HOLIDAY SPECIAL ISSUE  誘惑の代償


 HOLIDAY SPECIAL ISSUE

 誘惑の代償 Seduction's cost



『勘違いしすぎ』

『スーパーヒロイン気取り? かわいそうに、カートゥーンの見すぎ』

『ファック・オフ!』

『つか、真の犯罪者はこいつだろ?』

『哀れ』

『狂ってるね』

『早くコイツが捕まりますように :)』

『ロスト・シティの恥』

『同じ女として恥ずかしい』

『この市の精神病院は空きがないの?』

 レベッカは大げさに舌打ちして、デスクの上のラップトップを閉めようとした。そのときスカイプのビデオ通話の着信音がした。母からだ!

「ハイ、レベッカ。いまいい?」

 化粧着姿の母はほぼノーメイクに近いが、そばかすの散った素肌はとてもなめらかだった。真っ赤なルージュをひいて化粧したときより若く見える。

「お母さん! もちろん。いまそっちは何時?」

「こっちはまだ朝よ、正反対だね。そうそう、こないだは滞在させてくれてありがとう。そのときに言い忘れたことがいくつかあって、思い出して電話したの」

「なに?」

「スーパーヒロインの掟はね、まずまっさきに、自分の名前でググっちゃダメってこと」

 レベッカは手をあげて肩をすくめた。

「ちょっと遅かったみたい」

「アハハハ、ごめんね。でもよくわかったでしょ。そんなあんたにいい知らせがある。クリスマスまでにプレゼントが届くよう手配した」

「えっ? こないだ、ディオールのワンピースくれたのに?」

「それとは別のスペシャル・プレゼント! なんてことはないショボいアクセサリーなんだけどね。それ着けてバイユウの前に出てみな。あいつ、わんわん泣き出しちゃうかもよ」

「バイユウかあ」

 レベッカはうかぬ顔で、意味なくテクニカル・ペンシルをとって、くるくるまわしてみせたりした。

「どうしたの? あいつ、まだ休暇でそっちにいるんでしょ? 会ってないの?」

「一回こっちに顔出したきり、会ってない。ほら、お母さんとプール遊びしてたあの日以来……彼、家族連れだから、そっちの家族サービスに忙しいみたいで」

 エリカは破顔一笑した。

「しょうがないね、中国人ってのはみんな家族を大事にするもんだからさ。別にあんたのことどうでもいいって思ってるわけじゃないよ」

「でも、やっぱりちょっと傷つくよ。せっかくこっちに来てるのに何日もほったらかしなんて……」

「彼、いつ帰るんだっけ」

「クリスマス当日の昼」

「あと数日か。いいじゃない、ホリデーシーズンで学校が休みになれば、こんどはあんたがユビキュタリに来ればいいんだし」

「それとはちょっと違うよ、バイユウがわたしをないがしろにしてるって問題とは……」

「何かを選ぶというのは、ほかの何かを捨てることだ。あいつは結婚した瞬間、ほかのすべてを捨てたんだよ。わたしも、あんたもね」

 平然と言い放つエリカにレベッカは絶句したが、母はそしらぬ顔で続けた。

「じゃあもうひとつ、大切な話だからよく聞いて。わたしたち『一族』には、特殊能力のほかにもうひとつ、看過できない大きな特徴を持ってる。……それはね、『美学』」

 エリカは眉を寄せ、急に真剣な顔になった。

「たとえばベイビーフェイス父子なら『美は裏切り』、パンなら『美は自然』っていうふうに、能力に目覚めている者は美に関する強い思想を必ず持っていて、特殊能力もその美学に関連するものであることが非常にしばしば見受けられる。わたしたちならたぶん、『美は人助け』ってとこかな? とにかく、スーパーヒロインをやるなら、この国じゅうで息をひそめてる『一族』に狙われる可能性はとても高い。そのとき、相手の『美学』を知ることは戦略上とても大切なことになるはず。このことをよく覚えておいて」

「う、うん、わかった」

「これでわかったと思うけど、アーロン・ハミルトンがいい人ヅラですりよってきても、信用しないでね。あの父子は裏切りが三度のメシより大好き。仲良くなれそうと思っても徒労に終わる」

「……それもわかった」

「じゃ、フェデックス(国際宅配便)待っててね。おやすみ!」

 母のスマイルと揺れる手とともに、通話は切れた。

 いちばんもやもやしているのは、もちろんバイユウのことだ。

 あいつは、結婚した瞬間、ほかのすべてを捨てた……。

 それはそうかもしれない。でもお父さんがわりになってくれるって言ったのに! 自分の言ったことも守れないなんて!

 こんなむしゃくしゃした夜、スカッとする特効薬は、あれしかない。レベッカはクローゼットから戦闘スーツとウサ耳カチューシャを取り出し、ブラムの呼び出しボタンを押した。そしたらやることはひとつ……

 パンチ!!

 ものたりないことに、きょうの現場はその一発だけで住んだ。場所は大学の男子寮。ベッドに連れ込まれた下着姿の女の子がSOSを出していた。ぶん殴られた男は半裸で、女の子がバニーに泣きつく間、頭をおさえながら、強がるように憮然とたばこをふかしていた。

「ホントはイヤだし、すごく怖かったの。ドラッグなんて」

 彼女はパウチ入りの青い錠剤をバニーに見せた。それを手にとって見る。どこかで見たことがあるマークが一粒一粒に刻印されている。

「『プレイ・ステーション』。最近流行の、新手のセックス・ドラッグですね。まあ、レイプ・ドラッグとも言えますが」

 とバトラーが解説した。たしかに、刻印されたマークは有名ビデオゲーム機のロゴとそっくりそのまま同じだった。

「愛し合ってるんだし、クスリなんかなしでそのままつながりたかった! けど彼がどうしてもって言うから……断れなくて……」

 少女はわっと泣き出してバニーに抱きついた。

「よしよし。これで懲りたろ? 次回からはちゃんと自分でイヤだって言えるね? 勇気が出せる?」

「だ、だせる……だせるとおもう……ふぇえええっ……」

 バニーたちが窓ガラスをやぶって侵入した音に気づいたのだろう、廊下は人であふれて、彼らはちょっとした見世物になっていた。そのときバニーは気づいた。見物人たちの後ろに、髪がまっすぐのヘルメット・ヘアで背の高い、暗くも眼光するどい男がいて、自分を見ていたことを。

 彼は顔を見られて、しまったというように、きびすを返して、さっとその場から逃れた。

「ちょっと、あんた、待ちなさい!!」

 バニーはとっさに飛び出した。人垣をかきわけ、その男の背中に飛びかかり、バタンと床に押し倒す。

 カラ、カラ、コロ、と、乾いた音をたてて転がっていくものがあった。木の杖だった。

 彼女はあわててふりむいて男の脚を見た。彼の右脚は、ありえない方向にねじくれたまま、礼儀正しく革靴をはいていた。

 彼女は飛び上がるようにして立ち、彼を助け起こした。

「ご、ご、ご、ごめんなさい。だって、逃げるから……」

 バニーに起こされ、また他の人間から杖も手に握らせてもらった彼は、彼女をちらりとだけ見ると、金色のまつげを伏せ、さっさと杖を使って去っていった。その速度は、こんなふうに思うのは失礼かもしれないが、脚をひきずりながらにしては意外と速かった。

