長平から邯鄲包囲戦へ・白起の病


 秦王は應侯おうこうのためにきっとそのあだに報いようとしました。魏齊ぎせい平原君へいげんくんの所にいるのを聞き、そこで應侯のために好言こうげんで平原君を誘い秦に至ってらえました。使つかいつかわして趙王に言って申しました。


「齊の首を得なければ、わたしは王弟(平原君)を關(函谷関)から出さないでしょう!」


 魏齊はきゅう虞卿ぐけいにあたりました。虞卿はしょうの印を棄て、魏齊とともげました。魏に至り、信陵君しんりょうくんによってそして楚へ走ろうとしました。信陵君のは齊にまみがたしとのことでした。魏齊は怒り、自殺しました。


 趙王はついにその首を取りそして秦に与えました。秦はそこで平原君を帰しました。


 ここに初めて魏の信陵君が出てきます。よく覚えておいてください。義に厚く勇気ある人でした。『史記』の列伝などを紹介するのも一つの手なのですが、ここでは『資治通鑑』の記述に従います。のちに詳しいことが出てくるので、それを待っていただきたいと思います。


 あと、ここでは王弟の平原君が囚われの身になっていることがあらわれています。この長平のせめぎあいのときに、使者の往来があったのでしょうか。このあたり、記事が錯綜している印象を私はもっているのですが、そのあたりは定かではありません。


 ここでは、趙にもいられなくなった秦への反対派の虞卿が魏齊とともに信陵君のもとに身を寄せようとしています。しかし信陵君の態度がはっきりせず、ついに魏齊は自殺します。行き場を失った人が絶望の果てに、たどり着いた道です。私には他の道はなかったのかとも思いますが、魏齊にとっては、信陵君に信じられなければ、もう行くところがない、信陵君とはそのような最後の砦だったのかもしれません。


 さて一方の秦です。九月、五大夫の王陵おうりょうがまた兵をひきいて趙を伐ちました。武安君ぶあんくんは病で、行くことができませんでした。


 ここに大きな転換点が起こります。ここまで秦の進撃を支えてきた名将・白起が病に倒れたのです。秦にとってその損失は小さくなかったでしょう。長平の激戦の末、怪我によるものでしょうか、そのあたりの史料は残っていません。もし趙括が死地での戦いで、白起に怪我を負わせていた、その様なことがあれば面白いのかもしれませんが、歴史史料には何も残っていません。


 わが国では三方ヶ原の戦いのあとでの武田信玄の死去の逸話などがありますが、白起の病は秦の進撃に少なからぬ影響を与えます。それについてはあとにわかるでしょう。


 周の赧王たんおうの五十七年(B.C.二五八)


 正月、王陵が邯鄲を攻めました。利、少なく、ますます卒を発して陵をたすけましたが、陵は五人の校(八百人を率いる部隊長)を失いました。


 武安君ぶあんくん白起はくき)のやまいえ、王は王陵と代えさせようとしました。武安君は申しました。


「邯鄲は実際はまだ攻めやすくないのでございます。かつ諸侯の救援が日び至るでしょう。


 かの諸侯どもは秦の日が久しきこと(秦が日々勢力を伸張してゐること)をうらんでおります。秦が長平に勝ったといえども、士卒の死者は半分を過ぎ、国內の民は空しく、遠く河山に絶たれた地で人の国都を争っております。


(ちなみに、秦から邯鄲を攻めようとすれば、大河と王屋山を越えねばならず、さらに太行の諸山の険阻がありました。それらを橫ぎり渡るのを、『絶』、と申したのです。)


 趙は秦兵の内に応じ、諸侯は秦兵の外を攻めます。秦軍が破れることは必定でございましょう」


 王が自ら命ぜられましたが行きませんでした。そこで應侯に武安君に請わせました。武安君は終いにやまいだと辞しました。そして行くことを承知しませんでした。王齕を王陵に代えました。


 先に述べましたが、ここに武安君の発言や様子が詳しくでていますが、それについてはまた触れましょう。自分には思っているところがあるのですが、まだそれは伏せておくことにします。


 武安君の病は、本当に不治の病だったのでは、ということです。


 ただそのことについては、後に触れたいと思います。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます