ISSUE #3  因縁の系譜

 アーロンの住所は、フィリップに連絡したらすぐに調べてくれた。

 バイクを運転するブラムの背中にしがみつきながら、レベッカはモバイルフォンで検索をかけた。「バニー・グラヴィ」。確かに『ユビキュタリアン・オンライン』が、「伝説のスーパーヒロイン、バニー・グラヴィとは何だったのか?」という記事をアップしている。パンの言ったとおり、二十年ほど前、バニー・グラヴィという謎のスーパーヒロインが強盗や強姦から人々を救い、また、貧しい売春婦やホームレスを支援したという。名前は、彼女が重力を無視して天井を走ってみせた姿が目撃されたことがあるから、グラヴィティをもじってのものだということだった。

 これが、わたしのお母さん……。ということは、まちがいなく、レベッカの能力は遺伝だった。こんなこと、だれも教えてくれなかった。

 人々が静かに休む郊外の住宅街だった。アーロンの家は、赤いカマロが目印だ。しずかにベランダに近づいて、カーテンをひいてない窓から様子をうかがう。

 アーロンはいた。ジャズと思われる音楽を流し、ひとりでカウチにかけ、ペーパーバックを読んでいた。サイドテーブルにはウイスキーか何かのオンザロック。昼間と同じく、ポロシャツにブラウンのスラックスだ。ほかに人影はない。何か変だ、家賃が高騰するロスト・シティで、安月給の公立高校教師が広い一軒家にルームシェアもせずひとり暮らし?

 ちら、とアーロンがこちらを見た。彼は驚きもせず、いつもの甘やかなほほえみをたたえ、ベランダに近づき、窓をあけた。

「いらっしゃい。その様子だと、パンと一戦まじえてきたみたいだね」

 バニーはボロボロになった網タイツを見下ろした。アーロンは何の警戒もなく後ろを向いて、バニーとバトラーを家へ招き入れた。

「アーロン! あんたはどういうつもりで、パンの居所をわたしに教えたの?」

「もちろん、彼自身の望みだったからだよ、バニー・ザ・リヴェンジとの対決がね。オレもこのカードにはひと口賭けてたから、ぜひ戦ってもらいたかったし」

「賭けてた……」

「そう、オレとパンはすべてを賭けの対象にしてた」

 アーロンはロックグラスを取り上げた。

「最初にチンピラに君をレイプさせるときも、パンは君の能力が覚醒するほうに、オレは君が二度と男とセックスできないほどボロボロになるだけのほうに賭けてた。それはオレの目的でもあったしね。君が自分ちの地下室のラボのことを嗅ぎまわって、学校じゅうの男と寝て調べていることを知ってたから。やっぱり単なる生ぬるいレイプだけじゃなく、二十人くらい雇って朝まで輪姦させればよかったかな?」

「あんた、うちの地下室のこと知ってるの?!」

「うん。何もかもをね」

 彼は余裕しゃくしゃくにウイスキーをいっきにあおった。

「そこで何が研究されていたのか? 誰がいったいなんのために、科学者たちを皆殺しにしたのか? 君は最初にオレのところに聞きに来るべきだったね」

「……そして、その秘密をさぐったわたしを、まっさきに再起不能にしてた?」

「そのとおり」

 彼はにんまり笑い、メガネを中指でずりあげ、グラスをテーブルに置いた。

 アーロンの言ってることは本当なのか? 十一年前、メイヤー邸から人が消えたことの真相を知っているだって?

「じゃあ、教えてくれと言ったって、簡単には教えてくれないんでしょうね」

「まあね。でも……」

 彼はいきなりバニーの腕をひいて、自分のふところに彼女を抱き寄せた。バニーは目を白黒させた。彼は言った。

「あんたの戦いぶりを見て、実を言うと、なかなか気に入ったんだ。オレの女になってくれるなら考えてやってもいいよ。わお、見ろよ。すげえオッパイだ」

 まるで子供のように無邪気に目を細めて、なんの悪気もなく胸をむにゅむにゅと揉んでくるものだから、バニーは完全に虚をつかれ、体が動かなかった。

「健康診断カード見ちゃったよ。九十五センチだって? ド迫力だな。いまはもっと育ったんじゃないか? 最近の女子高生ってのは、ポルノ女優と見分けがつかないな」

「汚い手でお嬢様に触れるな!!」

 走り出したバトラーが床を蹴った。彼はアーロンの背中に鋭いタックルを入れた。

 だが。

 アーロンは振り返り、片手をポケットにつっこんだまま、バトラーを見てニッと笑った。

「いま、何かしたのかい?」

 そんな! バトラーの膝はどう見てもクリーンヒットだった。なのに、アーロンは微動だにしなかった。軽く突かれたほどのダメージでさえ、受けているようすはなかった。

「驚いたか? そりゃそうだな。でもこれがオレの能力だ。オレの皮膚は鋼鉄でできてるんだ。銃を持ってくるか? 無駄だよ、貫通しないだろうね。ついでに、鋼鉄製だから、たとえばこんなことも……」