「お嬢様、どうされたのですか?」

「わたしに顔を見られて、ヤバイって顔、したの……絶対したんだけど……でも、あの脚じゃ悪いことはできなさそうだね」

 帰ってきて、戦闘スーツを脱ぐとき、背中の隠しポケットに錠剤のパウチが入っていて驚いた。どうも、女の子から受け取ったときに、無意識にしまっていたらしい。

 レベッカは裸になってベッドに入り、リモコンで部屋の電気を消したあと、そのパウチを手でもてあそんだ。

「……セックス・ドラッグ、か」

 次の日の朝、登校前の着替えを終えたとたん、ブラムから着信が入った。

「なあに?」

「お嬢様、お待ちかねの人物でございますよ。ミスター・ボグダーノフが階下においででございます」

「うそおっ!!」

 レベッカは喜びのあまり、ピョンと大きく飛びはねた。

「本当でございます。ただいま、レストランにてお待ちいただいておりますので、ぜひすみやかにこちらに降りてきてくださいませ」

「待って、でもまだスッピンなの。念入りにお化粧しないと……」

「お嬢様は素肌のほうがおきれいです、恐れながらミスター・ボグダーノフもおそらく同意見かと存じます」

 そう言われたら、電話を切るがはやいが、レベッカは自室を飛び出した。

 旧レストランの入り口で待っていたブラムには、予想どおりいやな顔をされた。

「またお嬢様という人は、そんな服装を……」

 上はオフショルダーのぴったりニットで、しかも寸足らずで縦長のおへそが見える。そのうえジーンズはローライズだから、蛍光ピンク色のGストリングの両肩がまる出しだ。ひとことで言うと、ビッチ丸出しファッション。

 でもレベッカを見つけたバイユウが、やさしく微笑みかけながら椅子から立ち上がったときには、彼女の服装をとがめようなんて雰囲気はまるでない。

「おはようございます、レベッカ」

「おはよう、バイユウ! 来てくれてありがとう、忙しいのに」

「なんとか家族が眠っている時間に抜け出してきました。こちらこそ、朝の忙しい時間に押しかけてすみません」

「そんなの全然いい、いい」

 レベッカは感激のあまり彼に抱きつきたかったが、すごく会いたくて首を長く長くしていたことを正直に表現するのもなんだかプライドがとがめて、なんでもないふうに、努力して至極とりすまして対応した。

「それで? きょうはうちに泊まってくれるの? それともクリスマス・プレゼントを手渡しに来ただけとか?」

「それなんですけど、どうも僕は、あなたの年代の女性が欲しがるプレゼントが思いつかなくて」

 彼は困ったようにレベッカに笑いかけた。

「そこで思ったんです。プレゼントがわりに、ディナーにご招待はどうかなって」

「わたしをディナーに誘ってくれるの?!」

「ええ。でも、僕は家族を放っておけません。だから、クリスマス・イブの夜は、僕だけじゃなく、僕の家族もあなたを歓迎してディナーにご招待します。それについてどう思いますか?」

 レベッカは頭が混乱した。

「……二人きりじゃないの?」

「たくさんの人数で食べたほうが、料理もおいしいでしょう?」

 バイユウは自分がとんでもなくいいアイディアを提案してると思って疑っていない顔だ。自分の正しさを疑ってない。レベッカの幸せな気分が、急速に冷めていく。

「そう……そうなんだ……バイユウは、ホンモノの家族のなかにニセモノの子供を混ぜて、目前でホンモノの絆を見せつけられてろって言うんだ」

 彼の顔色が変わった。レベッカは急激に頭に血がのぼっていくのを感じた。

「そんなつもりではありません。僕は、ただあなたに」

「わたしは、わたしは……バイユウの家の家族だんらんなんか見たくないよ!! 見れば見るほど、しょせんわたしたちなんて親子ごっこだって思い知るに決まってる。よくも……よくもそんな残酷なこと、思いつけるんだね」

「申し訳ありません。あなたを傷つけるつもりはありませんでした」

 バイユウが丁重に頭を下げた。大の男が高校生に素直にこうべを垂れることができる、その懐の深さもいまはどうしてだかしゃくにさわり、火に油しか注がなかった。

 レベッカの両目から涙がぼたぼたとこぼれ、怒りの震えは止まらなかった。

「しかも、わたしは元カノの娘でしょ? 奥さんにだって超失礼じゃない? サイテー。奥さんの気持ち考えたことあんの?! 同じことされたらどう思う?!」

「妻には、あなたのことをすでに話しています。両親を知らずに育った子であることを話したら、ぜひ自分たちといっしょに食事がしたいと言っていました」

「ああそう。話がわかる、できたお嫁さんでハッピーってわけね。よけいに気に入らない。幸せ家族ごっこはあんたたちだけでして。わたしを巻き込まれないで、どうせ他人でしょ! ほんとはどうでもいいくせに、気にかけてるふりなんかしないでよ!!」

 レベッカは一方的に会話を打ち切り、階段に飛び込んで一気に自室のある五階まで駆け上がった。そして部屋に戻るとベッドに頭をうずめて、

「ぅわああああーーーっ!!」

 と、大声を出して泣きわめいた。

 泣いて、泣いて、泣きまくった。これから学校なのに顔が腫れるのもかまわずに。

 泣きながら、バイユウの本当の家族がどんなものか想像する。彼は中国系ロシア人で、チャイナタウンで育ったというが、嫁は中国人だろうか、ロシア人だろうか。子供は四人といったが、女の子も含まれているだろうか。含まれていたら、きっとバイユウは彼女がちっちゃな頃から、舐めるようにかわいがっていただろう!(レベッカはひときわ甲高く泣き叫んだ)そしてその子がおいたをした日には、父の顔から表情が消え、冷徹な愛のムチが娘のお尻に……(レベッカの泣き声はもはや絶叫に近かった)

 とにかく嫉妬で気が狂いそうだった。そこにブラムが入ってきた。

「お嬢様、ミスター・ボグダーノフはお帰りになりました」

「あんなやつ、もう出入り禁止にして!」

「クリスマス・イブ・ディナーの席の予約はよぶんにとっておくから、気が変わったらいつでも連絡してほしいとのお言付けでございます」

「行くわけない、あんなクソ野郎とディナーなんて!!」

「ええ、いまのところは頭を冷やしてゆっくりお考えになったほうがよいでしょう。ところでお嬢様、そろそろ朝食をおとりにならないと、学校に遅刻されますよ」

「学校なんか行きたくない……」

「そうはいきません」

 顔の赤みを隠すためにコンシーラーをべったり塗らねばならず、化粧に時間がかかったレベッカはスムージーだけで朝食をすませ、一限目の数学に十三分遅れで出席した。ハミルトン先生……アーロンは彼女がノコノコと教室に入ってきたときには何も言わなかったが、彼女が心ここにあらずで、ペンシルを回してばかりなのを見ると、すかさず、

「じゃあ、レベッカ・メイヤー」

 と教鞭で彼女を差した。レベッカは飛ぶように立ち上がった。

「はっ、はい」

「この式を解くには、これまで勉強したどの公式を使えばいいと思う?」

「あ……あの……たぶんあれです……先生が最後に言ったやつです」

「本当? そのピンクのヒモを賭けるかい?」

 教室がどっと沸く。生徒の下着をネタにしてジョークを飛ばすなんて、場合が場合なら雇用にもかかわる大問題にもなりそうだが、『いつもさわやかなハミルトン先生』が言うといやらしくなくてみんなスルーってわけ。アーロンはニコニコしたまま、黒縁めがねをずり上げた。

