【1-7】


「何か奇妙だ……」


車内ですることのない蓮介は、乗車後、車両の中の細かな箇所や全体の雰囲気を観察していた。これは普段からの癖のようなものであり、実際、暇潰しには丁度いいのだ。すると次第に、釈然としない違和感が蓮介を襲った。

最初は思い過ごしであると思っていたのだが、電車が各駅に止まる度、蓮介の猜疑心は一層と濃度を増してきた。

別に乗客の人数が少ないというわけではない。むしろ今日は混んでいる方だ。だから何が奇妙かと問われれば、それはずばり、乗客の偏りである。

この電車は3両編成であるのだが、先頭車両と真ん中の車両にのみ、乗客が異様に密集している。

つまり一番後ろの車両は乗客が少ないということなのだが、その少なさが異常なのだ。蓮介を含め、一番後ろの車両に乗っている人間の数は3人だった。

乗り始めた頃はもう少しばかり混んでいたのだが、ほぼ全員が途中の駅で降車してしまった。


『次は○○駅~○○駅~』


「……」

車内アナウンスが流れる。電車はゆっくりと速度を緩め、次の駅に停車した。

ぞろぞろと乗客が降り始め、蓮介は己の目を疑った。

ついに自分の乗っている車両から人が消えた。今や一番後ろは蓮介の貸切状態である。


「嘘だろ……」

これはもう異常だと言わざるを得ない。確かにこの辺りは人が多い方だとは言い難くむしろ少ない方だとは思うが、それにしてもこの偏りはおかしい。

現に残り2両にはそこそこの乗客が乗っている。

例えば今が終電だとしたらまだ頷ける。過去にも何度か乗っているが、その車両の乗客が2,3人だったことも少なくない。とすれば、別に乗客がいない車両があろうと、別段気に留めることもなかったであろう。

しかし今は夜の8時だ。いつもならば学生やサラリーマンでごった返す時間帯である。


「……何かがおかしい……それとも、やはり僕の思い過ごしなのだろうか」

考えていても埓があかないと思い、蓮介は他の車両へ移り聞き込みをすることにした。疑問はできるだけ解消しておきたい性質なのである。


「あの、すいません」

蓮介は吊り革に掴まっている中年男性に声を掛けた。男性は酔っている風だった。まだそう遅い時間でもないのに、早くから飲んできたのだろうか。


「うん?」

男性はこちらを振り向き唸った。やはり少し酔いが回っているようだ。


「どうかしたかい坊主」


「失礼ですが、あちらの車両、席空いてますよ。座らないんですか?」


「え?ああ。あっちの車両は座っちゃいけねえんだ。何故かっていうとな、あっちは神様の車両だからだ。俺らみたいな人間が立ち入っちまったらバチが当たる」


「………はい?」

突如男性の口から発せられた場違いな台詞に、蓮介の思考は一旦止まった。


「ええと、その、神様の席……というのは、比喩かなにかでしょうか。例えば、誰か芸能人の貸切だとかそういう」


「バカ、何言ってやがる。神様は神様だ。俺たちや世界を創造なさった、あの神様だ」


「……」

やはり酔いが回っているようだ。怪異の絡む案件ならば以前何度か立ち会ったことがあるが、神様というのは論外だ。

怪異がいるのならば神様もいるのではと思われる方々も、もしかしたらおられるのかも知れないが、基本的に怪異と神はまったくの別物である。

怪異は人が不思議と認識するからこその怪異なのであって、人がいなければ存在できない、儚い存在である。言うならば人よりも劣った存在だ。それに対し、神は人を超越した存在である。

というかそれがそもそもの間違いで、人を超える存在など、この世に存在しない。

言ってしまえば、神様だって所詮は、人が心の拠り所を求めて勝手に捏造したようなものだ。信じる者がいるからこその神なのであって、そういう意味では、考え方だけは怪異と大差ないのかもしれないが。


「だからあっちには乗っちゃあならねえぞ」


「……はあ」

蓮介は受け流すようにそう返事し、別の人間に聞いてみることにした。

するとその横に2人の学生が談笑しており、蓮介はその2人に近づいた。2人とも恐らく女子高生である。


「あの、ちょっといいかな」

女子高生2人はこちらに目を向け、「どうかしましたか?」と尋ねた。


「あっちの車両、人、1人も乗ってないけど。座らなくていいの?足、疲れない?」


「え、ちょっとお兄さん、やめてくださいよ。そういう軽はずみな冗談は、あまりよろしくないですよ」


「え?それはどういう……」

蓮介は言葉に窮してしまった。何だか彼女らが、まるで別の国の人間であるかのような感覚に陥ってしまったからだ。疎外感ともいうのだろうか。妙な感覚だ。


「お兄さんがそうしたいというのならば私たちは止めませんけれど、でも、そうやって人をからかうのは、できれば止したほうがいいですよ。きっとそんな人はいないのでしょうけれど、それでも、もしその言葉を鵜呑みにし、ついて行ってしまった人がいたらどうするんです。お兄さんじゃあ責任なんて取れないでしょう?」