 アーロンはしゃべりながらバトラーと距離を置き、助走をつけて彼のみぞおちに激しい肘打ちを食らわせた。バトラーはふっとばされた。

「ぐっ……!」

「どう? 鉄のカタマリをぶち込まれたみたいだろ。しばらく立ち上がれないないんじゃないかな」

「そ、そんな……ハミルトン先生がこんな力を……こんなことって……」

 動揺するバニーに、アーロンは笑いかけた。

「意外だった? うれしいね、その顔、最高だよ。美とは裏切りだ。裏切りを知った人間の表情ほどすばらしいものはないね」

 バニーはアーロンの腹に二度三度とがむしゃらにアッパーカットを入れた、かつてブラムをぶっ倒したのと同じくらいかそれよりも強く、厳しく。しかしやはりアーロンはびくともしなかった。

 児戯を見たように彼はニッコリする。

「気は済んだ? それなら、オレのレベッカ、ここに手をついてケツを上げな」

「あ……」

 彼はバニーの腕をひっぱってマントルピースに無理やり両手を置かせた。

「そこから手を離したらお尻を叩くよ、昼間そっちからねだってきたみたいにね。おお、熟れたトマトみたいにパンパンのケツだな。エロいヒモTまで穿きやがって、男がそんなに欲しいのか?」

 アーロンはバニーのスカートをめくり、黒いTバックと網タイツをはいた大きなお尻を露出させた。バニーは唇を噛んだ。でも、攻撃がまったく通用しないなら……だったら、こいつをどう倒せばいいっていうの? 言いなりになるしかないの? 何か方法は……

 彼は網タイツの尻っぺたの部分をビリビリと破き、Tバックも掴みあげて引き裂いて捨てた。

「あっ」

「おい、動くな。ちゃんとケツをあげてろよ、オレに捧げるみたいにさ」

 もはやアーロンの瞳は冷たくぎらぎらときらめき、優男ふうの温厚な教師の面影はかけらたりともなかった。バニーは悔しかった。男となんて寝まくってるからいまさら羞恥心も何もないが、高く腰をあげて、明るいところでこんなクソ男にお尻とあの場所をじっくりと見物されるのはいかにも屈辱だった。

「そら、早くしな。それとも、この鋼鉄の手で、真っ赤な手型をいくつもつけてほしいか? あんた、そういう趣味らしいからな」

 アーロンのなまあたたかい手がいやらしくバニーの尻全体をなでさする。虫唾が走る。らしくないと思っていても、涙がにじむ。こんなチビのやせっぽちひとり倒せないなんて。本当に方法はないのか……何か、何かひとつでも……

「お嬢様……っ! お嬢様、これをお使いください!!」

 バニーは振り返った。そして、バトラーが投げてよこしてきたものを、人並みはずれた動体視力で正確にキャッチした。

 それがなんだか、一瞬わからなかった。そして、わかった瞬間、反射的に、それをアーロンの口めがけて強くねじこんでいた。

 スタンガンだった。バニーは口をゆがめて笑った。

「皮膚が鋼鉄だって? じゃあ、粘膜はどうだっての?」

 アーロンは恐怖に身をすくませ、目を見開き、がたがたと小刻みに震えていた。

「う、う……」

 と何か言いかけるが、言葉のかたちにならない。バニーは敵愾心をありったけこめて彼を睨んだ。

「よくもわたしをあんたのオモチャにしようとしてくれたな! どう、ためしにスイッチ入れてみる?」

「ついでにこちらもいかがでございましょう?」

 腹をおさえながらよろよろと少しずつ這い寄ってきたバトラーが、彼の股間にもうひとつのスタンガンを押しつけた。

「ひ、ひく、ひぐっ」

「何を言っているのかわからない」

 バニーは冷酷にスタンガンのスイッチを入れた。バチッと電撃のはじける音、肉の焦げる嫌な匂い。アーロンの体はびくんと跳ねた、かと思うと、うつぶせにぶっ倒れた。

「ウソ。スタンガンってこんなに威力あんの?」

「こんなこともあろうかと、わたくしが出力を二倍に改造しておきました」

「やだ、ちょっと、生きてる?!」

 あわててバニーはアーロンをあおむけに裏返した。白目をむいてはいるが、息はしている。彼女はウイスキー入りのデキャンタグラスを持ってきて、それをアーロンの顔にぶっかけた。彼は飛び起き、顔をおおった。