「最近、授業に集中してないみたいだね。放課後、忘れず僕の生徒指導室へ。来なかったら成績にも響くよ」

 あーあ、悪いことは続く。レベッカは舌を鳴らした。

 生徒指導室に入ると、アーロンはネクタイを緩め、タバコをふかしながらテストの採点をしていた。レベッカに気づくと、にこりともせず、

「よっ、Iカップちゃん」

「一本ちょうだい」

 マルボロの箱をとんとん叩いて数本浮かせたのを差し出されたから、抜いてくわえる。すると、金ピカのジッポライターを出して火もつけてくれた。

「ありがと。で、いったい何の用でお呼び出し?」

「あんたさあ、うちのオヤジに何かしたか?」

「は?」

 ドキリとした。

「いや、ヤツがさ、急にオレに、レベッカの見張りはもういいから、ユビキュタリに帰ってきていいなんて言うんだ」

 アーロンは灰皿に灰を落とした。

「だからまさか、会ったりなんかしたのかとか思ってさ」

「……さあ。白馬に乗った王女様がやってきて、キスしてくれたから目が覚めたとかじゃない?」

「知らないならいいよ。ヘヘッ、あんたはオヤジに会わせたくないな。あいつはあんたみたいな、頭のかわりにオッパイに脳ミソが詰まってるようなブロンドが大好物だからさ」

「わたしのオッパイが脳ミソ入りなら、たいした巨大な頭脳でしょ」

「まあ、そういうオレもこういうのが嫌いじゃないんだけど」

 アーロンはタバコをもみ消すと、立ったままのレベッカを後ろからいやらしく抱きしめた。

「何だよ、やめてよ。それで、ユビキュタリには帰るの?」

「さあ、どうしようかね、とりあえず六月の学期末まではいようかなと思ってるよ。ユビキュタリにはオレを待ってる女がたくさんいるけど、こっちにもかわいい生徒のひとりやふたりいるんでね。オレに抱かれるのを待ってるかわいいビッチがさ」

 彼はレベッカの胸に下から手を這わせ、持ち上げるようにして揉んだ。その手をすばやくふりほどき、彼女は彼に真正面から向き合った。

「パンから聞いた。わたしをレイプしようって計画したのは、あんたなんだって?」

 アーロンは目を丸くした。その顔にタバコの煙をふうっと吐きつけてやる。

「なっ……なんだよそれ。あの男がそう言ったのか?」

「そう、ハッキリ言った。人を雇ってレイプさせようって、アーロンが言い出したって」

「違う! 違う違う違う! あれはほんの冗談だったんだ!」

 アーロンの顔が、みるみるうちに真っ赤になっていく。

「人でも使ってレイプしたら、あの女どうなるかなって、完全に冗談で話してたんだよ、酒も入ってたし……そしたらあいつが『乗った! それいいね、ハロウィンに実行だ』とかなんとか即座に言うもんだから、オレ、前々から思ってたけどこいつ本当に頭おかしいってドン引きしたくらいなんだよ。オレは本当にそんな気はなかったんだ」

「あきれた。友情もヘッタクレもないんだね。自分が全て悪い、ゴメンナサイでもなしに、二人して責任のなすりつけ合いなんて。醜いことこのうえない」

「だってしょうがないだろ、オレは悪くないったら悪くないんだ!」

 アーロンは机をドンと叩いた。

「なんでもかんでもソーリーソーリーばっか言ってるロスト・ピープルと違って、ユビキュタリアンは本当に自分が悪いときしか謝らないんだよ!」

「いい、どうでも。わたしがあんたのことを一生許さないのは変わらないから。さっさとユビキュタリにでもなんでも帰ってちょうだい。そっちのカノジョたちによろしくね」

 レベッカはタバコを灰皿で消し、部屋を出ていこうとした。

「待てよ。だから話をきけって。オレは……」

 腕をつかまれてひきとめられて、レベッカは反射的に、ふりむきざまにアーロンの鼻めがけて強烈なヘッドバットをぶちこんだ。

「ぬがっ……」

 鋼の装甲を誇るアーロンも、急所にこの一撃はこたえたらしく、顔を両手でおさえながらその場に膝を折ってくずれ落ちた。レベッカは無慈悲に生徒指導室をあとにした。

 おっと、帰る前に、あれを補充しておかないと。レベッカはカウンセリング室に向かった。

 スクールカウンセラーのケダカイ・ミツセは在室中だった。彼女はデスクにすわっていて、レベッカをちらりと見て、興味なさそうにパソコンに目を戻した。日系人で、髪はいつもポニーテール。ふちなしのメガネ。東アジア系にしては目がくりくりと大きいが、愛想はない。ミツセは英語圏人には発音しにくいから、彼女はたいていミズ・Mとか、あるいは単にケダカイと呼ばれている。

「ハイ、ミズ・M。デュレックスどこ?」

 彼女は黙って机の上のふたの開いた箱を指さす。

「これじゃなくて、ポリウレタンのがあるでしょ? 男ってみんな、セックスの直前に突然ラテックス・アレルギーになるヤツばっかり」

 ケダカイがデスク袖の引き出しからコンドームを探しているあいだに、レベッカは彼女のパソコンの横に興味深いものを発見した。

「……それ、『プレイ・ステーション』じゃない!」

「知ってる」

 とケダカイはひとことだけ答えた。

「本当に何だか知ってるの?」

「セックス・ドラッグでしょう?」

「っていうより、レイプ・ドラッグでしょ?! 最近流行している……」

「そうみたいね。これは生徒の所持品だった」

 ケダカイは、眉ひとつ動かさなかった。

「なにそれ! そいつレイプ犯予備軍じゃん。警察には言った?!」

 そのとき、やっと彼女はレベッカを見た。そしてこう言った。

「持っていたのは、女子生徒です」

 レベッカは、何も言えなくなった。

「はい、ポリウレタン製」

 箱をあけて差し出されたので、何個かつかんで、ポケットに突っ込む。

 カウンセリング室を出て、レベッカは反対のポケットをさぐった。

 パウチの錠剤と見つめあう。

 どうして、持ってきてしまったんだろう。朝にバイユウがふざけたことを言うから、イライラして……きょうは気晴らしに誰かとヤろうと思って……思って?

 それから、わたしは何をしようとした?

 レベッカはぞっとした。

 彼女は一階の階段の裏に歩を進めた。マリファナやなんかでラリってる生徒のたまり場だ。その日も三人ばかり、白人なのに頭をコーンロウやドレッドロックスにしている男子生徒がたむろしていた。レベッカは彼らにパウチをつきつけ、言った。

「最近これ流してる売人、教えて」

 彼らは顔を見合わせた。そのうちのひとりが、やがておずおずと言った。

「情報料は?」

 レベッカは彼の手をとって、自分のおっぱいをむんずと握らせた。

 彼女はすぐ『ウィングス ID:XXXXX』のメモを入手した。ウィングスというのがコードネームで、IDはメッセージアプリのものだ。このIDにメッセージで依頼すれば、その日のうちにでも待ち合わせ場所で受け取れるらしい、最初は少量、多量にもらえるのは常連になってから。『プレイ・ステーション』は新薬だから、さばいているのはいまのところ市内でもこの男だけということだった。

 やれやれ、きょうのところはこれでもう帰ろうかと思ったとたん、モバイルフォンにメッセージが届いた。

『元気? いつものところで待ち合わせない?』

 パンだった。いつものところと言うほどいつも会ってない、と反論しそうになって、やめた。ふと思い出したのだ。彼といるとき、バイユウの話題が出たときの会話を。

 ……ああ、バイユウか、覚えてるよ、ロシアン・プッシーだろ? 二十年前はそりゃカワイコちゃんだったねえ、僕は好きだったよ、むこうはものすごく僕を嫌ってたけど。ま、二人してエリカの体をシェアしてたから詮ないことだけどさ。あの男に嫌われるもっとも手軽な道は、僕とつるむことだろうね。

 校門前、リンカーン・タウンカーの前に直立不動で待ち、レベッカを見ると、

「おかえりなさいませ」

 とお辞儀するブラムに、レベッカはしかし、

「待って」

 と声をかけた。

「きょう、ちょっと散歩してから帰る。だから、送ってもらわなくていい」

「おひとりでお散歩ですか?」

「うん、ちょっと、ぶらぶらとね……」

 なにせ六歳の頃から育ててもらっている。レベッカのちょっとしたウソくらいお見通しだろう。だけど、本当のことを言うわけにはいかない。ブラムはレベッカをしばらく射すくめるように見つめると、やがて言った。

