斉の威王と魏の惠王

 斉の威王いおうについては、魏の惠王けいおうとの会見についてもある逸話が残っています。

 魏の惠王とは、何回もいっていますが衛鞅えいおうを殺さず秦に行かせた王であり、孫臏そんひんの足を切り落とした王ということになります。


 前漢の惠帝けいてい西晉せいしんの惠帝のように、惠のつく君主は、どちらかというとやや名君とは言えないようです。

 象徴的なので、この話も少し触れておきます。


 斉の威王と、魏の惠王がかりのためにこう(都市の外の猟場?農地でない地域)で会って、親交を深めた時のことです。


 何気なくだったのでしょうか、魏の惠王が問いました

「斉にもまたたからがあるのでございましょう?」


 威王は答えました。


「無有」


 2文字でした。つまり「有ることなし」、「ございません」と、そっけなく答えたわけです。


この言葉には老荘の思想に近い匂いもするきがしますが、私はその方面には詳しくありません。

 ともかく、威王の不愛想な様子がうかがえます。


 惠王は驚きました。

「私の国は小さいといっても,なお直徑ちょっけいが寸の大きさの珠がございまして、車を飾り、十二乗(台)の長さを照らせます。そのような珠が十枚ございます。どうして斉のような大国に寶がないということがございましょう?」

 半分自慢交じりに惠王は聞き返したのです。


 威王は重い腰を上げ、ぼつぼつと答えます。


「私の寶とするところのものは惠王様とは違いますなぁ」


 威王ほどの人物ならば、惠王という人物の深さを測りきっていたのでしょう、ゆっくりと続けました。


「私の家臣に檀子だんしという者がございます。斉の南の境にある城を守らせておるのでございますが、楚の国人はあえて攻めてまいりませんし、泗水しすいほとりから十二もの諸侯がみな来朝してまいります」


 惠王は初めて、自分の対峙している人物が並々ならぬ人物であるということに気づき始めていました。惠王は息をのみました。威王は続けます。


「私の家臣には盼子ふんしというものがおります。高唐こうとうを守らせておりますが、趙の人間はあえて東のわが地までやってきて黄河ですなどりをしようとはいたしません」


 威王の話はまだ続きました。


「また私の官吏で黔夫けんふというものがあります。徐州という都市まちを守らせておるのですが、畏服致しました燕人が北門を祭り、福を求めようと趙人が西門を祭って、それぞれ治安を寿ことほぎ(燕は斉の北にあり、趙は斉の西にあった。賈逵かきという学者によると、燕、趙が齊をおそれて、祭って福を求めたという)やってきて従う者が七千余家にもおよびました」


 威王の話はまだ続くようでした、喜々として自分の臣下の名前を上げます。


「私の臣下には種首しゅしゅというものがございます。盜賊に備えさせれば、道でのこるものを拾うものがございません」


「もう結構でございます」


 惠王は威王の話をさえぎりました。このままだと、まだまだ威王の話は続きそうでした。


「左様でございますか」


 威王はまた不愛想に答えました。


「此の四人の家臣は、まさに千里をてらします、どうしてただ車十二乗のみでございましょうや!」


 惠王の顔にはずかしそうな様子がうかがえました。惠王にもやっと、自分の軽率さがわかったのです。


 中国人は人を尊び、才能あるものを使うことに心を砕きます。秦誓しんせいの「人により国はおこり、人により国はほろぶ」というのはつまりはそういうことです。


 わが武田信玄も、「人は城、人は石垣」と述べていますが、威王が喜々として家臣をめたたえたのも、結局はそれとつながるのでしょう。


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