「ひっ! いい、痛い、痛い、目が、目がっ、しみるうっ」

「痛いだかゆいだ言える立場?! さっきはわたしをブラムの前でレイプしようとした大悪党のくせに!」

「そのとおりです。お嬢様をお尻ペンペンしていいのはわたくしだけでございます」

「さあ、いまこそとっとと吐きな!」

 バニーは怒りあまって彼の後頭部をヒールで蹴り飛ばした。

「あんたの知ってることって何? わたしの家に住んでた人たちは、どうしてみんな消されなくちゃいけなかったの? 答えて!!」

「……まず、あんたやオレやパンが、人とは違う能力を持っているのはもうわかってるだろ?」

「もちろん」

「その能力を『除去』する薬を作れないか、研究を進めていた女がいた。バニー・グラヴィこと、あんたの母親だ」

「お母さんが?!」

 バニーは驚愕した。

「だって、お母さんはバニー・グラヴィなのに……お母さんは、自分で自分の能力を消したかったの?!」

「さあ、それは知らない。とにかく彼女はユビキュタリ市から遠く離れたこのロスト・シティにラボを作り、極秘裏に研究を進めると同時に、私生児のあんたの素性も隠し、人目を避けて育てさせていた。だが、この研究を都合が悪いと思う男がいた……もちろん、同じ能力者だ。そいつこそ……この国の半分を牛耳るカルヴィーノ・ファミリーのなかで、ユビキュタリのヤクの流れを一手にひきうける大物幹部、『ベイビーフェイス』だ。彼はオレとまったく同じ天然の装甲を持っていて、不死身の伝説があった。もし薬が完成して自分に使われでもしたら、威信は失墜し、恐怖で人を支配できなくなる。ベイビーフェイスはそれを恐れたんだ」

「……そのベイビーフェイスが、わたしの家の研究者を……」

「そうだ。全員ラチって埋めたよ。目撃者も消すために、使用人以下、従業員もすべて殺した。ただし、ただひとり、あんただけを残した。なぜだと思う?」

「わたしは……わたしはベイビーフェイスの娘だった?」

「大はずれもはずれだ。ベイビーフェイスは人質をとったんだ。こんどまたこれ以上研究を進めたら、おまえの大事な娘を殺す、と、バニー・グラヴィを脅したのさ。すでに主要な研究内容はすべてラボから持ち出して、残ってるファイルはカスだけ。あんたがいくらあそこを漁っても脅威はなかったが、しかし、オレはベイビーフェイスの命令で、あんたを見張るためにユビキュタリからここに来てるんだから、いちおうあんたの動きは警戒しとかなきゃいけなかった」

 アーロンは胸が悪いというように顔をゆがめた。バニーは度肝を抜かれた。

「……わたしを見張るために? あんた、マフィアの手下だったの?!」

「正確には違う。……ベイビーフェイス、本名、ジョシュ・ヘンダースンは、オレの遺伝子上の父だ。いっしょに暮らしたこともないけどな」

「はあっ?!」

「つまりこの能力はまったくの遺伝だというわけだ。レベッカ、あんたとあんたのママと同じだよ」

「で、でも、そんな……信じられない。もしかして、わたしを見張るために、学校にも?」

「オレはユビキュタリ大卒だぜ。公立高校ふぜいにもぐりこむなんて、ワケない話だ」

「でも、だからって、実の息子をこんな離れた土地に……」

「オヤジはオレの忠誠心を試してるんだよ。将来は自分の跡をつがせて幹部にしたいらしいからな。オレも平凡な人間どもにまじってつまらん仕事で一生を終えるより、生まれつきのこの『能力』を使って人を支配するほうがいい。……さて、これでわかったか? あんたが今後妙なマネを続ければ、オヤジの機嫌も悪くなるだろうな……バニー・グラヴィを思い出させるようなことをすればな。スーパーヒロイン稼業はオレはおすすめしないね」

 バニーは拳を握りしめ、床に目を落とした。アーロンの話が真実なら、今夜、さまざまな謎が解けた。でも、一個だけ、まだわからない部分がある。

「……アーロン、もうひとつ教えて」

「何だ?」

「わたしの母の名前は?」

「バニー・グラヴィだろ?」

「違う。本名」

「母親の名前も知らないのか? なるほど、しょうがないな、あんたは徹底的に隠され、あらゆる脅威から守られて育てられてた……情報を与えないのもリスクマネジメントだろうな」

「教えて。母の名を知ってる?」

「さあ……なんていったかな。オレもすごく小さい頃、一回しか会ったことがないし……ああ……そうだ」

 アーロンはぱんと手を打った。

「エリカ。オヤジがそう呼んでるのを聞いたことある。エリカだよ。それ以外は忘れた」

 ファースト・ネームは、エリカ……!

