【1-10】
「まった値上げかよ……もう日本の煙草は吸わねえ。海外のやつだけ吸って生きてく」
自販機から釣り銭を取り出しながら、倉本信玄はそう毒づいた。
幼い頃に両親と死別し、現在は母の実家に籍を置いている信玄なのだが、どうしてもそこの叔父叔母とは親密になれず、夜は街中を彷徨くのが日課となってしまった。
大学の学費を出して貰っている分、何か後ろめたいものもあり大々的に反抗することもできず、結果こうしたふしだらな生活を送るようになってしまった。だが、今の状況はそこそこ心地が良いので、さして不満を言うつもりも無い。
学費は親が出すものだと開き直ったりしていない分、自分にはまだ救いがある……と信じている。
今は辛うじて学生という肩書き、身分を持ってはいるものの、来年には間違いなくフリーター、いや最悪は穀潰しの仲間入りである。
そんな決して金回りのよろしくない信玄にとって、たった数十円とはいえ煙草の値上げは厳しかった。
「……むう、確か叔母さんがフィルター寸前が一番体に悪いからとっとと火玉落とせ
とか何とか言ってたような気が……いや、そんなもの迷信だろう」
基本的に信玄は自分の体の健康云々には無頓着なので、どの部分を吸えば健康を害するとか、正直知った事ではない。それならば、煙草の消費を節約することの方が余程重要である。
「……」
信玄は買った煙草の封を開け、一本取り出し火を付けた。濁った煙が街の風景に溶け込んだ。
「お、信玄じゃねえか。元気してるか?」
ふいに後ろから声を掛けられた。低く、ドスの効いた声だった。振り向くとそこには、樋尻組の若頭である岡部健次郎が立っていた。
「ああ岡部さん。ご無沙汰してます」
信玄は軽く頭を下げ会釈する。
樋尻組とは以前何度か交流があり、今や会えば挨拶を交わす程度の間柄となっていた。
特にこの岡部という男には色々とお世話になっている。自分が多少筋者に顔が利くのもそれのお陰だ。この間三十歳の誕生日を迎え、俺も遂におっさんの仲間入りだとかなんとかと抜かしていたが、自分に言わせればその歳で若頭を務めるこの人はやはり只者ではない。
「まあた煙草なんて吸ってやがる。若いうちから内臓悪くしとくとろくなことがねえぞ。俺も一昔前までは吸ってたが、今じゃあとてもとても。人間、歳を取るとどうしても健康に気を遣うようになっちまうからなあ」
岡部は渋い顔をしてそう言った。
「歳って、岡部さんまだ三十じゃないですか。まだまだ現役でいてくださいよ」
「そりゃあそうだ」
そう言うと、岡部は大きな声でガハハと笑った。いい人には違いないのだが、しかしどうしようもない悪人面をしている。地獄の閻魔様に、外見だけで地獄に落とされそうだ。
「ところで信玄よお、この辺で、黒い覆面を被った集団を見なかったか?いや別に集団ってのはあくまで俺の読みだから一人なら一人でいいんだが……」
「黒い覆面……ですか。生憎見ていませんね」
「そうか……まあそれならそれでいいんだ。一般人を巻き込むようなことでもねえ」
疲れた様な声色で岡部は言った。果たして何かあったのだろうか。
「もし良ければ人脈を少し当たって探させますが」
「いや大丈夫だ。別にそう急いだ話でもねえんだ」
「若頭が直々に探してるくらいなんですから、決して軽い話じゃあないのでしょう。何か良くないことでも起こったのですか?」
岡部は一拍置いたあとに言った。
「実はさっき組の事務所にカチコミかけられてな。そのときは覆面の男が三人いた。特に何かを盗られたってわけでもねえんだが、若い組員が四人ばかりやられた。うち一人は足を銃で撃たれて重症だ。そんな奴らが街を彷徨いてると思うとこっちとしても気掛かりなんでな。今はこうして行方を追っている」
「そいつらは、銃を入手できるルートを持っていたということですか。となると、ただのチンピラってわけじゃあなさそうですね。それに淡々とヤクザを襲撃したと見ると、それなりに場数も踏んでいると見てしまっていいでしょう」
話していて、しかし妙だと信玄は思った。この一帯は、主に樋尻組のシマになってしまっているはずだ。いや、だからこそのカチコミなのだろうが、それでも、遠方から遥々と、リスクを冒してまで決して巨大とは言えない地方ヤクザのシマを奪う意味が果たしてあるのだろうか。
「何か、例えば最近になって、他の組に目を付けられるようなシノギを手にしたとか……そういう心当たりは無いんですか?」
「基本うちはクスリ以外のシノギなら何でもかんでも欲しがっているが、あいにく、ここ数ヶ月で新しく増えたシノギはねえなあ……昔、金が無さ過ぎる頃は組員のバイト代で組回してたっていうくらいだし」
「……」
その光景を想像してみたが、なんともシュールな絵面であった。
「まあいいや。じゃあ俺はまた覆面探しに戻るぜ。いい暇潰しになった」
「あ、暇だったんですね」
「ところでよお信玄、お前、やっぱ学校なんか辞めてうちの組入ったらどうだ。いまなら俺が特別に口利いてやるぜ」
「はは、今はまだ遠慮しておきます。そのうち俺が路頭に迷ってしまった暁には、是非頼らせてくださいよ」
「ああ、了解だ」
そう頷いた後、岡部はさらに続ける。
「ヤクザって少し怖かったり、悪逆非道みたいなイメージがたぶん少しはあると思うんだけど、それでも、存外悪くなかったりするんだぜ。それに基本的にヤクザは街の用心棒だ。だからもしお前が、ヤクザは社会不適合者の集まりだとか、非道な集団だとか思っているなら、そういう考えは捨ててくれると、その、何ていうかな。嬉しい。悪いヤクザもいっぱいいるが、良いヤクザだって、少なからずはいるんだから」
「ええ、分かっていますよ」
信玄がそう言うと、岡部は満足したようにその場を立ち去った。
「俺もいい加減、将来のことを考えなきゃあいけないなあ」
大学三年生にして今更こんなことを考えるのもどうかと思ったけれど、平凡な毎日を
送り、全ての面倒事をのらりくらりと躱しながら生き続けていくくらいなら、いっそ非凡へ飛び込んでみるというのも、選択肢としては大いにありなのではと思った。
しかし物事をスパンで考えるのが苦手な信玄にとって、そう先のことを思い描くのはとても酷なことだったので、ひとまずは考えることをやめた。
「まともに生きる必要は無い」
そう呟くと信玄は、二本目の煙草を取り出し火を付けた……そしてそれを、僅か一口で捨てた。
「それじゃあ先ず、禁煙とやらから始めてみるかなあ」
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