本当の厭奴

 それまで割れそうに痛んでいた頭が、急にすっきりとした。

 八幡は一人、その場に赴いていた。視界いっぱいに広がる死体の山。まだ生きている者も、声にならない声を上げて痙攣するような動きを取ることしか出来ない。その光景が広がる場所は予想よりも里に近く、すぐに着くことが出来た。すぐに眩暈が始まり、激しい頭痛が八幡を襲った。それでも意志の力で自我を保ち、その場を見渡しながら歩く。

 三峯はいた。満身創痍で、ふらつきながらも立っていた。手を広げて何事かを呟いた後、八幡は確かに目が合ったのを感じた。その目には確かに憎悪が浮かんでいた。だが、今までとは何かが違う。そう感じた後、嘘のように頭の痛みが消えてなくなったのだ。

「三峯――」

 三峯は糸が切れた人形のように頭を倒している。

 ふと、足元で何かが動くのを感じた。

「八幡?」

「稲荷! 無事か?」

 稲荷が頭を押さえながら立ち上がる。

「三峯が来たはずだ。あいつはどこに――」

 話しながら辺りを見回し、愛宕と対峙している三峯を見て目を止める。

「あいつ――」

 稲荷よりも遅れて、八幡は異変に気付いた。

 三峯の口から音が漏れている。本当に小さいが、静まり返ったこの場所ではここまで届く。

 そしてそれは、爆発した。

 三峯は笑っていた。それはもう、狂ったように。

 笑う笑う笑う笑う。

 とにかく笑う。滅茶苦茶に笑う。

 消え入りそうな小さな声で笑う。耳をつんざく程の大声で笑う。金属を引っ掻いたような甲高い声で笑う。大地を震わすような低い声で笑う。

 嬉しいのか、楽しいのか。悲しいのか、辛いのか。

 もはや言葉は失われていた。身体の底から湧き上がる笑声だけが、三峯の言葉なのだ。

 ――もう、駄目だ。

 八幡はそれを見て、もはや自分の力ではどうしようもないところまで行ってしまったことを確信した。三峯は完全に厭奴に堕ちた。それも、愛宕よりずっと酷い場所まで。

 三峯はにんまりと口元を歪め、手の先からそれぞれ五本の厭気の爪を具象化して愛宕に襲いかかる。

「負け犬が! 吠えるな!」

 今の三峯は、ただ走るだけだった。厭気で筋力は強化されているのだろうが、以前のような俊敏さはどこにもない。しかし、その威圧感は桁違いだった。

 三峯の刃が届く前に、愛宕はその顔面に拳を叩き込む。だが三峯は一切引くことなく踏み込んで愛宕の拳を押し返し、その凶刃を力任せに振るった。

 腐った肉のせいで刃は右肩の途中で止まるが、三峯はそこからさらに力を込めて刃を押し込んでいく。

「ええい! 離れろ!」

 愛宕は三峯を蹴り上げる。この時愛宕は気付く。自分の力が明らかに落ちていることに。

 三峯の身体が大量の厭気で限界を超えて強化されているのを差し引いても、愛宕の力は弱くなっていた。三峯を蹴っても、身体から引き剥がすことが出来ない。

「馬鹿なッ」

 三峯は空いている左手で愛宕の傷を負った右腕を掴む。そのせいで指先から伸びた爪が自分の掌を突き刺すのもお構いなしだ。

 思い切り引っ張ると、愛宕の右腕は肩から千切れ飛んだ。

「調子に――乗るな!」

 愛宕の中で怒りが爆発した。厭奴は自らの感情も厭気に変換出来る。愛宕はその怒りを自らの力に変え、もう一度三峯を蹴り飛ばす。

 今度の一撃は強烈だった。三峯は大きく吹き飛ぶ。だが、その顔から笑みは消えない。

 絶笑しながら三峯は地面に転がり、歓笑しながら立ち上がる。愛宕を嘲笑するように一頻り笑った後、三峯の周りに哄笑が起こる。

 三峯と同じ姿をしたものが、それぞれ笑いながら無数に現れた。

「影朧か――」

 稲荷がからからに乾いた声で呟く。自分と同じ姿の霊気の塊を動かす、三峯の里の秘術だ。

「無理だ。あんな数、動かせるはずがねえ」

 三峯の生み出した影朧は、ゆうに十を超えていた。影朧は自分と違う動きをさせるのなら一つの頭で複数の動きを処理しなければならない。なので普通は自分以外に一体が限度とされている。

 だが、三峯の影朧はどれも淀みなく、それも全て別々の動きで愛宕に襲いかかった。

「どうなってんだ――」

 稲荷が困惑している中、八幡にはその理由がわかっていた。

「三峯は、恐らく何も考えていない」

 ただ、渦巻く厭気に身を任せ、愛宕を殺すという意志だけで動いている。三峯に共鳴した厭気は自ら蠢き、三峯の意志と一体となって影朧を操っている。

「悲しすぎる――こんな、こんなのって……」

 愛宕は三峯が倒れていた間に千切れた右腕を元の場所に押し込んでいたが、迫る無数の影朧を迎え撃つべく身構える。すると右腕は再び地面に落ちた。

「厭気が足りんというのか……!」

 愛宕は腐った肉体と大量の厭気を利用し、破損した身体を無理矢理治していた。だが今の愛宕は厭気の殆どを三峯に奪われた状態。自分の内から湧き上がる厭気だけでは治癒が追い付かないのだ。