 E・T・Wの、Eの部分だ。これだけでも、十七年かけて、やっと暴いた秘密だった。

「ありがとう、アーロン。でも名字やミドルネームは? なんとか思い出せない? お父さんの宿敵だったんでしょ?」

「母親の代理人に聞いたらどうだ? 金を送ってもらってるんだろ?」

「それが、一回問い合わせたんだけど、『依頼人の意向で、守秘項目は明かせません』の一点張りだった」

「パンとアーロンに襲われたと言ってみればどうだ。むこうの顔色が変わるかもな」

「あ、そ……そうかも! やった! それでいく、ありがとう、アーロン」

 アーロンはポロシャツのすそで顔を拭きながら立ち上がった。

「ただし、あんたも口裏を合わせてくれないか。あんたにやられたなんてオヤジにバレたらメンツが立たない。あんたはきょう、ここに来なかったし、ラボにも興味をなくした。オレがここでしゃべったことはすべて知らない。そういうことにしといてほしい」

「ま、できるかぎり協力するよう、覚えててやってもいい」

 アーロンは白目が真っ赤だったが、ふと濡れた髪をかきあげると、片くちびるをつりあげて笑いかけた。

「いい子じゃないか。ごほうびに、やっぱりお尻を叩いてあげようか?」

 バトラーがスタンガンをあげて、電流をバチバチとほとばしらせた。アーロンは飛び上がった。

「や、やめろ。ほんの冗談だよ」

 二人がベランダから帰ろうとしたとき、後ろでアーロンがぽつりとつぶやいたのが、わずかに耳に飛び込んできた。

「……さすが、オヤジが惚れてた女の娘だ」

 えっ?

 バニーが足を止めて振り返ったとき、アーロンはもういなかった。バスルームに行ったらしい。追いかけてつかまえて、いまの言葉の真意を問いただそうと思えば、じゅうぶんにできた。

 でも、足がすくんだ。

「……ねえ、ブラム、きょうはすごく疲れた」

 バイクの後ろで、バニーは……レベッカは、思いきりブラムの大きな背中に抱きついた。

「真実を知ることって、いいことばかりじゃないね。真実を背負う覚悟も、必要になる……。お母さんは……、お母さんは……」

 涙がにじむ。

「お母さんは……マフィアなんかの愛人だったの……?」

「考えても答えが出ないことは、考えないようにしたほうがおよろしいかと思われます、お嬢様」

「そうね。そうだね」

「もしお嬢様が、真実と向き合えるそのときが来たら、お母様の代理人に電話しましょう」

「電話する……あしたの朝いちばんに。B&W事務所だよね? なんの略だっけ?」

「ボグダーノフ&ワインスタイン法律事務所でございます。ユビキュタリのチャイナタウンに居を構えている模様です」

「ああーんっ! そこっ、そこっ! 最高~~~っ!!」

 全裸で腰をタオルで隠しただけのかっこうでうつぶせになっているレベッカは、オイルでぬるぬるになった太ももをブラムにマッサージしてもらって、絶頂のさなかにいた。

「いくいくっ!! 天国いっちゃう~~~」

「きょうはとてもお疲れになったでしょうから、ごゆっくり満喫くださいませ」

「もっと、もっと上のほう~」

「ここよりもっと上というと、お尻になります」

「そう、お尻だよ、いいじゃない、そこを思いきり……」

「ところでお嬢様、くだんの悪徳教師が口にした件でございますが……」

「んぅ?」

「あの男は言いました。昼間、お嬢様がかの男に、お尻ペンペンをねだったと……」

 レベッカはさっと顔を青くした。

「そ、そんなこと言ってた?」

「はい。たしかにわたくしはそう聞きました」

「う、うーん、まあ、その場のノリみたいなもので……」

「さようでございますか」

「……ちょっと喜ばせようとしただけだよ」

「さようでございますか」

「怒った?」

「いいえ、まったくもって、少したりとも」

「もう、ゴメンってば!」

 レベッカは飛び起きて、すっ裸のまま、ブラムにすがり、抱きついた。

「そう、わたしは浮気した、ブラム以外の男にお尻を叩かせようとした! わたしは悪い子! ねっ、ねっ、だからおしおきして!」

「さあ、今夜はわたくしももう疲労いたしましたから、つぎの機会までとっておくことにいたします。覚えておくことができたならのお話でございますが。もう遅いですから、今晩はそろそろお休みなさいませ」

 ブラムは無慈悲に濡れタオルで両手を拭いた。レベッカはさらに体面も何も捨てて彼にすがった。

「やだ、やだ! お願い! いま、して! いま、叩いてよ~」

「おやすみなさいませ、お嬢様」

 翌日、学校に遅刻することにしたレベッカは、九時きっかりに、モバイルフォンから電話をかけた。ツーコールで、相手は出た。心臓が止まりそうになる。

「はい。こちらはボグダーノフ&ワインスタイン事務所でございます」

 初老とおぼしき男の声だった。少し意外だった。若い女の秘書なんかが電話をとると思っていたから。

「は、ハーイ……どうも……わたしの名前は、レベッカ・ヴァイオレット・メイヤーです」

 沈黙。

「い、いえ、あのぅ、わたしの母がそちらの事務所と契約しているはずなんです。そちらの事務所を代理人として、わたしの家に送金しているはずなんです、調べればすぐわかると思うんです、エリカなんとかっていうお母さんなんですけど……」

