイバーンが降り立ちました。それが雄であるのを見て、私は怯えました。

 痺れている私の体が僅かながらびく、びく、と震えています。

「……」

 けれども、目の前のワイバーンはただ、私を見つめているだけで、何も声を発しませんでした。

 ばさり、ばさりと滞空したまま私の方を見ているワイバーンも数匹居ました。多分、私の母も居ると思えました。

 私が成獣してからも、私達兄妹に何かあった時は必ず傍に居てくれたのです。

「……ウル」

 あれ、この声は。

 儀式の時に必ず聞く、一番最初に戦うワイバーンの勝利の声でした。族長の声でした。

 ああ、そうか、と私は今更になって理解しました。

 私がやった事は、どんな事情があれ、仲間殺しでした。喧嘩の時の事故みたいなものではなく、殺意をもった殺しでした。

 そして今、私は裁かれているのだとも理解しました。

 けれども、これで私も裁かれるのはどうしても納得が行きません。そもそも、私以外にもこうやって拒絶の末に殺したワイバーンは居るでしょう。

 私がカラスが本当に死んでしまったのかを確かめに行った時に、成獣のワイバーンの骨があるのを見たのを覚えています。

 ばさり、ばさり、といつの間にか翼の音以外聞こえなくなっていました。下からは、いつの間にか交尾の音は聞こえて来なくなっていました。私のやった事が仮に正しかったとしても、それはとても大きな事だったのだと私はその静寂から察しました。

 族長は一度声を上げてからも、ただ私を見続けていました。

 私は自分の下にある胃液に痛みを感じ始めていましたが、体の痺れ以上の族長の静かな威圧によって動けませんでした。

 ずるり、と族長の尻尾が私の顔に向かってきます。

 私はそれを見て体を震わせました。今、私は陸の上の魚のようなものです。その尻尾が少し動くだけで私は殺されてしまうのです。

 しかし、それは私の顎の下に丁寧に入り、私の体を傷付ける事はありませんでした。そして、ゆっくりと私の頭は持ち上げられ、私の目を族長が覗き込みました。

 族長の目からは、怖さは感じませんでした。その時も裁きを決める途中だったのでしょうが、私はもう殺される事は無い、と、何となくその目と、私を持ち上げた動作の優しさで分かりました。いつの間にか、族長にあった威圧も消えていました。

 そして、族長はそれから大きな舌を出して私の涙を舐めました。

 …………。

 私は何度か瞬きをしました。怯えなんてとっくに消えていました。

 ええと、私は単純なのでしょうか。それだけで、私の心臓は高鳴っていました。涙を舐められても、その行為に不快感は全く無く、包まれるような温かさがありました。

 私が殺したワイバーンとは全く違う、慈しむような行為でした。

 それから一瞬にして族長に落とされた私が茫然としている間に、族長は私を胃液がある場所から丁寧にずらして寝かせ、鼻や背中の傷も舐めてから去って行きました。

 それと入れ替わりで私の母とアカの母が洞窟に入って来て、それ以外のワイバーンは族長同様に去って行きました。

 それから先の事は良く覚えていません。とても混乱していたのだと、その時の事は思います。


-*-*-*-


 気が付くと、朝ではなく、昼が来ていました。

 体は気怠く、洞窟の中に双方の母は勿論、アカも居ませんでした。ぼんやりとしている頭で昨夜に起こった事を思い出すと、はっと目が覚めましたが、余り動きたくもありませんでした。

 けれども毎日の欠かさず訪れる空腹は抑えられずに、私は森にゆっくりと飛び立ちました。


 猪を空中から踏みつけて殺し、それを満足するまで食べてから私は木に凭れ掛かってゆっくりと息を吐きました。

 未だに、私の意識はぼうっとしていました。狩りの途中でさえ、日常として大して意識せずとも出来るようになっている性でぼうっとしていた位です。

 昨夜に起きた出来事は余りにも私の中で印象が強く、まだ整理が付いていないという感じでした。

 思い返してみると、私は自分よりもとても強いワイバーンに、命がけの勝負、殺し合いで勝ったのです。例え、そのワイバーンが一番晒していてはいけない弱点を晒していたとしても、その事実は変わりません。

