長平の戦い (周・赧王 五十五年)

 周の赧王なんおうの五十四年については記述が有りません。


 続く、五十五年(B.C.二六〇)


 秦の左庶長、王齕おうこつが上黨を攻め、いくつかの都市を攻略しました。上黨の民は趙へと逃げ、趙は廉頗を長平というところに布陣させました。


 後の後漢についての記録には、上黨の泫氏縣に長平亭があった、とあります。上黨の地域にあった拠点のようです。


 廉頗は長平で上黨の民を撫安し拠点としました。


 王齕も攻略した都市を拠点とし、趙を伐ちました。趙軍はしばしば戦いましたが勝てず、一人の裨將ひしょう(副将)、四人の尉(将校)が逃げ出しました。


 趙王(太后)は樓昌ろうしょう虞卿ぐけいと謀りました。樓昌は重使?を出発させ講和をすることを請いました。


 虞卿は申しました


「今講和の主導権を握るものは秦にございます。秦はきっと王の軍を破ろうとするでしょう。往きて講和を請うたとしても、秦の将軍は納得しないでしょう。使いを遣わして貴重な宝で楚、魏を味方にしましょう。楚、魏がこれらの宝物を受ければ、秦は天下が合從策をとることをうたがうでしょう。講和はそれから成立できるのでございます」


 しかし王(太后)はその意見を聴きませんでした。鄭朱を使いさせ秦と講和させ、秦はその講和の使者を受けました。王(太后)は虞卿にいっておっしゃられました


「秦は鄭朱をれたではないか。」


 虞卿はこたえて申しました。


「王はきっと講和できず軍も破(敗)れるでしょう。どうしてかと申しますと、天下の戦勝を賀する者はみな秦におります。


 そもそも鄭朱は貴人であり、秦王、應侯はきっと鄭朱を顕かに重んじて天下に示すでしょう。天下は王が秦と講和するのを見て、必ず王を救わないでしょう。秦は天下が王を救わないのを見れば(王を攻めるでしょう)、そこで講和は成立しないのです」


 やはり秦は果して鄭朱をちやほやしますが趙に講和の約束は与えませんでした。


 ここに胡三省は嘆いています、歴史家が言うように趙の軍を喪い、国をせばめたのはただ趙括を廉頗に代えたというだけではないのだ、またためでもあるのだ。


 秦はしばしば趙の兵を破り、廉頗はとりでを堅めて出ませんでした。趙王(太后でしょう)は廉頗のたいへん兵の失亡が多いことや、更に怯えて戦わないとし、怒って、しばしば廉頗を責めました。


 実はこの時点で秦軍は三つに分かれて進軍し、一軍、おそらく主力は長平にいましたが、一軍は太原を攻め落とし、一軍は邯鄲に迫っていました。趙は冷静な判断力を奪われます。


 秦は巧妙でした。應侯はまた人を使いさせ千金を投じて趙に反間の計をまきます。そして噂させました。


「秦のおそれているのは、独り馬服君の子、趙括が将軍となることを畏れているだけである!廉頗はくみしやすい、もうすぐ降服するであろう!」


 馬服君・趙奢が閼与あつよで秦軍を破ったのは四十五年か四十六年、趙の国の人々には、まだその記憶は鮮明に残っていたのかもしれません。これは本当に應侯の反間だったのでしょうか、それとも趙の民の間から、そのような話が沸き起こってきたのでしょうか?


 趙王、何回も言いますがこの当時は王はまだ若かったため専政していた太后は、遂に趙括を廉頗に代えて将軍とします。藺相如は諫めました。


「王は名前で趙括を使おうとされています。ちゅう(音の鳴る個所)ににかわをしてしつ(楽器の名)を鼓するようなものでございます。趙括はただよくその父・趙奢の書伝を読んだだけで、合戦の正面からのぶつかりあいも、奇抜な変化も存じておりません」


 王はお聴きになりませんでした。


 昔のことです。趙括はわかい時から兵法を学び、そこで天下にその弁説に当たることができるものはおりませんでした。かつてその父、趙奢と趙括は兵の事を話しましたが、趙奢も論難することができませんでした、そうではあったもののそのことを善いとは申しませんでした。趙括の母がそのわけを問うと、趙奢は申しました。


「兵は、死地である、しかるに括のこれを言う様子は軽んじているようである。趙が括を将軍にしなければそれでいい。もし趙括を将軍にせねばならないなら、趙軍を破る者はきっと括だろう」と。


 趙括がまさに行こうとするとき、その母は上書しました。括を使うべきではないといったのです。王(太后)はおっしゃられました。


何以どうしてであるか?」


 こたえて申しました。


「以前、わたしがその父につかえ、時に将軍となりましたが、奢が身ずから飯を奉げて食を進める者は十でかぞえられました。友とする者は百で数えられました。王や宗室から賞賜せられた者は、すべて軍吏や士大夫に与えました。命令を受けた日には、家の事など問いませんでした。


 今、括が一旦にして将軍となりましたが、東に向かいて参朝し、軍吏で趙括をあえて仰視するものはおりません。王から賜われる金帛は、家に帰蔵し、そして日び便や利のある田宅の買えるものをみればそれを買います。王は思われているようです、その父より優る、と。しかし父と子で心がけが全く違うのです。願わくば王よ、遣ることなかれ!(派遣しないでください)」


 王(太后)はおっしゃられました。


「母よ、これを置け。吾れはすでに決せり!」と。



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