秦の孝公・力をつける

 孝公が即位したのはしゅう顯王けんおうの八年(B.C.361)です。この年ごろから、すでに賢者の招聘を始めていたと思われます。


 顯王の十年(B.C.359)には衛鞅えいおうが秦の古い法を変える議論を始めているのが確認されます。そして翌、顯王の十一年(B.C.358)には、衛鞅の行った変法が具体的に成果を発揮し始めます。


 秦は韓の軍隊を、韓の西方の国境の山々で破りました。


 この戦いののちは、しばらく諸侯が会って、交流を深める様子が見られます。


 顯王の十二年(B.C.357)には、魏と韓がこうに会しています。翌、十三年(B.C.356)には趙と燕が?に会しています。また趙は、せい、宋とも、平陸へいりくで会しています。顯王の十四年(B.C.355)には齊の威王いおうが魏の惠王けいおうとが郊外の地で狩りをし、そして同じ十四年に秦の孝公と、魏の惠王が杜平とへいに会したという記録も残っています。


 これらは、いわゆる三晉さんしんといわれた国々(魏・韓・趙)が、各国との同盟を急いだ様子が記されています。この年のあとから、中原は、戦いの時代に突入します。


 五年間の沈黙を破って、まず顯王の十五年(B.C.354)に秦が魏の軍を元里げんりに破り、首級を七千あげました。そして魏の少梁しょうりょうを占領します。


 ここのところ秦との戦いでは劣勢を強いられていた魏の惠王は趙を伐って秦に奪われた失地を回復しようとしたのか、趙の邯鄲かんたんを囲みます。


ここからあとは、次章で説明しましょう。


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