「かしこまりました。ディナーの時間までにお戻りくださいませ」

「ありがと」

 レベッカは森林公園の方角に歩いていった。ブラムが車も出さず、その後ろ姿をじっと見つめているのが、肌で感じられた。

 場当たりの都市計画を重ねた結果、奇跡的といっていいほど無意味に残された原生林の森の奥に、清らかな小川がある。木々の葉はもう茶色で、レベッカは落ちた枯れ葉をパリパリと音をたてて踏みながら、せせらぎによりそうように樹立する大木にたどりついた。大地から露出した、ごつごつした根っこを枕にして横になってすぐ、葉っぱがさわさわと揺れ、落ちた。

「ハロー、ダーリン。きょうもセクシーだね」

 いつのまに木の上にいたのか、木の葉をかきわけ、パンは木のツルを体に巻きつけて反対向きに登場した。その姿は、ちょうどタロットカードの『吊られた男』みたいなかっこうだ。

「そっちもセクシーだよ」

 と、レベッカは全裸のパンのキンタマの裏側を眺めながら言った。

「来てくれるとは思わなかったな、きょうはまだ、何を買ってあげるか言ってもないのに」

「別に……ちょっときょう、ムカつくことがあったから、気をまぎわらす相手が欲しかっただけ」

「ムカつくことって?」

「……バイユウがちょっとね」

「おお、ロシア猫ちゃんか」

 パンは地上に降りてきて、彼女の隣に添い寝した。刈りたての芝生のように、むっとした青臭いにおいがした。

「実の娘も同然なんて言われて、舞い上がってた。でもそんなの幻想だった」

「なるほどね。じゃ、ホントのダディになれないなら、ホントのシュガーダディ(愛人)になってもらえば? ずっと現実的でしょ?」

「何、それ……彼を誘惑しろっての?」

「そう! きっと楽しいことになるよ。バレたら当然離婚で子供にも会えない、エリカは激怒で人間関係ズタボロだし、未成年と淫行が全国に報道されて刑務所行き、弁護士に復職は無理だろうね。一瞬にして人生がパーだ!」

 パンはおかしげにケタケタ笑った。新しいオモチャを手にした幼児のように無邪気に。

「ちょっと、わたしはそんなことは望んでは……」

「でも、そうできることを自覚すべきだ。ねえレベッカ、本当の力というのは、これじゃない」

 彼は腕でつくった力こぶをパンパンと叩いてみせた。

「そいつのベッドに乗ってパンツに手を入れて誘惑さえすれば、あとはいつでも人生メチャクチャにできる。それが真の力ってもんさ。君はまさにその力を持ってるんだよ」

 レベッカを熱っぽく見つめるパンの瞳は月の光のように澄んでいた。たぶん真に凶悪なテロ指導者もこんな美しい双眸をしているのだろうと思われた。レベッカは嘆息した。

「違う。そんなふうに復讐しようだなんて思ってない。わたしはただ……ほんとのお父さんみたいにふるまってほしいだけで……」

「おっと、おもしろいものをお持ちだ」

 彼は手ではなく、大木から垂れたツルをあやつって、レベッカのジーンズのポケットから錠剤のパウチをぬきとってみせた。

「『プレイ・ステーション』だろ? 知ってる。君、こんなの使うんだね」

「そうじゃない! バニー・ザ・リヴェンジでいるとき、女の子が無理やり飲まされたところを押収したの。何か証拠品とかになるかもしれないでしょ」

「こいつの威力はすごいらしいね。天国の扉どころか、天井までぶっとばしちゃうって。普通のヴァギナ・オーガズムの約十倍も感じるんだって、想像できる、そんな快感?」

「えっ」

 レベッカはふと髪をかきあげ、目をそらした。

「十倍……十倍ね、そりゃ、すごいもんだ」

「あらあら。さてはスウィート、君、セックスでイッたことないだろ?」

 衝撃。彼女はまじまじとパンのニヤニヤ笑いを見つめた。

「……どうしてわかったの?」

「ハハハ、僕にはなんでもわかるんだよ。じゃ、種明かし。セックスでイッたことがない女性は、統計によると実に三分の二。つまりあてずっぽうでも、ないほうに賭ければ半分以上の確率で当たるわけ」

「なんだ、そんなことか……」

「気にしてるでしょ?」

「……わたしは三分の二でしょ。どう見ても多数派。でも……、教えて、そしたらわたしはなんで、こんなに劣等感を抱いてるの?」

「それは自分以外のみんながオーガズムを満喫してるって幻想にとらわれてるからだよ。大人になりな。ま、そんなことはすぐにどうでもよくなる。僕と何回かヤッてれば、どんな女の子もそれを味わうことになるから。君は何もしないで見てるだけでいい」

 パンはレベッカの髪を撫で、耳にキスした。彼の股間を見てレベッカは目をむいた。

「……あんた、四十五歳って本当?」

「四十五? だれがそんなこと言ったの? 僕、二十歳だよ。来年もね」

 彼はレベッカに覆いかぶさってキスを求めてきた。彼女はそれを制した。

「待って。ヤるくらいなら減るもんじゃないからいくらでもヤれる。でも覚えときな。わたしはわたしをレイプしたあんたとアーロンを一生許さないつもりだから」

「一生覚えててくれるの? そりゃうれしいね。だって女の子はみんなすぐ、僕を捨てて去っていっちゃうんだもん」

 ほんの少しばかり見せたさみしげな色は、いつもの諧謔か、それとも、真実なのだろうか。

 いいや、彼はまちがいなく悪質な詐欺師で、凶悪犯罪者で、そして奇形だ。そしてそれでもいいと思った。

「ねえ、パン」

 と彼を抱き返したレベッカは耳にささやいた。

「……ときどき、自分の体が変なんじゃないかって、夜も眠れないくらいになる……」

「だと思った、十七だしね。無理にイこうとするんじゃダメだよ。リラックスしてね。ねえ、想像してみて、全身の性感帯を同時に刺激されるセックスってどんな感じだと思う?」

「えっ」

 ツルの先端がちょいちょいとレベッカの肩をつついた。まさか、パンはこれを使って……。彼は笑った。

「こんどね、こんど。きょうは想像だけ。僕らのセックスには、ドラッグもラテックスも、ポリウレタンもいらないよ。ほら、目を閉じて」

「ポリウレタンはいるよ」

 とはいえ、レベッカは言われたとおりにまぶたを閉じた。そして、前につながったときよりかは、セックスは気持ちよかった。ただし、またも、どうしても見えない壁にはばまれて、天井にはたどりつけなかったけれど。

「さて、一汗かいたし、晩メシでも食いにいかない? いいカキを食わす店があるんだよ」

 パンがううーんとのびをすると、元からやせ型であるため、あばら骨がくっきり浮いて見えた。レベッカは衣服をなおした。

「悪いけど、わたし、夕食の時間までには帰るってブラムと約束してるの」

「何それ? 君が決めたの? そうじゃないよな、執事がだろ? でも君がミストレスなのに、どうして労働者階級なんかの言うこときく必要あるのさ」

 彼はいたずら好きの悪ガキのようにニヤリと笑った。

「……わたしだってそう思ってるけど、仕方ないよ……ブラムは私の保護者だもん。あーあ、帰りたくないなあ。でも、電話して許可とらないと……」

 レベッカはしぶしぶモバイルフォンを取り出した。コール音。

「はい、なんでしょう、お嬢様」

「もしもし、ブラム? あのね、ディナーまでには帰るって言ったけど、……遅くなりそうだから、ディナーいらない」

「いま、どなたとごいっしょですか?」

「友達……」

「お友達? お嬢様はお友達をおつくりになったのですか?」

「あ、んーん、ていうか、フィリップ」

「ウィルソン家のディナーにご招待されたのですか? それでは親御さまに感謝のお電話を入れなければいけませんね。電話帳で調べます、お父様のファースト・ネームは?」

「……うー」

「お嬢様、本当のことを言ってくださいませ」

「その……実は……パンといる。でもいっしょにいるだけ。特になんの意味もない」

「お嬢様、あなたという人は、その人物に何をされたのかも忘れたのですか?」

「忘れてない! わたしになついてるから利用してやってるだけ! 何も知らないのに、偉そうな口きかないで」

「お嬢様、そちらまでお迎えにあがります。今、どこに……」

 衝動的に電話を切ってしまった。

「よく知ってるね、僕、君になついてるんだ。かわいがってよ。ミャーオ」

 パンは猫のまねをして、憔悴したレベッカの肩に頭をすりよせた。

 彼は森林公園の入り口に白のマセラティを停めていて、アルマーニのスーツもその中にあった。着替えた彼とレストランに赴き、次々と殻からカキをすすり、白ワインをすすめられたからそれもすすっていると、これが不良への入り口なのかもな、という気がした。