「それで……」

 しゃがれた男の声が、低く言った。

「本日は、どのようなご用件で?」

「あ! そ、その、わたし実は、そのお母さんと連絡がつかなくて……なんとか名前とか、連絡先を教えていただければと……」

「あなたの母親についてのすべての事項は、依頼人の希望により秘匿されています」

 彼はこんどは、やけにはっきりと言った。

「それはわかっています、……でも、彼女に伝えてください。わたし、パンとアーロン・ハミルトンに襲われました」

「なんだって?!」

 電話口の男が声を荒らげた。レベッカはソファに横たえた身をびくっと飛び上がらせた。

「と、とにかくそうなんです、そのように母に伝えてください」

「……数日中に……いえ、本日中に、また、折り返しお電話をいたします、ミズ」

「あ、待ってください、だれに話したってことがわかるように、念のためにあなたの名前を教えてください」

「私の名前は、……ヒース・ワインスタインです。それでは、失礼します」

 ワインスタイン? 事務所の名前と同じだ。彼が共同経営者なのだろうか。

「アポが取れそうですね。いまからでも学校にまいりましょう」

「う、うん、まだわかんないけど」

 サボろうと思っていたけど、このようにブラムにうながされて、けっきょく学校に送られていってしまった。

 昼休みの体育館裏でフィリップに、昨夜のできごとのあらましを話した、ただしアーロン……ハミルトン先生をブチのめたくだりだけは巧妙に編集した。フィリップが彼女の冒険譚を興味深く聞いていた、そのとき。

「レベッカ」

 またハリーだ。レベッカは遠慮もなく舌打ちする。

「またあんた? ストーキング?」

「きみに用事がある、レベッカ」

 と言いつつ、ハリーは刺すような視線をフィリップに向けた。フィリップは激しく狼狽したように目をきょろきょろさせた。

「……おれ、トイレ行ってくる」

 彼は逃げるようにその場をはずした。この弱虫! 守ってくれたっていいのに! これだからジョックを前にしたナードは……。

 ハリーは真剣に眉を寄せて、両手をポケットに入れ、レベッカを見つめていた。

「用ってなに?」

「あのさ。うちの夕食に来てくれないか?」

「はっ?」

「ぼくの両親が心配してるんだ、きみのこと。あんなこともあったし」

「あんなことって?」

「ハロウィンの夜……」

「ああ、それね。忘れてた」

「きみはいつも強がりだね」

 レベッカは鼻で笑った。そう思っていたきゃ、思っていればいい。

「それに、きみに両親がいないことも、うちの親は知ってる。ウチはそっちと違って中流家庭だけど、心のこもったもてなしならできるから、ぜひにって言ってるんだ」

「ふーん……親御さん、まだわたしたちが付き合ってると思ってるの?」

「……言い出せなくて。それに、ぼくだってまだ、ぼくたちが完全に終わったとは思ってない」

 まあ、なんてかわいそうなヤツ。かわいそうすぎて、なんだか哀れになってきた。

「ハリー、きょう、大事な電話がかかってくる予定があるの。もし夕食の途中にそれが来たら、それで中座してもいい?」

「もちろんだよ」

「じゃ、行く」

 そういうわけで、学校が終わったら、彼の車で家までいっしょに行くことになった。ハリーの母親たるや、たっぷりと恰幅がよく、絵に描いたような善良な白人の専業主婦だった。彼女はクッキージャーからチョコチップクッキーを皿に並べて出してくれた、わお! メイヤー邸では、太るからとブラムが月に一回しか許さないごちそうだ。二人の弟もレベッカにあいさつしてくれたが、ハリーと同じでヒネたところがなく礼儀正しい。口ひげをたくわえたお父さんが帰ってきたら夕食だ。食前のお祈りはなし。文字どおり山盛りのサラダをみんなで取り分け、手作りのパンとミートボール・スパゲティを三兄弟がひっきりなしにおかわりする。ハリーの母も父もハロウィンの事件には直接触れなかったが、それとなくレベッカの様子をさぐり、彼女が元気かを気にかけてくれた。

 こう言わせたいのだろう、とわかっていた。それでも彼女はハリーが家まで送ってくれる車のなかで、言っていた。

「ありがと、ハリー。家族っていいね」

「そうだろ?」

 望みのかなった彼は喜色満面だった。

「これからもちょくちょく来てよ。みんな喜ぶ。ウチは女の子がいないから、花が咲くみたいでさ……。母さんもきっと、本当の娘みたいに思ってくれるよ」

「やだ。それがプロポーズの言葉?」

 ハリーは照れ笑いをした。

「そんなんじゃない。プロポーズするんなら、もっとマシな言葉で言う」

 彼は旧グランド・サイブリー・ホテルの車どめに駐車し、ナチュラルブラウンの虹彩でレベッカを見つめる。ブラムがやってくる、と思いながらも、彼女はキスに応じていた。

 モバイルフォンが鳴った。即座に取り出す。B&W事務所の番号だ。

「ごめん、ハリー、今夜はありがと! おやすみ!」

 ブラムが開けてくれた車のドアから飛び出し、レベッカは電話をとった。

「ハロー、ハロー、ハロー!」

「ハロー、こちらはボグダーノフ&ワインスタイン事務所の……ボグダーノフと申します、はじめ……まして」

 彼女は立ち止まり、心臓に手をあて、心を落ち着かせた。違う。男だ。母親じゃない……。

「ああ……はじめまして、ミスター・ボグダーノフ」

「僕が、あなたの母親の代理人をつとめております、バイユウ・ナム・ボグダーノフです。話は秘書から聞きました。僕からお伺いします。あなたからお母様へのご用件はどういったものですか。どういったご理由で、お母様とご連絡をとりたいのおっしゃるのでしょう?」