 正面からまず影朧が一体迫る。愛宕はそれを左の拳で撃ち抜き、霧散させる。今の愛宕でも影朧ならば一撃で破壊出来るようだった。

 間髪を入れず左右からそれぞれ一体ずつ。愛宕は右側を無視し、左の影朧のみを蹴りで吹き飛ばす。その時身体の向きを変えたことで、右側の影朧が背中を深く抉る。

 背中に刃が入ったのと同時に、正面から二体が凶刃を振るう。愛宕の腹に刃が入るが、愛宕はそれを意に介さず左の影朧を掴んで投げ飛ばし、右には蹴りを入れる。二つ共霧散するが、それでも影朧の数はまだまだ減らない。背中を襲った一体も離脱し、その中に加わっていた。

「鬱陶しい! 鬱陶しい! 鬱陶しい!」

 怒りに任せて吼え、愛宕は自分から影朧の群れに突っ込んでいく。

 三峯は依然笑いながらそれを迎え撃つ。愛宕が無茶苦茶に振り回す拳に、刃を無茶苦茶に振り回して応戦する。

 数では三峯の方が優勢だったが、愛宕には腐った肉体という武器があった。三峯の攻撃をその身で受け止め、動きが止まったところに拳を撃ち込んでいく。影朧は脆く、殆ど一撃で霧散してしまう。

 だが、厭気のない今の愛宕にとって、傷を負うことは予想以上のダメージになっていた。傷口から溢れるのは灰色の膿ばかりだが、その傷が塞がることがない。全身から膿を流し、徐々に息が上がっていく。

 今の三峯にはそんな変化などわかるはずもない。だが、攻撃の手を緩めないことで、自然と愛宕を追い詰めていく。

 三峯は一際大きく笑うと、自分の周りに再び無数の影朧を出現させた。尋常ではない量の霊気を消費するが、今の三峯は愛宕の里全ての厭気をその身に宿している。それだけではなく三峯を突き動かす愛宕への憎悪は、愛宕の里の厭気の持つ憎悪との相乗により無限に膨れ上がっていく。そしてその憎悪はそのまま厭気となって三峯に力を与えるのだ。

 一体が愛宕を跳び越えて背後に回り、その身体をしっかりと掴む。愛宕は振りほどこうとするが、相手は全身から厭気の刃を無数に突き出して愛宕の身体に突き刺し、固定する。

 それを見ると他の影朧達は爆笑した。一斉に愛宕に迫り、互いを構うことなくその身体に刃を突き立てていく。前の影朧ごと貫くなど当たり前で、徐々にその数は減っていき、愛宕の身体に数え切れない程の傷が付いていく。

「儂が」

 苦痛に歪んだ声。三峯の爆笑の渦に掻き消えそうになりながらも、八幡の耳には届いた。

「死ぬ――など!」

 その声と同時に、愛宕は全身から真っ赤な血を噴き上げた。それまで堪えていたかのように、傷口という傷口からそれはもう勢いよく鮮血が飛び散る。

 愛宕の絶叫は最初こそぞっとする程耳に残ったが、やがて三峯の笑声に呑まれて消えていった。

「やった――やりやがった! 愛宕を!」

 稲荷が喜びの声を上げる。だが、八幡はもっと重大なことに気付いてしまっていた。

 三峯の笑い声は徐々に小さくなっていた。互いを刺し合った影朧達は、自然に数を減らしていったからだ。

 最初に愛宕を押さえた一体も、背後から愛宕を刺す影朧達、または正面から深く貫いた影朧達の刃にかかっていた。

 だが、それは消えていない。

 少なくなった影朧達は、途端に苦しみ始めた。

 稲荷もそれに気付き、どういうことだと周囲を見回す。

「あいつ、まさか――そんな」

 愛宕を押さえていた三峯は、全身から血を流していた。それは自ら生み出した影朧によって付けられた傷であり、愛宕を死に至らしめたのと、殆ど同じ傷だった。

 影朧は長く使っている内に、自分と影朧との境界が曖昧になっていく。だから三峯の里では影朧を出していられるのは一分までという決まりがあるのだが、三峯が影朧を使っていた時間はとうの昔に一分を超えていた。それに、こんな狂った精神状態で、自分の在処などわかるはずもなかったのだ。

「三峯!」

 稲荷が叫び、崩れ落ちる三峯に駆け寄る。影朧はもう全て消えていた。

 八幡は震える足で一歩ずつ近付いていく。遠目でも、もはや三峯が手遅れだということはわかった。八幡の力を用いても、傷を治すことは不可能だ。

 八幡はそっと三峯の顔を窺う。

 そこにもう笑みはない。ただの苦痛に歪んだ少年の顔だった。

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