「ちょっと待ってくれ。僕には君たちが何を言っているのかが理解できない。もっと噛み砕いて、僕に分かるように話してくれ」


「え、そんなことを言われましても」

女子高生らはいかにも如何わしいといったような表情で、蓮介を見た。


「……あちらが神様の席だからに決まっているじゃあないですか」


「……!」

いよいよ蓮介も混乱してきた。

神様の席とはなんだ。神は電車に乗るのか。そもそも神なんてものがいるのか。というか、それなら最初に乗っていた乗客は一体なんだ。


「君たちは……神を信じるのか」


「ちょ、お兄さん。あなたちょっとおかしいです」

女子高生2人組は、逃げるようにして先頭車両の方へ行ってしまった。周りには沢山人がいるのに、どういうわけか、そこにいるのは自分だけであるかのような感覚になった。

その後蓮介は他数人に声を掛けたが、返ってきた答えは全部同じだった。皆が口を揃えて言うのである。「あちらは神の席だから座ってはならない」と。

いよいよ自分もおかしくなってしまったか。日頃の多忙な生活の末に気でも触れてしまったか。それとも今日の日差しに脳でもやられてしまったか。


「……そうだ」


真帆さんだ。今僕が知る限りにおいて、最も信頼できるのは真帆さんだ。

彼女は基本的には社会不適合者であり、自分と同様、集団の輪の中で生活を送っていくなんて真似は、恐らく一生できない人間だ。加えて彼女は異端者である。

それでも、そんな僕にいつだって明確な道を指し示してくれるのは真帆さんだ。いちいち融通は利かないしやたらめったら頑固なところはあるが、しかし、いや、だからこそというべきか。

彼女はどんなときだってブレない。人に流されるということをしない。

だから、真帆さんならば、きっとなにか役に立つ意見を言ってくれる。


「……」


蓮介はポケットから携帯電話を取り出し、電話帳から真帆の名を探した。その時だった。

今まさに自分が電話を掛けようとしている相手が、僕の目の前にいた。

何食わぬ顔で席に座り、飄々と本を読んでいる。


「ま、真帆さん……」


真帆は顔をこちらに向け、にこりと微笑んだ。


「やあ、誰かと思ったら蓮介じゃあないか。どうだ、元気にしてるかい」


「元気にしてるもなにも、真帆さん、なんで電車に乗っているんですか?店の方にいるはずじゃあ……」


「うん、ちょっと野暮用ができてね。それよりも蓮介……」

真帆は僅かに頬を赤らめ、自分の隣の席をポンポンと叩いた。


「私の隣、その、席空いてるけど。座らないのかい」


「あ、は、はい」


蓮介は静かに、真帆の隣に腰を下ろした。真帆さんとここまで密着したのは、そういえば意外と初めてのことかも知れない。


「真帆さん、その、なんと言いますか、何かがおかしいのです。何がおかしいのかと聞かれると、それはもう全部なのですが……」

真帆はそんな蓮介に対し、呆れたような顔をして言う。


「おいおい、何だか君らしくないなあ。もっとズバッと、何があったのかを説明したまえよ。そんな曖昧な説明じゃあ、伝わるものも伝わらないぜ」

いつもと寸分違わぬ口調で、真帆は言う。それに妙に安堵感を覚える自分がいた。


「ええ、そうですね。それじゃあまず、この電車の乗客の偏りについてお話します。もう気づいているかも知れませんが、この電車の一番後ろ、言うなら3番車両ですか、その車両に人が1人も乗っていません。ご覧の通り、先頭とこの車両には普通に人が乗っているにも関わらず、です」