「……よく、愛のあるセックスのほうがイキやすいって言うけど、それは本当?」

 レベッカはカキの殻の山にまた別のを放り投げてかさを高くした。

「なにそれ? 愛のあるセックスって。わかんないな。セックスって、愛がなきゃできないじゃん」

 と、パンはカキをすすりながら、平然と。

「えっ? だって、わたしは現にあんたのこと、なんとも思ってないけどヤるだけならできるし」

「へえ、そうなんだ。僕は愛した女にしか勃起しないけど?」

 彼は唇の片はしを持ち上げ、射抜くようにレベッカを見つめた。純度百パーセントのブルーグレーの虹彩。本当にこの男は、言っていることをどこまで信用していいのか、推しはかるということが不可能だ。

「高校生活なんて、人生でいちばんクソだよ」

 帰りにマセラティの助手席に乗せて送ってくれながら、彼は言った。内装はワインレッドの最高級のソフトレザー。

「僕はいま、不動産投機で食ってる。ユビキュタリが主だけど、ロスト・シティにも少し持ってるよ。牢獄がイヤになったら僕んとこに来な。小さなフラットならいくつかあげてもいいよ」

「でも……」

「執事ふぜいに束縛される生活、僕なら耐えられない。誰にも命令されたくないんだ」

 車がホテルの前で止まる。ああ、ブラムは玄関入ってすぐのところで、ビシッと背筋を正して、手を前で組んで立ったままレベッカを待っていた! まるで忠犬。いったい何時間そのままでいた?

「ブラム……」

 とぼとぼとホテルに入っていくレベッカに、彼は深々とお辞儀した。

「おかえりなさいませ、お嬢様。……ミスター・ボグダーノフへはもうご連絡されましたか?」

「バイユウに?」

「気まぐれであなたに優しくする男より、真にあなたを思いやってくれる人間のことをお考えくださいませ、お嬢様」

 レベッカは肩を落とした。わかってる。パンの調子のよい言動のすべてがその場かぎりのものなんて。でも、それが心地よいときがある。それしか必要ないときがある。

「ブラム、ごめんなさい」

 彼女は執事の胸に飛び込んだ。

「お嬢様、ルーク・セス・ガーンズバックは芯から無邪気な男です。彼は無邪気ゆえに女を愛し、無邪気ゆえに人を殺すのです。彼があなたの心がわかるのだとしたら、それは彼の心の年齢が十七から成長していないからと存じます」

「わかってる……そう、わかってる……パンは絶対に許していけないはずの男。でもいっしょにいて落ち着くの。バイユウはわたしの大切な人、でも彼を絶対に許せないの。頭ではわかってるけど、とても感情が追いつかなくて、心と体がちぎれそう……」

「お気持ちはよくわかります、ミスター・ボグダーノフを許せないお気持ちは……しかしお嬢様、人を判断するとき、その行動ではなく、心を見てください。おもてにあらわれた行動は最悪だったかもしれません。でもすべては、あなたを思いやる心がさせたことなのですよ。それを評価しなければ」

「わかってるんだってば……」

 レベッカは片手で頭をおさえた。

「あなたのご混乱はわかります、わたくしも十七のみぎりには、自分の感情に振り回されてばかりでした」

「うそ、あんたが?」

「はい。しじゅうイライラしていました」

 この男が? 置物の甲冑がキビキビ動いてるみたいな冷たいブラムが? とても考えられない。レベッカは彼をにらんだ。

「……たぶん、あんたの十七より、わたしの十七のほうがイライラしてると思う。わたしはすごく魅力的で、誘惑が多いから」

「そういうこともあるかもしれませんね。そういえば、思い出しました。お母様からフェデックスがご到着です。お部屋でお着替えになっていてください、お届けします」

 部屋で待っていると、彼はすぐにやってきた。

 小さな小包をやぶく。中に入っていたのは、別珍張りの紺色のアクセサリーボックス。中身は、ティアドロップ型のダイヤのペンダントだった。

「わ! ダイヤだ!」

「お母様にもお礼のお手紙を書かないといけませんね」

「うん……でも、どうしてくれたのかな。だってクリスマスはもうワンピースをもらってるの」

 それに、これを着けて見せればバイユウが泣くと言っていた。どういう意味だろう? かつてバイユウが母にあげたプレゼントだったのだろうか?

「まずはミスター・ボグダーノフに謝罪を。いまお電話すれば、まだ常識的な時間内ですよ」

「……うー」

 だがどんなにうながされても、レベッカは電話をかける気になれなかった。彼が四人の子供に囲まれて楽しげに笑っているところにベルが鳴るか、もしくは奥さんとソファで肩を寄せあって、リラックスしてキスしているところを邪魔するかもしれないと思ったら、どうしても気が向かなかったのだ。両親がいなくてあたりまえの世界で育ったレベッカが、これほどまでに他人の家族だんらんに嫉妬するのははじめてのことで、よけいに混乱した。常に自分が上だと信じてるから、好きな男の連れてる女に嫉妬したこともなかったのに。

「……ブラム」

「はい、なんでございましょう」

「きょう、心配かけてごめん。いつ帰るのかわからないのに、わたしを待っててくれた」

「わたくしには、謝ることがおできになるのですね」

「そう、ブラムにならできる……だからせめてブラムだけにでもあやまろうと思った」

「大変結構でございます、お嬢様」

「わたしを叱らなかったね」

「逆効果と存じておりますから」

「よくわかってる」

 レベッカはベッドに身を投げ出し、たなごころに握ったダイヤのペンダントをただ眺めた。

 ため息。

「ああ、モヤモヤする……そうだ、ブラム、こんなこともあろうかと……」

「こんなこともあろうかと?」

「『プレイ・ステーション』の売人の連絡先をおさえておいた! 出動だよ! とりあえず悪人倒してスカッとして、それからまた考える!」

 アポはすぐにとれた。一錠四十ケツァル(約四千円)、最初なのでまず五錠から。奇妙なのは、取引場所にビルの一室を指定してきたことだ。アシがつきやすいだろうに、なぜ部屋なんかに呼び出すのだろう?