 もし、襲われていたのがアカだったら、アカは勝てていなかったでしょう。そうだったとしたら、私が加勢出来なかったらアカはあのワイバーンに犯されていたのです。

 しかしながら、昨日襲われるのは私でほぼ確定していました。私が負け、犯された後でもアカは襲われなかったでしょう。

 じっと私は自分の体を眺めてみました。

 腹にも翼腕にも足にも尻尾にも、そして自分では見る事の出来ない背中や頭も私は傷だらけで、その中には一生消えないような傷や、つい最近の生傷等、様々な傷があります。成獣になってから、喧嘩を毎日のするようになってからは、常にこうでした。

 昨日背中に受けた刺し傷や折れた鼻はまだ少し痛みます。

 その数多の傷を受け、幾多の喧嘩をして、そして智獣を食べた事によって、私は強くなりました。目指していた本当に成獣したワイバーンになりました。

 だからこそ、あのワイバーンは私を犯しに来たのでしょう。あのワイバーンの価値観では、体だけ成獣しているワイバーンは犯す価値も無い、とかそんな見方をしていたのだと思えました。振り返って思い出してみると、私を犯そうとした時、私へのみの執着が強くあったと思えたのです。

 そうでなければ、成獣した時点で私達は犯されていてもおかしくありません。昨年や一昨年でなく、この年に犯されようとされた意味がありません。この群れのワイバーンはそんなに多くないのです。

 そう考えるとしっくりきましたし、アカとは一枚の壁で遮られたような隔たりも感じてしまいました。

 ……アカも、その内私の元から去って行ってしまうのでしょうか。

 一緒に森へ行かなかったのは、とても久々な事だったのです。


 そして、もう一つの出来事も私を未だに葛藤に陥らせていました。

 私は族長に今、惚れています。昨夜のたったあれだけの事で、私は族長に惚れてしまったのです。

 今は族長となら、交尾したいとも思っていました。族長には特別沢山の番が居るのですが、その中の一匹になっても良いと本気で思っていたのです。

 しかし、それはここで一生を終えるという事とほぼ同義な気がしました。

 子を産み、育て、そしてこの群れに尽くして一生を終える。それもワイバーンとしては平和で悪くない生き方でしょう。アカが望む生き方もきっとそれなのでしょう。

 ただ、私にとってはそれは後悔する生き方だ、とどうしてか断言出来ました。まるで、何か確証があるかのように。

 ……数年間この群れの中で暮らしてきて、結局前世を持っているような、私のようなワイバーンは居ないだろう、という結論に至りました。赤熊に対しても接触は数回、僅かにしかしていませんが、きっと違うと思えました。

 この群れから出ても私の前世が分かる可能性は限りなく低いのでしょうが、この群れの中にずっと居たならば、限りなく低いでもなく、全く無い、という事になります。

 前世が何だったか、は私にとって一生付き纏う疑問です。群れの中で生きると決める事は、その疑問を解決するのを諦める、という事でした。

 そう決めて生きた時、私が子供のワイバーンに引導を渡す時、私は絶対に後悔している。私自身の正体を追わなかった事を後悔している。

 そしてそれは、私にとって族長と番になるという決断はしてはならないという結論に至ったのです。

 しかし、惚れてしまった身としてはその結論はとても苦しいもので、私は結局悩み続けていました。


 詰まる所、この群れから出るという事は私は孤独になるという事です。

 私は強くなりました。下手に戦いなどを挑まなければ、私は外でも生きていけるでしょう。

 行こうと思えば今からでも行けます。

 しかし、私はまだ、行かなくて良いとも思いました。ワイバーンの平均寿命は五十年位だった筈。私はまだ五歳。まだまだ、慌てるようにして行かなくても良いでしょう。

 それに本当に成獣したと言っても、それはやっとひよっ子を卒業しただけの事です。昨夜、嫌と言う程それを実感しました。それに、この群れを出ても生きていけるでしょうが、厄介事にはそんなに首を突っ込めない、という事でもあります。

 前世を探るには、そんな強さでは困るでしょう。

 また、アカの事もあります。私から離れていくならば、離れていくまで待っていようとも思いました。

 私のワイバーンとしての繋がりが無くなってしまった方が、この群れから出るには気楽で良い、と自分勝手に決めていたのです。


 夕方まで今日は喧嘩も特訓もせずにぼんやりと過ごし、残しておいた猪を食べきって私は崖へと戻りました。

 何もせずに過ごしたのは、成獣してからは全く無かったんじゃないかと私は今更ながら気付きました。

 毎日毎日毒針を飛ばし、アカと喧嘩をして、偶に曲芸飛行とかもしてみたり。

 寂しい一日でしたが、何もしなかった事が逆に新鮮で、変に充実感があるようなそんな一日でもありました。

 一旦、私はそのまま洞窟には戻らず、崖下に降りました。

 昼間から交尾をしているワイバーンも少なくなく、私はそれを傍目に見ながら、足に付いたねっとりとした液体を仕方なく思いながら地面に擦り付け、昨日私が殺したワイバーンの死体がある方へと歩いて行きました。

