最後の決意
ロキの部屋に呼び出された三峯は、入ってすぐの場所――ドアの前で部屋の主のにんまりとした笑顔を見ていた。
「さっき、ウトウが来たよ。色々と情報が手に入った。そこで君に僕の仮説を聞かせてあげようと思ってねー」
何故三峯に伝えるのか。三峯は閻魔宮の外に出ることを禁じられた身である。ただロキが誰かに話さないと落ち着かないという見方も出来るが、三峯はうっすらとその先にある何かを感じ取っていた。
ロキは死体の監視、及び撃退の先遣隊が全滅したこと、そして死体の撃退に向かった者達が突然の厭気の発生によって戦闘不能に陥ったことを極めて明るく話した。
三峯は思わず身を乗り出していた。ロキは三峯の慌てぶりを嘲るように大げさな身振りで落ち着けと言う。
「さて、愛宕は厭気で骸雅の呪を行った。つまり死体の中には厭気が詰まっている。これを解くことで、死体内の厭気を流出させたんだろうねー。恐らく死体の中には愛宕と視覚が繋がったものが一つある。これはついさっき思い付いた仮説で、みんなには話せてないんだよねー。愛宕はその死体から状況を読み取り、多数の者が集まった時を見計らって骸雅の呪を解いたわけだ。愛宕自身はかなり離れた場所にいて、後から厭気で動けなくなった子達を始末して、また骸雅の呪をかけてから離れた場所に戻るという訳だねー」
「そのことは伝えたのか?」
「いや、まだウトウは帰してないよー。ちょっと考える時間をくれって言ったら律義に待っててくれるんだもん。それにこんなことを伝えても打開策にはならないよー。厭気が溢れてる訳だしねー」
「――愛宕が来れば、全員殺されるのか」
「当たり前だよー。みんな意識が混濁してるから、簡単に殺せるもん。もう時間はないだろうねー」
そこでロキの顔から笑みが消えた。黒眼鏡のせいで全く表情が読めないが、その目がしっかりと三峯を見据えていることはわかる。
「君はここで、みんなと仲良くしてきた。だからみんなを助けたいと思ってるはずだよー。何度も言うように、僕は君が切り札だと思っている」
ぐっと顔を近付け、笑いもせずに三峯の顔を凝視する。三峯は金縛りにでも遭ったように身動きが取れなかった。
ロキはそこから一気に話し続け、三峯はじっとそれを聞いていた。ロキの目的はよくわかった。まんじりとロキの言葉に聞き入っていた三峯に妖しく笑いかけ、ロキは背中を向ける。
「さあ、話はこれで終わりだ。どうするかは君の自由だよー」
腰に差した刀に目をやる。その感触を確かめてから、三峯は静かに部屋を出た。
そこからは、一気に駆け抜けた。廊下を何度も曲がり、正面玄関の門は開け放たれていたので脇目もふらずに外に出た。誰にも気付かれなかったが、ロキが話しただろうなという確信があった。
山道を突っ走る。木々が生い茂り、下生えが足をくすぐる、整備もされていない山道だ。鳥の声も、虫の声もしない。風の音と、三峯が駆けていく音だけが響く。
死の世界。そう思っていた時もあった。だがどうだ――今動いているこの身体を見ろ。周りに生がないからこそ、この場にある己の生を強く実感出来る。
そうか。この世界は何よりも強い生の世界なのだ。
愛宕の通る経路予想はロキから教えられていたので、その道を進んでいく。八幡の里の近くを過ぎた辺りから、厭気を肌で感じるようになってきた。
死体の山と、苦悶の声を上げながら倒れた人の山。濃密な厭気の中、それが目に入った。
「三――峯……?」
誰かが気付いたのかそう口にする。だが今の朦朧とした意識の中では、夢か現かもわからないだろう。
三峯の来た反対側から、駆けてくる足音がする。
「来たか」
――君の足なら、今すぐ出れば間に合う。
三峯より頭二つ程高い上背。醜く膨らんだ巨大な身体。
現れた愛宕は、死体の中に一人立っている者がいて驚いたようだった。しかしその相手が三峯だとわかると、下卑た笑みを浮かべる。