 レベッカはごくりと息をのんだ。

「……話が通ってるでしょう? わたしは、パンとアーロンから襲われた。それで充分じゃない?」

「充分であるとは?」

「二人の能力を知ってる。そして、この自分のも……。この建物で行われていた研究のことも知った。説明してほしいの。この力ってなんなのか、どうしてそんな研究をしてたのか。何より、わたしはお母さんに会いたい。子供がお母さんに会いたいと思うのはそんなに変?」

「なるほど。説明が必要ということですね。少々お待ちください」

 ボグダーノフは、機械みたいに融通がきかず、抑揚のない中国なまりでしゃべり、ためらいなく電話を保留した。

 保留があけた。

「お待たせいたしました。あすの午後四時にならそちらのお宅へうかがえます。それでよろしいですか?」

「えっ?! そんなにすぐに……」

「ご都合は悪いでしょうか?」

「い、いえ。お待ちしてます」

「出迎えはいりません、ご住所なら知っていますから。それでは、あすにお会いしましょう」

 レベッカはふらふらと、旧ロビーのソファにお尻をおろした。

「代理人はなんとおっしゃいましたか」

 とブラムがアイスティーをテーブルにのせながら。

「あした……あした、来るって」

「さようでございますか? あしたすぐに?」

「うん。信じられない。こんなにずっと会えなかったのに、あした、お母さんに会えるなんて!」

 レベッカはブラムを抱きしめた。このときばかりは彼も、いとおしげにレベッカを抱きしめてくれた。あの冷酷なブラムが!

 翌日彼女は、なるべくいい子に見えるような、レッド・ヴァレンチノのおとなしめの青いワンピースを選んだ。いつもみたいにピチピチにきついキャミソールにミニスカなんてビッチ丸出しの服を見たら、お母さんは嘆くかもしれないから。十三歳の誕生日にブラムに贈られたエルメスのバングルを右手首に添えた。

 学校の授業は頭に入らなかった。信じがたいほど時間はのろのろと過ぎていった。帰ってきたレベッカはベッドに横たわって、ドックにプレイヤーをさしてロックの音楽をかけ、ほかには何もしなかった。

 四時を十分過ぎたころ、部屋にそなえつけの電話が鳴った。

「はい!」

「お嬢様、ミスター・ボグダーノフがお見えでいらっしゃいます」

 来た! レベッカはエレベータを使わず階段を駆け下りた、そっちのほうが早いから。

 午後から雨が降り出していた。

 ボグダーノフは旧レストランの奥の、中庭がいちばんよく見える席にすわって、窓の外を見つめていた。中庭は小さく簡素なものだし、秋を迎えて葉を落としはじめているが、いまも庭師が通ってきてよく手入れされている。こんなときのために。

 ボグダーノフが振り返り、そして、立ち上がった。名字はロシア人ふうだが、顔だちは東洋人に近い。そういえばバイユウという名は国籍がわからずどことなくエキゾチックである。黒髪にはいくぶん白髪がまじっているが、顔の若さから、年は四十代くらいか、ひょっとして三十代にも見える。仕立てのいい、しわひとつないグレーブルーのスーツに、ぴかぴかの革靴。

 彼はレベッカを見てまぶしげに青い目を細め、しばらく彼女を見つめていた。レベッカが歩み寄ると、あわてて右手を差し出した。

「バイユウ・ナム・ボグダーノフです。ミズ・メイヤーですね?」

「はい、はじめまして」

 二人は握手した。ボグダーノフは感慨深げにその手に強く力をこめた。

「とてもなつかしいです。小さいあなたに会ったことがあるのです。なつかしいのに、なんだか、きのうのことのようだ」

「本当ですか?!」

「ええ。生まれたばかりのあなたを抱きました。出産に立ち会いましたから。生きているのが不思議なくらい、とても小さかったですよ」

 彼はまだ手を離そうとしない。大きな手で、いとおしげに、レベッカの手を包んでいる。もしかして。

「……それって、もしかして、あなたはわたしの……父お……」

「お父さんではありえませんよ」

 彼は少し笑った。そして手をやっとひっこめた。

「本当に? 万にひとつも?」

「はい、万にひとつも」

「おふたりとも、椅子におかけください」

 ブラムがお盆をもってやってきた。

「紅茶が入りました。『プリンス・オブ・ウェールズ』でございます。お嬢様のほうはハチミツ入りです」

「待って、でも、ミスター・ボグダーノフ、わたしの母は……」

「お母様は来られません」

 彼は急に法律家の顔に戻って言い渡した。

「お母様は契約に基づき、ご自身についての情報の一切を秘匿することを希望しています」

「そんな……でも! きのうは何もかも説明してくれるって……」

「はい、可能な範囲ならあなたの知りたいことについて説明をするよう、お母様に許可をとりました。僕がここにいるのはそのためです。お母様をここによこすと僕は言いましたか?」

