第4章 始皇帝の時代

孝文王の時代、あと魯仲連のこと

 時代は、孝文王の時代となりました。


 元年(B.C.二五〇)


 冬、十月、己亥、王が即位しました。三日にして薨じました。子楚が立ちました。これが莊襄王となります。華陽夫人を尊んで華陽太后とし、夏姬を夏太后としました。


 華陽夫人は子楚をあとつぎにしてくれた人、夏姫は生母だともいわれます。そのため二人が太后となったわけです。


 燕將が齊の聊城を攻め、これを抜きました。


 あるものがこのことを燕王に讒言しました。そのため燕將は聊城を保ち、あえて帰りませんでした。齊の田單がこれを攻め、歲余にして下りませんでした。魯仲連がそこでふみをつくり、これをしばって矢で城中に射ました。


 燕將にとどけ、そのために利害を陳べました。


 魯仲連の手紙は以下のようでした。


あなたのために計る者がもうします、燕にかえらなければつまり齊にかえる(帰服する)ことになります。今、ひとり孤城を守り、齊兵は日び益して燕の救いは至りません、将何為乎(はた何をか為さん)いったいどうされるのですか?」


 燕將は書をみて,泣くこと三日、猶予ゆうよ(惑って)自ら決することができませんでした。燕にかえろうとしても、すでに王との間に隙がありました。齊にくだろうとしても、齊で殺した虜がはなはだおおく、すでに降った後に辱められることを恐れました。


 喟然として嘆じて申しました。「人に我を刃させるよりは,むしろ我、自ら刃せん!」


 遂に自殺しました。


 聊城は乱れ、田單は聊城に克ちました。帰って、魯仲連のことを齊王に言い、彼を爵しようとしました。


 仲連は海上に逃げました、海にこぎだしたのでしょうか、申しました。


わたしは富貴となって人に節を屈するよりは、むしろ貧賤であって世を軽んじ志をほしいままにしたいのだ!」


 逸民の考え方、というべきでしょうか。


 魏の安厘王あんきおうが天下の高士を子順(孔子の子孫、前出か)に問いました。


 子順は申しました。


「世にそのような人はいないでしょう。もしその次を考えるのであれば、それは魯仲連でありましょうか!」


 王はおっしゃいました。


「魯仲連はつとめてそのようなことをす者である,自然を体するのではない」


 子順は申しました。


「人はみなこれを(努力して)作すのであります。作してまなければ、そこで君子と成ります。これを作して変わらなければ、習慣になり、それを体することが成る(できる)のです。そしてそれが自然というものなのです」


 ここでは『自然』ととっていますが、『体自然』と漢文ではなっており、体、自ずから然り、とでも読むのかもしれません。我々の思う、『自然』という概念とは少しずれており、老荘の思想のにおいもするようですが、わたしにはわかりません。


 ともかく、昭襄王のあとをついだ孝文王の時代は、三日で終わったと『通鑑』はしています。


 ただこれについても付け加えると、『文』という諡はかなり名誉ある諡で、周の文王のことなどを考えていただければ孝文王という諡が引っかかられる方はおられないでしょうか。


 荘襄王がすぐに跡を継ぎ、さらにこの後、秦始皇が後を更に間を置かず継いでいきます。


 この孝文王という人物は、実在したのか、あとからまつられたのか、非常に興味のある人物ですが、詳細はわかりません。誰か考証家の論があるかもしれませんし、『史記』などで違った年代区分けの記述があるかもしれませんが、ここではわからないとし、次に話を進めたいと思います。


 時代は、荘襄王の時代に入ります。



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