 ともかく、バニー・ザ・リヴェンジとリヴェンジ・バトラーに変身した二人は、バイクで指定されたビルに向かった。

 エントランスが暗くて汚い、いまにもくずれおちそうなビルだった。部屋はいちばん奥の角の部屋だ。

 ノックをする。出てきたやつの鼻っぱしらに先制パンチするつもりだった。だけど、驚いた。ドアを開けたのは、長い髪を垂らした美しい乙女だった。

 彼女は幸せそうに目をうるませて、しかし強烈な速度で、バニーの口に何かを突っ込んだ。

 錠剤だった。

「……ッ!」

 ぺっと吐き出そうとするが、すぐに口の中で溶けてしまって、うまく吐けない。レベッカは咳き込み、よろけた。

「お嬢様!」

 玄関なしで、ドアをあけたらすぐ居間だった。家具はほとんどなく、ソファとダイニングテーブルくらい。そのソファにひとりの人物がかけていた。

「あ、あんたは……っ!!」

 バニーは彼の顔よりも、杖と脚をよく覚えていた。生まれつきなのか奇妙にねじくれた脚と、ソファにたてかけられた杖。

「そろそろ来ると思ってたよ、バニー・ザ・リヴェンジ。ぼくの世界へようこそ」

 と彼はマリファナの長いパイプから煙を吐き、すわった目で言った。

「ぼくは通称『ウィングス』、本名はアレクサンダー・ディ・キャンプ。そちらの紳士にもクスリを」

 部屋の隅でしゃがんで身を隠していた黒人の大男が立ち上がり、バトラーを後ろから羽交い絞めにした。そして、やはり何かの錠剤を無理やり口に突っ込んだ。

「これでみんな、ぼくの仲間だ。死ぬまでね」

 彼は端正な顔をゆがめて、ゆかいそうに笑った。

「ふざけないで……何を飲ませたの?! いっとくけど、ドラッグごときに負けるわたしじゃないからねっ!」

 バニーは彼にむかって飛びかかった。そのとき。

 床の木材が、びよんとゴムのように伸びた。その『ゴム』がバニーの足首をつかみ、床に転倒さしめたのだ。

「な、なにこれっ!」

「テレキネシスか?!」

 黒人に組み敷かれているバトラーがあえいだ。

「そんな特別なものじゃない。これは現実の日常だ」

 とアレクサンダーは金髪の長い前髪をかきわけた。

「ただし、クスリによって変容した現実だ。ぼくは……そうだな、思い通りの夢を見ることができて、しかもそれが夢じゃなく現実と言ったらわかりやすいかな?」

 彼は得意げに指を鳴らした。

「美とは変容現実。ドラッグでラリってる人間だったら、そいつの現実を意のままに操れる。ぼくはこの力でなんでも思いどおりに生きてきた。これからもそうする。ドラッグさえあれば翼を生やして生きていける……足なんか関係ない、いつでも飛翔できるんだ」

 恍惚と、天国の方向を眺めて。

 まさか、そんなの……でも、彼は明らかに、わたしの『一族』……!

「そんな、そんなのって……っ!」

「バニー、君はぼくにかなわないと知ってもらおうか」

 なんとか立ち上がって、足をひきはがそうともがき、腕を振り上げても、今度はダイニングテーブルの足がビュッとのびてきて、腕にぐるぐるに巻きつく。なおも抵抗したら、今度は天井が垂れてきて首にやわらかくからみついてきた。

 進みたいのに進めないところが、彼が言うとおり、夢にそっくりだった。

「もっとも、抵抗してもしなくても、すぐにぼくの世界のとりこになるよ。全員がそうだからね。クスリの支配下にある人間については、ぼくにはなんでもお見通しなんだ……何がきみのいちばんの悦楽なのかも、手にとるようにわかるよ」

 ふうっと、大きくマリファナの煙を出す。

「君には大事な人がいる、そうだね? ああ、そして、君の性的オブセッションも見える。いまここで公開して、とってもすてきに辱めてやろうか? きっとクセになる」

「えっ……」

「レベッカ、ダメじゃないですか、だからスーパーヒロインは危険だと言ったでしょう?」

 信じられない。振り向くと、上等な麻のスーツに身をつつんだバイユウがいた。バニーにはわかった。スーツの上を脱げば、そこにはきっとサスペンダーがある……。

「アレクサンダー、やめろ!」

 とバトラーが叫んだ。

「今夜はお父さんがたっぷりおしおきしなければいけませんね。何を使ってほしいですか? 全部を順番にしましょうか?」

 気がつくと彼は実にさまざまな道具を小脇にかかえている。クリケットのパドル、籐の棒、ステッキ、バラ鞭、ステンレス・ロッド……。ああ、とろけてしまいそうだ……。

「だ、だめ……お父さん……ごめんなさい、許して……」

「お嬢様、惑わされてはなりません! それはただの幻覚です!」

 バトラーがあえいだ。しかし、バイユウは磨き抜かれたマホガニーのように美しく重厚なバリトンの声で続けた。

「ダメです、許しません。あなたがスパンキングで絶頂を得るまで、お父さんはやめませんよ」

「いや、許して、許して……」

「安心して。それは幻覚なんかじゃない。現実だよ。この世界では、現実と願望の区別はないんだ」

 アレクサンダーが朗らかに言った。そしてパイプをライターの火であぶって、煙を深く吸った。

「お嬢様……アレクサンダー、やめろ!!」

 バイユウはレベッカのスカートをめくり、網タイツと紐パンの食い込むお尻が露出される。バニーはうっとりと目を閉じる。お尻を冷たいステンレス・ロッドが撫でまわすのを感じる……。

「アレクサンダー!! 今すぐ彼女を解放しろ。わたくしのことはどう料理してもいい。だからバニーに手を出すな!!」

 バトラーが絶叫すると、アレクサンダーはニヤリと笑った。

「そうかそうか。自分は退屈ってわけか?」

「お嬢様の心をもてあそぶな。彼女の心に傷をつけるな!! それをしなきゃ、自分はどうなってもいい!! 彼女の代わりにわたくしを嬲って遊べばいい!!」

 遠くブラムの声が聞こえる。ふだんの彼からは想像もつかない大声をだし、なりふりかまわず、わたしを守ろうとしている……。ああ、でも、いまにもロッドはわたしのお尻に振り下ろされそうだ。

「へえ、望むなら君とも遊んであげるよ。君の深層心理の性的オブセッションはどんなものかな? 理想のシチュエーションは? すぐに全部見せてあげるね」

「そこまでにしときな」

 バキッ、と音がし、天井の送風ダクトの床が落ちてきて、そして、人も落ちてきた。

 顎までおおう黒ずくめのぴったりしたスーツに身をつつんだ、ケダカイ・ミツセだった。メガネはない。

 ケダカイは持っていたカタナで、まずバトラーを締め上げていた黒人の腕を一本切り落とした。そして幸せな乙女の胴体にもナナメに切り込みをいれ、彼女を気絶させた。

 そして、驚愕しているアレクサンダー・ディ・キャンプに向き直り、刃を向ける。

「私には『一族』の気配を肌で感じられる」

 彼女は告げた。

「売人家業はやめな。少なくとも、うちの学校の生徒に手を出すな。……出したくても、出す手がなくなるよ」

「け、ケダカイ……」

 気がつくと幻覚のバイユウは消えていて、体にからみつく床やテーブルの足ももとどおりだ。バニーははっとわれに返った。そして、自分がいましがた、人前でオナニーを見せようとしたも同然であることに気づいて、カッと顔が熱くなり、頭に血がのぼった。

 解放されたブラムと目が合う。最後の瞬間まで、バニーを助け出そうと喉も枯れんばかりに叫び続けてくれた男と。彼は汗だくだ。そして、黙ってうなづく。

 彼女は駆け出した。そしてシッポに仕込んだキリを取り出すと、それで思いきり……

「ぎゃあああああ!!」

 アレクサンダーの耳にピアスをあけてやった。キリは耳を突き抜けて深々と壁に刺さり、容易に抜けそうにない。バニーは言い渡した。

「よくもわたしをからかってくれたな。覚えときな! ラリった幻覚が現実なもんか。幻覚は幻覚だ。翼なんかなくても、わたしは現実のほうが好き! 現実逃避に他人を巻き込むな、ヤク中が! いま通報するから、警察が到着するまでそうしてな」