「そんな、……そんな話って……」

「おふたりとも、おかけください」

 とブラムが口をはさんだ。

 レベッカは悄然と椅子にすわった。ボグダーノフもそうして、表情もなく足を組んだ。申し訳なさそうにも思っている様子もない。弁護士って、みんなこんなに面の皮が厚いのだろうか? 赤ちゃんのわたしを抱いたとすら言ったのに! レベッカは紅茶に口をつけたが、ボグダーノフは考え事をするように雨のしたたる窓のむこうを見つめて、ティーカップに手をつけなかった。

「それで……」

 とボグダーノフ。

「ミズ・メイヤー、あなたはパンとアーロン・ハミルトンに襲われたのですね? おけがはありませんでしたか?」

「どうせ、わたしの能力を知っているんでしょう? だったら、返り討ちにしてやったことくらい、想像つくでしょ」

「それもそうですね。安心しました」

「安心なんてしないで! あなたとお母さんのせいでわたしは何も知らないまま、危険にさらされたんだから! さあ、教えて。この能力って何? お母さんはどうしてこの能力を除去する研究をしてたの?」

「あなたの生まれもった能力は、生まれもった能力としか言えません。あなたのお母様の『一族』は、すべておのおの個性的な何かの特殊能力を持って生まれるとしか言えないのです」

 ボグダーノフはあいかわらず涼しい顔だった。

「『一族』?」

「そうです。正確には、いまは亡きおばあ様であるT・ミアの『一族』といったほうがいいでしょうか。おそらくT・ミアの遺伝子が、『何か』を持っていたのです……。T・ミアから生まれた人間とその血をひく者たちは何らかの特殊な力を持ち、いまのところ例外は観測されておりません。それに気づいたT・ミアは、父親を変えて子供を大量に産み、捨ててはまた産むのを繰り返しました。成長した彼らがお互い殺しあい、おそらくは社会に混乱をもたらす光景を期待して。よって……たとえば、これはもう知っているかもしれませんが、ベイビーフェイスとパンはお母様の種違いの兄にあたります。それぞれはじめて会ったのは大人になってからですが。そして、となるとアーロンは甥にあたりますね」

「種違いの兄?! じゃあ、わたしとは……」

「そうです、彼はあなたの伯父です。そして、アーロンはいとこです」

「じゃ、じゃ、じゃあ……つまり、わたしって伯父さんと……」

 血の気がひいた。『ウッドペッカー』のVIPルームでの、熱い情事を、それはそれは鮮明に思い出して……。なんてことだ、つまり、これって近親相姦!

 鉄の仮面のボグダーノフの眉がぴくりと動いた。

「伯父さんと、何ですか?」

「あ、いや。それは……つまり、ほら、伯父さんとあんなに外見が違うのに血がつながってるんだな、みたいな……」

「あなたはお母様とそっくりです。ウソが下手なところが」

 そして、頭をかかえて、盛大にため息をついた。レベッカはごまかそうと必死に言葉を重ねた。

「待って、待って、待って! でもあいつは、お母さんとファック・バディだって言ってた。それだって近親相姦じゃないの?! 種違いって言ったって、兄妹で……」

「それに関しては、僕が申し開きをする立場にはありません。文句ならお預かりしますので、お母様に伝言しておくこともできますし、もしくはパン本人をしめあげたらいかがでしょうか」

 ボグダーノフの眉間のしわが、くっきりと深くなっていた。どうもまずい話題だったらしい。

「話を戻します。かんじんの、お母様が極秘に研究を進めていた件ですが……」

 彼はやっと紅茶に口をつけた。

「目的は二つです。まず第一は、もちろん、あなたのためを思ってです。これまで観測された例から、あなたがお母様と同じ超人的運動能力を持って生まれたのは明白でした。あなたがそれを利用しなくても、だれか第三者があなたを利用するかもしれないし、安全な生活をおびやかされるかもしれない。そのときあなたが普通の人間として生きる人生を選択できるために、能力を除去する方法を開発していたのです。もうひとつは、あなたのように、これから生まれてくる『一族』の子供たちの未来のためです。有用な能力を持って生まれてくる子もいます、ですが中には、あのパンのように、奇形的な外見で生まれたがために人格を破綻させた男のような例も。そういう子供を救うためでした」

