第1章 孝公の時代

秦の孝公

 長平の戦い、と呼ばれる戦いがあります。秦の武安君・白起が、趙の将・趙括の率いる四十五万人(四十万人ともいう)の兵を撃破した戦いです。この戦い以降、秦と、趙を中心とした中原諸国との力のバランスは一気に変化し、秦が中原に勢力を一挙に拡張することになります。趙は弱体化し、秦は相対的に強大化しました。秦帝国の実現はこの戦いの成功によったものともいえるでしょう。


 しかしなぜ、長平の戦いは起こったのでしょうか?また長平の戦いに、なぜ秦は勝利したのでしょうか?


 それには漸進的な秦の成長があったことがあります。秦という国は、ゆっくり、ゆっくりと力をつけ、国力や制度を整えていき、勢力範囲を広げていった結果、帝国を築いたのです。


 秦、という国は、中国の西北方に位置する地域から興った国です。B.C.362年に秦の獻公けんこうが亡くなって、孝公が二十一才で位を継いだころには、秦という国は函谷関よりも西の地域に、函谷関の西にある黄河の流れの、さらに西の地域に押し込められていました。


 このころには、のち六国と呼ばれる強国、韓、魏、趙、せい、楚、燕の他の六国はすべて秦の西の肥沃な地帯に位置し、黄河周辺やそれより東に、函谷関より東の地域に存在し、淮水わいすい泗水しすいの間には、まだ宋、魯、すう、滕、せつげいなどの十あまりの国がひしめき合っていました。秦は痩せた土地の地域に押し込まれ、まだ未開の国でした。


 そのうち直接秦と国境を接していたのは、魏と楚の国でした。


 魏は秦や北方に対し長城を築いて防御の線を作っており、その他にも河西の地、もしくは西河の地と呼ばれる黄河以西に存在する土地を領有していました。


 楚は漢中と呼ばれる地域から、南は黔中けんちゅうと呼ばれる地域に至る領土に影響力を保持していて、その強盛な勢力を誇っていました。


 そしてこれら六国から他の十あまりの国々に至るまで、皆が秦を夷狄の国と考え、排斥し、中原の国家とは考えていなかったのです。


 孝公は感じました。


「おかしい、この状況はおかしい、なぜ我々は卑しく見られ、国に力はないのか?」


 そして、徳を布き、政治を修め、秦を強くしようとしたのです。

 そこで孝公は国中にお触れを出しました。


「今まさに東伐し(東へ侵攻し)、先祖・穆公ぼくこうの支配された故地(元の領土)を回復し、穆公の布かれた政令を修めたいと思う。私は父上の国勢回復の想いを抱き、常に心を痛めている。賓客ひんかくや群臣でよくすぐれた計略や秦を強くする策を出せる者があれば、私は高位の官に取り立てて,その者と封土ほうどを分かち合いたいと思う」


 文中にある穆公とは、先にあげた『秦誓』の穆公です。穆公は西方のようの間の土地(岐山きざんとは周の発祥の土地)に徳政を修めて領土を開き、東は中国のしん(のちに韓・魏・趙などの国々に分かれる)の混乱に介入し、領土伸長の成果を上げた人物です。黄河周辺まで勢力を広げ、西は戎狄(夷狄)の主となりました。


穆公の時代、土地の広さは千里となり、周の天子は伯の位を穆公に授けて、諸侯はことごとく覇者たる穆公の影響下に入りました。


 このように穆公が秦の国の後世の基となり、勢力を急速に伸長したのですが、その子孫たち、厲公れいこう躁公そうこう簡公かんこう出子しゅっしの代の間に秦の国は内部で大いに乱れ、外からの国々の圧力に上手に対応しきれずに、趙、魏、韓の国々に攻め込まれ、穆公までは保っていた黄河以西の地すら魏に侵略され、失うこととなっていたのです。孝公の父である獻公けんこうが即位して以降はやや秦は国勢を盛り返し、西北にあって中国の辺境を守り、櫟陽れきようの地に本拠地を移すようになっていました。


 獻公は、黄河より西に入ってこられた魏の土地、元の秦の土地を取り戻そうと努力しましたが、志半ばで亡くなりました。そこで「東伐する」「先君の遺志を継ぐ」というお触れが出たのです。

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