「いつぞやの負け犬ではないか。この厭気の中、立っていられることは誉めてやる」
――今の君なら、厭気の中でも動き回れる。
――君の身体は自然に厭気を取り込むからねー。
「話している時間はない。すぐに殺してやる」
三峯は静かに抜刀し、全身の力を抜いて足に霊気を集中させていく。
一度斜めに駆け出し、死体の山から離れる。この足場では、どうしても足を取られて本来の動きが出来ない。
愛宕がその場から動かないのならまた別の策を考えなくてはならなかったが、考えなしか余裕なのか愛宕は三峯の動きを追って死体の山から離れていった。
――普段の君なら、愛宕に対して有効だ。
――ただし、厭気をどんどん取り込んでいくから、時間は限られるけどねー。
三峯の姿が愛宕の前から消える。離れた場所に一瞬で移動し、そこで身体を曲げて一気に背後に迫る。
「甘いわ!」
三峯の刃が入ろうかという時、愛宕は全身から一気に厭気を放出した。
愛宕の背後で刀を振り上げる三峯は、その厭気の衝撃によって掻き消えた。
「何ッ」
愛宕の放った厭気の衝撃は強大だが、人一人を消し飛ばす程の威力はない。
「影朧か!」
「ああ、そうだ」
いくら厭奴とはいっても、一度に強力な衝撃を放出出来る時間は限られる。三峯は影朧を囮に、自らは離れた場所からさらに回り込み、厭気が消える隙を見計らって愛宕の右側から斬り上げる。
霊気によって極限まで研ぎ澄まされた刀は、いとも容易く愛宕の腐った肉を斬り裂く。深い創傷から一気に灰色の膿が噴き出し、愛宕は憤怒に顔を歪める。
「負け犬が、調子に乗るな!」
左腕を振り抜き三峯を撃ち抜こうとするが、三峯は既に離脱していた。
この調子ならば、確実に愛宕を仕留めることが出来るという確信があった。しかし、三峯はもう今のように刀を振るえないことがわかった。頭が冴え渡っていく。そして血が湧き立つ。刀を鞘に納め、それを投げ捨てる。
「時間切れだな」
厭気を取り込み続けた結果、三峯の身体は厭奴へと変化していた。これは自分の意思では止められない。
拳の先からそれぞれ三本の厭気の爪が伸び、三峯はその両手を後ろに引く。
愛宕が構えようとするよりも速く、両手を一気に前に押し出す。両手から厭気の爪が長く伸び、槍のようになって愛宕を襲う。
愛宕は動かず、その槍を身体で受け止めた。両の脇腹を深く抉られるが、その感触から先程までの脅威はないとわかる。
愛宕は卑しい笑みを浮かべながら長く伸びた厭気の爪を拳で砕くと、一気に三峯に迫る。
臆することなく迎え撃つ三峯だが、再び具象化した厭気の爪は愛宕の腐肉に受け止められる。その隙を突かれ、腹に強烈な拳を受けて吹き飛ばされる。
地面を転がる三峯は倒れている死体にぶつかって止まった。いつの間にか死体の山の中に戻ってきている。
「他愛もない。負け犬は負け犬らしく虚しく吠えていればいいのだ」
愛宕が三峯に近付く間には、死体の撃退に向かった者達も倒れていた。愛宕はそれをまるで意に介さず、踏み付けてこちらに迫ってくる。
「愛――宕!」
途中、一人がそう言って愛宕の足を両手で掴んだ。稲荷の里のコエンだ。三峯は何度も言葉を交わしている。
愛宕は鼻を鳴らす。
「まだ意識があるのか。鬱陶しい」
掴まれていた足を振り上げ、その足でコエンの頭を踏み潰す。原型を留めることなく潰されたコエンが、もう生きているはずもなかった。
「おっといかん。貴重な人手が減ってしまった。まあ、人手なら充分足りておるか。一人や二人どうなろうと問題ない」
「貴様ッ――」
愛宕は三峯が全身から怒気を噴き上げているのに少し驚いた素振りを見せる。そしてすぐに、腹を抱えて笑い出した。
「まさか貴様、まだ他の人間のことを考えておるのか? これは滑稽! 執着も捨てられんようでは厭奴とは呼べんなあ!」
「黙れ!」
三峯はそう叫び、愛宕に斬りかかる。
――八幡の里で君が厭気を吐き出したのは、自分の意思なんじゃないのかい?