「警察が来るなら、私も帰るわ」

 とケダカイがきびすを返した。

「待って。ケダカイ、まさか、あなたもスーパーヒロインなの?」

「まさか」

 彼女は無表情に吐き捨てた。

「わたしはただ、たまに自分の一族がふざけたことしてると、成敗するだけよ」

「でも、あなたのカタナさばき、ただものじゃない……ねえ……ねえ、これからもわたしに協力してくれない?」

「できない」

 ケダカイはにべもなく言い、玄関のドアをあけた。

「私は、必ず裏切るから」

 謎めいたひとことを残して、彼女は消えた。

「ねえ、ブラム……」

 帰りにバイクの後ろに乗せてもらいながら、バニーはバトラーの耳に口を寄せた。

「はい、なんでございましょうか」

「きょうは、ありがとう」

「何もしておりませんよ」

「ねえ、怒った?」

「何をでございましょう?」

「わたしの幻覚に、バイユウが出てきたから……」

「わたくしは十一年間ものあいだ、あなたの父親として、ときには母親として、あなたを監督し、育ててまいりました」

 彼はきっぱりと言った。

「いまさらどこの馬の骨とも知れない男が少々父親ヅラしたからって、わたくしは特段何らかの感想を抱くものではありません」

「ヒャハハハハ、ブラム最高!」

 バニーはバトラーに思いきり抱きつき、おっぱいを押しつけるようにした。

「ねえ、あんたの性的オブセッションも見たかったなぁ。ケダカイったら登場が少し早かったよね」

「さようでございますか」

「ま、想像はつくけどね」

「どのようなものでしょうか」

「わたしと南の島でハネムーン旅行でしょ?」

「ご想像はご自由でございます」

 スーツを脱ぎ、シャワーを浴びて自室に戻ってきたレベッカには、ひとつ仕事が残っていた。ひきだしの奥に隠していた『プレイ・ステーション』を、ゴミ箱に放り込むだけのことなのだけど。

 次の日、めずらしいことがあった。あのフィリップが、検索に五分もかかったのだ。

「出た!」

 彼の部屋にやってきたレベッカとブラムは、パソコンのモニタをのぞきこんだ。

「前科がないからね、なかなか情報にたどりつけなかったよ」

 たしかに画面にあるのは逮捕写真ではなく、遠くからケダカイを隠し撮りした写真だ。

「でも糸口があった。幼い頃に離婚した父親が逃亡中の連続殺人犯なんだ。だから彼女も要注意人物としてマークされてた。その線から探ってみたんだ」

「連続殺人犯?!」

「そう。『首絞め魔』のコリン・シェクリイだ。昔から全国各地でセックス中に女を殺してはうまいこと逃げおおせてる。うまく逃げられている要因のひとつは、彼がマフィアの関係者だってことだろう。コリン・シェクリイは、ベイビーフェイスの双子の弟だ」

「べいびっ……ちょ、ちょっと待って!」

 レベッカは頭をかかえた。

「お母さんのハーフ・ブラザーがベイビーフェイスで、そのベイビーフェイスの弟がケダカイの父親で……ってことは、わたしとケダカイは、つまり、えっと……」

「いとこだね。しかも、ベイビーフェイスの信条が『美とは裏切り』なら、彼と同じDNAの男から生まれたケダカイもそう思ってるふしがある。その証拠に、彼女もカルヴィーノ・ファミリーの手下として働かないかベイビーフェイスに勧誘されたが、断ったと本人があるとき証言してる記録がある。もし『裏切り』が自分のDNAにまで刻み込まれてると知っていたら……」

「……知っていたから、組織入りを断った? 自分は裏切るだろうから?」

「ベイビーフェイスに大学の学費を負担してもらったが、在学中にアルバイトですべて返したようだ。彼女は本当にファミリーとは関係ないみたいだね」

「そして、わたしとも組まず、一匹狼……」

「裏切りたくないからだろうね」

「それにしても、アーロンと合わせたら、ひとつの学校にいとこどうしが三人か」

「ハミルトン先生は彼女を知ってるかな?」

「ううん。ケダカイのこと、何も言ってなかった。きっと知らない……」

 レベッカは嘆息した。いいや、もしかしたら。

 アーロンがレベッカを見張っていたように、ケダカイはアーロンを見張るために、ここに来たのかもしれない。

「いままで、苦しみを人とわかちあうこともせず、たったひとりきりで生きてきたんですね」

 とブラムが言った。

「ねえ、ケダカイって何語? 意味は知ってる?」

「日本語でNoble-mindedだよ」

 とフィリップが答えた。

「Noble-mindedね……」

『私は、必ず裏切るから』

 そう言い捨てて去っていったケダカイの、するどい目つきだけが、切り取られたように記憶から浮きあがって、いつまでもレベッカをとらえた。

 さて、クリスマス・イブの夜。

 体育館は『クリスマス・ダンス・フェスティバル』でおおにぎわいだった。それぞれ思い思いにめかしこんだ生徒がギラギラの照明のなか我を忘れて踊り、DJ部の生徒が曲をまわし、父兄も駆けつけて子供たちのダンスをビデオカメラにおさめる。お菓子とパンチもふるまわれるが、誰かがこっそりお酒を混ぜてないか気をつけること! 明日からはいわゆるホリデーズ……年末休みだということもあり、いやがおうにも生徒たちは盛り上がる。レベッカはブラムに髪を編みこみにしてもらったうえ、母のくれたディオールの黒のフリルワンピースを身を包み、フィリップと腕をまわしあってスローダンスをしていた。

「いいの、あいつといっしょじゃなくても?」

 彼は遠慮したように言った。

「うん。ハリーは上級生だし、つっ立っててもクリスマス・キングでしょ。わたしはナードに優しいところをアピールして、来年もみんなに宿題を手伝ってもらうつもり」

「なるほどね」

「さて、集計が出揃いました! ここでクリスマス・キングとクイーンの発表です!」

 舞台の上で、演劇部の生徒による司会が吼えた。

「栄えある第二十三代クリスマス・キングは……三年生、ロバート・プルマン!」

 たちまち拍手。彼は照れ笑いしながら舞台に上がり、クラウンを頭に乗せてもらう。彼はマイクを向けられて、

「投票してくれたみんな、ありがとう。高校生活最後の一年をみんなで楽しもう。ハッピー・ホリデーズ!」

「ではクイーンの発表です、クイーンは、レベッカ・メイヤー、二年!」

 彼女は当然といった顔でみんなに手をふりながら壇上にあがり、ティアラをかぶる。

「ありがとう、ありがとう! みんなのおかげだよ。ハッピー・ホリ……」

 レベッカは凍りついた。

 見つけてしまったのだ。舞台に向かってハンディカムやモバイルフォンを構える生徒の母や父にまじって、なんと、あの! あのバイユウが、ほんとうの父親のように、彼もまた、ハンディカムで彼女をとらえている! 

「……ハッピー・ホリデーズ」

 彼女はひきつった顔でそれだけ言うと、一目散に舞台から逃れ、バイユウのもとへ走った。

「バイユウ! 来てくれたの?」

「ええ、ブラムに教えてもらいました。きょうはいちだんと美しいですね、レベッカ」

「でも、どうして……ディナーは? 時間、間に合うの?」

「ここはうるさいですから、いったん外に出ましょう」

 というわけで、体育館の外の廊下に出た。きょうのバイユウは、蝶ネクタイとタキシードで正装していた。やっぱり、これからディナーなのだろうか。

「実はきょうここに来る前に、妻に頭を下げてきました」

「奥さんに?」

「僕は一年のうち三百六十四日まで、家族のために生きています」

 彼は遠くを眺めるように目を細めた。

「だから、その残り一日だけを、父親を知らない少女のために使ってもかまわないかというふうに」

「やだ……やだ、バイユウ!」

 レベッカは彼に抱きついた。その目から熱い涙がこらえきれずあふれた。自分が心から恥ずかしかった。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい」

「いえ、いいんです。あなたはいつもとても大人びているから、まだたった十七歳だということを忘れてしまいます。そのせいでうっかり配慮を欠いたことを……」

「ううん、わたしが全部悪いの……わたしのことを思ってくれて言ったことだったのに、わたしが子供だったから……ごめんなさい」

「朝まで泣いているおつもりですか? 僕はブラムに、今夜あなたの家に泊まる許可ももうとりつけてきましたよ」

「うそっ!! ホントに?! やったあっ!!」

 レベッカは、涙で頬を濡らしながらもピョンピョン飛びはねた。

 そういうわけで、今夜はブラムも加えて、旧グランド・サイブリー・ホテルで三人きりでクリスマス・イブ・ディナーとなった。あしたはどこの家庭も山盛りのクリスマス・ディナーを腹につめこむから、それにそなえて、肉料理も魚料理もおなかにやさしい、あっさりしたものだった。