 糞尿は何か燃えやすいガスでも発生させていたのか、広範囲に渡って燃えた形跡が残っていて大半が黒く焦げていました。そこに漂う臭いは異臭ではなく焦げた臭いになっていました。

 燃え尽きて、体積が少なくなった糞尿の跡からは、沢山の子供のワイバーンの骨だけではなく、成獣したワイバーンの骨もちらほらとありました。

 私が昨日起こした事のような事態が、何年かに一度起きているのでしょう。寝ぼけて落ちたなんて事も、もしかしたらあるのかもしれませんが。

 それから少し歩き、私はその死体を見つけました。

 昨日私が殺したそのワイバーンの死体は周りの糞尿と共に燃えてしまっていて、中の火球の燃料にも引火したのか、腹の中身が爆発したかのように辺りに飛び散っていました。

 弔われる事も無く、無残な死体となってそこにありました。

 ……嫌だな。

 私はどうにも、変な気持ちに囚われました。それは、とても惨めな死に様でした。

 私が殺したとは言え、こんな死に方はしたくない、と強く思いました。自分勝手に生きて、その為に死んでいく。

 魔獣に限らず、全ての生物は基本、ある程度は自分勝手でしょう。けれども、それが原因で死にたくはないと、強く私は思いました。

 …………。

 その時、私の記憶が何かその思いに変に反応した気がしましたが、反応しただけで何かを思い出す事はなく、その代わりにとても馬鹿らしい、と何故かそんな自嘲した感覚に襲われて私は寒気がしました。

 その寒気は、とても怖いものでもあり、私は怯えたようにその死体から目を逸らしてすぐさま洞窟へ逃げ帰りました。

 それは、前世を知る事は不幸に繋がるような、そんな予感がする出来事でした。


-*-*-*-


 アカはあの時、ただ怯えていただけの自分を恥じたようで、私とは別に激しい運動を自分に課すようになっていました。私にいつの間にか追い抜かれて、それを追い返そうと頑張り始めていました。

 私は結局、族長へ突如湧いた恋慕を捨てきれないままでしたが、族長に求恋をしに行く事もしませんでした。前世を知る事が私にとって不幸に繋がる事だとしても、私はもっと強くなってからこの群れを出る事に決めていました。


 発情期もそろそろ終わりを迎える頃、昼頃に私は母に連れられてとうとう、本当に成獣したワイバーン達の喧嘩の場所へ迎えられました。

 やはり、迫力は段違いです。

 毒針が飛び、火球が炸裂し、翼腕が思い切り振るわれ、雄叫びが強く鳴り響いていました。

 火球を諸に食らったワイバーンが走って川へ飛び込み、激しい空中戦の末、もつれ合いながら危なげに両者着陸した所もあります。

 ずん、と地面が鳴り響きます。その振動を味わいながら、この強者の場所にとうとう来れたのか、と私は感動していました。

「ヴルル」

 母が私を引っ張り、上の方を向かせます。

 すると、ふわり、と族長が空から降りてきました。音も立てずに私の目の前に着地し、そして不思議そうに私を見ていました。

 ……どうやら、族長は自信家のようでした。

 多分、私が交尾をしに来なかった事を不思議に思っているのだと思えました。

「ルララッ」

 母は族長に一声掛けてから去りました。そして、族長と私だけが残されました。

 一番最初に戦う相手としては、単なる喧嘩だとしても私には相当の覚悟を決めなければいけない相手でした。


 儀式の度に必ず一番最初に戦い、一番最初に勝つ族長は、今まで一体どれだけの智獣をその糧にしてきたのでしょうか。

 今まで一体、どれだけの喧嘩をし、どれだけの勝ち数を上げてきたのでしょうか。

 何もかもが私とは段違いです。唯一私が勝っている点を上げれば、この前世の記憶でしょうが、それはこの場では何の役にも立ちません。

 ただ、私は全力を以てして族長に挑む他無いのです。

「ラルルッ」

 さあ、戦おう。

 族長は私にそう、言いました。私は無言で頷き、族長の目をしっかりと見ました。

 もう、私を不思議そうに思っている目はどこにもなく、ただ純粋に私を推し量る目だけが残っていました。

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