その時三峯は答えず、ロキもそれ以上は訊かずに話の本題に戻った。だが、三峯はわかっていた。あれは自分で、厭奴から脱しようと試みた結果だった。なりかけの厭奴の三峯は、あの時にはもうそこまで理性を得ていた。
厭奴になっていた時と、普段の状態の三峯の境界は時間と共に曖昧になっていた。何も考えずに動いていたあの頃とは違う。他人を大事に思えば思ってしまうし――死を恐れれば恐れてしまう。
そう、今の三峯は、死を恐れている。
ロキは恐らくそのことをわかっていたのだろう。だからその後であんな話をした。
――厭気は、容器に無限に入るんだと思うよー。
愛宕は三峯の斬撃をその身体で受け止めるが、まるで意に介さない。拳を振るい三峯を殴り飛ばす。
――立てなくなる程の厭気なんて、愛宕の里全ての厭気を持ち出さないと作り出せない。
全身が悲鳴を上げているのも構わず立ち上がり、三峯はもう一度愛宕に迫る。
――死体に里の厭気を全て込めて動かしてるんだろうねー。
――だから多分、厭気は無限に取り込める。
しかし有効な一撃は加えられない。再び拳を浴びて吹き飛ばされる。愛宕が高らかに嘲笑する。
――さて、愛宕の里に蔓延している厭気は、どんな感情が元になったと思う?
「愛宕への――憎悪だろう」
頭の中で反響するロキの言葉に、三峯はその時と同じように応えていた。そうでもしなければ意識を保っていられない。
――その通り。じゃあ、君の抱く感情はなんだい?
「同じだ」
ふらつきながらも立ち上がり、一気に愛宕に迫る。何も考えずに愛宕に向かっていく自分と、ロキとの会話に応えている自分が同時にあった。
――そう。なら、厭気は君の声に答えるはずだよ。
身体を深く沈め、足元を六本の刃で襲う。愛宕は意に介することなく、その足を振り上げて三峯を狙う。
――厭奴同士の戦いなら、厭気を多く使う方が勝つ。
三峯はそれを予測し、足の動きに合わせるように後ろに跳び上がる。離脱しながら、両手の爪を同時に愛宕の目を狙って飛ばす。
――厭気を全て取り込めば、全ての厭気は君に味方する。
愛宕はそれを右手で払い除け、地面を離れた三峯を突進で吹き飛ばす。直撃を受け、三峯は全身を軋ませ地面に転がるが、痛みを無視して瞬時に立ち上がる。
「そうすれば、この場の厭気も消える、か」
――勿論そんなことをすれば君がどうなるか、わかるだろうけどねー。
「何を一人で言っている。負け犬の遠吠えという訳か?」
「さあな」
三峯は小さく笑い。厭気の具象化を解いて両手を広げる。
身体はもう限界だった。厭気で強化されているとはいえ、愛宕の攻撃を何度も食らって平然としていられる程の力はない。意志の力だけで立っているのも同然。緊張の糸が切れればもう二度と立ち上がることも出来ないだろう。ならば、もう――頃合いだ。
深く息を吸い、その場の厭気と己の心を感応させていく。
――厭気よ、憎いだろう。殺してやりたいだろう。
――お前達の全ては、俺が引き継ごう。
――そしてその無念、必ず俺が晴らしてやる。
渦巻く怨嗟を、三峯は肌で感じていた。
――さあ!
「俺の許に集え」
頭の中で響く鬼哭。消えていく自我の中、三峯はこちらに駆け寄ってくる姿を見た。
――八幡?
八幡は今にも泣き出しそうな目で三峯を見ていた。三峯はその姿を見て、少しだけ八幡のことがわかったような気がした。
――悪いな。後始末は頼む。
そう言い残し、三峯は溶けていった。
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