「……ほお、それで?」


「他の何人かの乗客に、一通り理由を聞いてみたのですが、なぜだか、皆おかしなことを言うのです。『3番車両は神の席であるから立ち入ってはならない』と」


「……」

真帆は真剣な眼差しで蓮介を見つめた。


「真帆さん、それでその、それについて、なにか分かることはありますか?」


「分かることはあるかと言われてもねえ……」

真帆は何だか言葉に窮したような表情で、それでも、一拍溜めてから蓮介に告げる。


「だって、おかしなことを言っているのは君の方じゃないか」


「え……」


「なぜそれを不思議がるんだい?神の席に立ち入ってはならないのは、別に普通のことじゃあないか。立ち入ったらバチが当たる。子供の頃に習っただろう」

蓮介は、心を支えていた何かがガラガラと音を立てて崩れていく感覚に陥った。


「し、しかし真帆さん。神の席と言われても、僕には何がなんだかさっぱりわかりません。説明してくださいよ」


「えっと、その、な?蓮介、説明と言われたって、神の席は神の席だ。それ以上言い様がない」


「……真帆さんにしては、随分と抽象的な物言いですね。神とは一体なんです。真帆さんは、神が存在するとでも、いや、存在するしないの問題じゃあない。皆は一体何を言っているのですか?」

真帆は困ったような顔になった。どう言葉をかけてやるかを模索している風にも見える。


「あのな蓮介」


「はい?」

突然だった。前触れはなかった。

真帆さんが、僕の身体を優しく抱き寄せ、僕の唇にキスをした。


「……!!」

「蓮介、そんなことを言っちゃあだめだ。本当に、本当にバチが当たるぞ」


「……!」

そんなことを言われたって、僕の常識が神を受け入れてくれない。

というより、キスの衝撃が強すぎてまともに頭が回らない。情けない話だが、僕には今までそんな経験はなかった。

真帆さんの唇はとても柔らかくて、とてもいい香りが………。


「………」


「蓮介、私さ、実は……」

真帆は顔を真っ赤に染め、蓮介の眼前に詰め寄った。


「私、前から君のことが……えっと」


「真帆さん、あなたは、僕を好いてくれているのですか。それは、きっととても嬉しいことだと思いますけれど」

火照った真帆の頬に手を当てる。とても暖かいような……気がした。


「蓮介、私は……」

真帆はワイシャツのボタンを外し始めた。すると、彼女のピンク色の下着が露になった。彼女の胸は、整った、とても綺麗な形をしていた。


「蓮介……」


「真帆さん、これは本当に些細な疑問なのですが、ひとつ、質問してもよろしいですか」


「質問?」


「真帆さんってシャンプー変えました?」


「え……」

真帆の表情が固まる。


「いやすいません。聞き方がちょっと気持ち悪かったですね。それにシャンプーを変えたくらいで、そんな変化が起こるわけがないのですから」


「蓮介?君は何を言っているんだい」


「そんな、なんて真似は、およそシャンプーなんかの役目じゃあない。僕はそういう知識には疎いですが、何か特殊な薬品でも髪に染み込ませたんですか?」


振り返れば先ほどもそうであった。

酔っているはずの男性からは、酒の匂いがしなかった。今この瞬間、真帆さんの髪だってそうだ。昼に嗅いだ香りが消え失せている。

真帆さんの頬にも、およそ体温と呼べる代物は無かった。

今いるこの世界には、五感が無い。嗅覚も無ければ触覚も無い。視覚だって、聴覚だって、今見えている光景だって、真実だという保証は無い。

真帆さんの言葉を思い出せ。


「お前、真帆さんじゃないな」


そう気づいた瞬間の、蓮介の行動は素早かった。素早く、迷いが無かった。

目の前の真帆の顔面に、飛び膝蹴りを食らわしたのだ。……いや、正確には食らわすには至っておらず、目の前の真帆と思しき存在は、煙のように消えてしまった。


「な……なんだと」


蓮介は辺りを見回す。

先ほどまで乗車していた乗客が、全員消失してしまっている。車内の雰囲気も、何だか一変されているような気もする。まるで狐にでもつままれてしまったような気分だ。


「……!……馬鹿な」


車両の前後に目をやった蓮介は、驚きを隠しきれなかった。何故ならば、今蓮介がいる車両の前後に、電車が連結していなかったからだ。

つまり、今線路を走っているのは蓮介のいる車両ただ1両だということだ。

蓮介が最後に立っていた車両は真ん中の車両だ。どう頑張っても、走っている最中にこの車両のみを残して他の車両を切り離すなんて真似はできない。


「つまり僕は、幻覚を見せられていたということなのだろうか。今までの車内での出来事は、すべて僕が見ていた幻覚……」


そう考えると、これまでの不可解も色々と頷けてくる。


「しかし、一体どんなタイミングで……いやそれよりも、こんなことをする理由は、いや……」


現実に引き戻された蓮介ではあったが、まだまだ謎は残っている。

だが、今まず真っ先に考えねばならない問題が、あった。


「僕1人を乗せたこの電車は今、どこを走り、どこへ向かっている……?」

外はやはり真っ暗だった。

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