 シャワーを浴びたあと、レベッカはうきうきでバイユウの部屋にしのびこんだ。

「ね、ちゃんと約束守ったでしょ? きょうはズボンはいてる!」

 彼女はグレーのだぶっとしたジョガーパンツを見せつけたが、ただしその上は、XXLサイズのスポーツブラだけだ。ベッドでラップトップをいじっていたバイユウは、スクエアフレームのメガネをあげて彼女を見て、笑った。

「どうもありがとうございます。次は上も着てくるようお願いします」

「じゃあ、お父さんのパジャマ、上だけ貸してよ! それで下はお父さんが着たまま。どう?」

 バイユウはパジャマの上にガウンというかっこうだった。ベッドに乗り出してきたレベッカの提案に、彼はまたも苦笑いした。

「なんだか恋人どうしみたいですね。いいですよ、貸してあげます」

 バイユウはパジャマの上を脱いだ。カンフーの鍛錬でうっすら筋肉がついた上半身があらわになった。ああ、こんな肉体の男がほんとうに父親だったら、なんて素敵なことだったろう!

 パジャマをはおったレベッカはうっとりとベッドに横たわった。そこを、ラップトップを閉めたバイユウが見つめた。

「レベッカ」

 と彼は驚いたように言った。

「そのペンダントは、どうしたのですか」

 彼の長い指が、鎖骨のあいだのティアドロップを、おそるおそる撫でた。

「ああ、これ、お母さんがくれたの。バイユウが見たらびっくりするって言ってたけど……むかし、プレゼントしたか何か?」

 彼はぎこちなく笑った。

「そうです。むかし、贈りました。それはもともとは僕の祖母の持ち物なんです」

「えっ?! 超大事なものじゃん」

「そうですよ。母に言われて託されたんです、本当に大切な人ができたらこれを贈りなさいと。そして僕はエリカにあげました」

「別れるとき、返してもらわなかったの?」

 バイユウは目を細めた。

「エリカは返そうとしたんですが、僕は受け取りませんでした。大切な人にあげるという役目はもう果たされたからって。でもそれは半分言い訳でした。僕は本当はエリカにこれを持っておいてほしかったんです。何かこの世にひとつでも、二人が恋人どうしだった証拠品のようなものがあってほしいと思ったのです。……それをいま、あなたが持っていることに大きな意味を感じます」

 彼はレベッカを抱きしめ、彼女の肩に顔をうずめた。そのうち、すっ、すっと鼻をすする音がはじまった。あ、やっぱり泣いた。

「これ、ずっと大事にするね。ずっとずっと、大事にする」

「はい、そうしてください。……僕のためにも」

 モバイルフォンが鳴った。ブラムだ。こんなときだけど、応答する。

「どうしたの?」

「それが、いまこちらに、アーロン・ハミルトンがお車でおいでです、お嬢様」

「えっ?! アーロンが?!」

「お嬢様の顔を見るまで帰らないと言い張っています。いかがいたしますか? お嬢様がご希望なら、わたくしが追い返しておきますが」

「イブの夜にご訪問ですか、決闘ではなさそうですね」

 とバイユウが涙をぬぐいながら冷静に言った。

「待って……いちおう、わたしが応対してみる……」

「では、わたくしは中から見張っております。少しでも危険を感じたら、それとわかるように合図をするか、大声をあげてください」

 レベッカは部屋に行って、トレンチコートを持ってきて上にはおって階下に出た。不機嫌そうなブラムと、それにガウンを着たバイユウまでもが、ロビーで彼女を待っていた。

「本当におひとりで大丈夫ですか? よければ、わたくしがお供しますが……」

「いい、いい」

 レベッカは飛び出した。ロビーのまん前に停めてある赤のシボレー・カマロから降りて、アーロンは車によりかかり腕を組んで彼女を待っていた。メガネをかけていない。その目は若干とろんとしている。

「あんた、どうしたの、酔ってんの?」

「いや、少ししか飲んでない」

 彼は気まずげに目を落とした。革のジャケットに両手を突っ込み、いまにもタバコを取り出しそうだったが、そうしなかった。

「わかった。ロスト・シティで過ごすクリスマスが最後だから、感傷的になっちゃったんでしょ」

「あんたへのクリスマスプレゼントを考えてたんだ」

 レベッカは口がきけなかった。

「それで……そうだな、この車はどう? まだあまり走らせてないよ。あんたにやる」

「車はいらないよ、いつもブラムが送り迎えしてくれるから」

「ああ、そう」

 彼はぶすっと言って、窓から車のシートに手を突っ込み、

「じゃ、こういうのは?」

 とレベッカにそれを差し出した。一輪の赤いバラをラッピングしたものだった。レベッカはあっけにとられて、あやつられるようにふらふらとそれを受け取った。

 彼女の頬をアーロンが両手で包んだ。緊張が走った。しかし、彼は彼女のひたいに冷たい唇をつけ、そのときかすかに、

「ごめん。例の件」

 と言った。

 レベッカは、ぽかんとしていた。アーロンは赤く血走った目で凄み、彼女を指さした。

「おい、聞こえたか? ちゃんと謝ったからな。ちゃんと聞いてたか?! 謝ったんだぞ! このオレが! こんな屈辱ははじめてだ。じゃ、帰るからな!」

 彼はさっさと運転席に乗り込み、気ぜわしくエンジンをかけ、急発進でホテルを飛び出していってしまった。レベッカはバラをもって、とぼとぼとロビーに帰っていった。

 おでこへのキスを二人も見ている。ブラムはむっつり、バイユウはニコニコしていた。

「これはわたくしが活けておきます」

 とブラムはひったくって奪うようにバラを持ち去った。

「……どうしよう」

 とレベッカが言った。

「あなたのことが好きなんですよ」

 バイユウが言った。

「そんなのは誰が見たってわかる! それをどうしようって話! ああ、でも別にいいか、あいつ来年でユビキュタリに帰るつってたし……」

 でも、おでこに唇があたったときの、あのひやりと冷たくも、やわらかな感触。思いつめたようにレベッカを見つめる、にじむブルーグリーンに、意識が吸い込まれそうで……。バカ! 好きになるわけないじゃない。わたしは天性のスーパービッチなのに! それに、あいつの美学は『裏切り』だ。でも、もしかして? 人生でいちども、美学に反する行いをしないというのか?

 電気を消して、レベッカはバイユウのはだかの胸に頭を寄せて横になる。バイユウの日に焼けてない真っ白な胸板に胸毛がほんの少しだけ生えているのが美しかった。お父さん。こんな素敵な人がお父さん。そしてレベッカは思った。

 パンツの中に手を突っ込めば、ひとの人生をメチャクチャにできるのが真の力なんじゃない。

 真の力とは違う。

 真の力は、そんなものじゃない。

 彼はすぐにいびきをかきはじめた。レベッカはこっそり部屋を抜け出し、電気のついていない暗闇の廊下をひた走り、自室に戻ると、キラキラにまばゆく光る紙でラッピングされたプレゼントの箱を取った。そして階段を下りて、ブラムが眠る使用人部屋のドアの前に、ちゅっとキスしてから置いた。そして、小声でささやく。

「ハッピー・ホリデーズ、ブラム」

 これが真の力。

 そして、バイユウの部屋に戻って、もういちどベッドにもぐりこみ、幸せに眠った。




(了)

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レベッカ・メイヤー:ショウ・ミー・ザ・ヒロイン とよかわ @toyokawa

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