「……でも、ベイビーフェイスはそうは思わなかった」

「そうです。彼はまるで、エ……お母様が、自分を去勢するメスを砥いでいるようにしか思えなかったのでしょうね。彼は根からの悪人というわけではありません……いえ、そんな人間などどこにもいないのかもしれません。しかし、例によって、彼は権力に目がくらんでいました」

「そして、みんな処刑した?」

「そうです。あなたを人質として残して。……このとき、お母様とベイビーフェイスは、決定的に道を違えました。あの二人は……僕にとって……」

 彼は目を閉じて、眉間を揉み、そしてすぐその動作をとりやめた。

「いいえ、なんでもありません……。これでわかったでしょう、お母様が、どんなにかあなたのことと、あなたの親戚のことを気にかけていたか。あなたに正体を明かせないのも、少しの情報でも与えたら危険がせまることをおそれてのことです。ことに、あなたの母親は有名人です。年中パパラッチに追い回されて、そんな生活を娘に強いたくなかった彼女は、あなたを秘密裏に出産し、その存在も明かさなかった……お母様を恨まないでください、どうかご理解ください、最後のひとかけらまで、すべてのあなたのためであったことを。彼女はあなたを心から愛しているのです」

「でも、わたしはもう、母親がバニー・グラヴィだったっていうことと、ファーストネームはエリカだってことを知ってる!」

 レベッカは立ち上がった。

「わたしはもう強い。自分にふりかかる火の粉は自分で振り払えるようになった。教えて。いまこそ……わたしのお母さんの名前を、いま!」

「……あなたは本当に大きくなりましたね、レベッカ・ヴァイオレット」

 ボグダーノフは、ふと、わずかにやさしく目尻を下げた。

「ごぞんじでしょうか。ヴァイオレットというのは、僕が提案した名前なんですよ」

「え?! 本当に?」

 話をうまくそらされたのに、レベッカはそれにのってしまった。

「はい。でもエリカは、レベッカのほうがかしこそうだからいいと、そちらのほうに。ミドル・ネームとはいえ、僕は実は、あなたのゴッド・ファーザー(名づけ親)なんですよ」

 レベッカはどきんと心臓が疼くのを感じた。ファーザーという単語を聞いた瞬間に。心のどこかで、この立派な紳士が自分の父親であってくれたならと思っていた。胸に手をいれられてその願望をわしづかみにされたみたいに感じられた。

 頬を熱くするレベッカとボグダーノフは、しばらく見つめあった。ほんの数秒であったと思うが、レベッカにはずいぶん長い時間に思えた。彼は言った。

「もう少し、そばで顔を見てもいいですか?」

「えっ? ああ……はい」

 彼は立ち上がり、レベッカの前に寄った。ロシア人だとしたらの話だが、そのイメージどおりに身長が高く、レベッカをよく見るのに背をかがめなくてはいけなかった。彼は恋人にするように彼女の頬に手をそえた。

「本当に、立派に育ってくれました」

 彼は目を細めた。こんどはつらそうに。苦痛を感じているかのように顔をゆがませ、うなだれた。

「あなたを見た瞬間、エリカとはじめて会ったときのことを思い出しました。あなたのようにとても美しく、凛として……」

 ボグダーノフは顔をそらした。

「……エリカは何かから逃げるように仕事に打ち込んでいます。いまは世界じゅうをまわって、講演と慈善活動を。でも、つねにあなたのことを気にかけて……僕は……」

 レベッカは驚いた。彼はレベッカをゆっくり抱きしめていた。非常に遠慮がちに、ミドルティーンの少年のように臆病に。

「あなたは……本当にエリカにそっくりだ」

「お待ちください、ミスター・ボグダーノフ」

 ブラムが声を張り上げ、ボグダーノフが頭をあげた。

「あなたはお認めになるのですね、ミスター。お嬢様のお母様の名前がエリカであることを」

「ええ。もう知っているのでしょう?」

「あなたの事務所の共同経営者の名前を調べました。彼女の名は……エリカ・タミオカ=ワインスタイン」

 レベッカは声を失った。その頭文字はE・T・Wと一致する!

「かつて天才弁護士と名を馳せた才媛です。あなたは彼女とともにいまのB&W法律事務所を設立しました。そうですね? 彼女がお嬢様の母親でいらっしゃるのでしょう?」

「イエスともノーとも言えません。依頼人についての一切の情報は秘匿……」

「わたくしではなく、お嬢様の目を見ておっしゃってください」

 ブラムは鋭く言った。

「そして、法律家としてではなく、ひとりの人間としてお答えください。いまのお嬢様の目を見て、なおも、お母様の素性は明かせないと、そう言えるのですか?」

 ボグダーノフは言われたとおりにレベッカの目を見つめた、苦しげに。そして、顔をおおうと、表情を見せることをいとうように背中を向けて、言った。

「……そのとおりです。あなたの母親の名は、エリカ・タミオカ=ワインスタイン。四十歳の弁護士です。その数々の業績のすべてをグーグルが教えてくれるでしょう。そして、これはもちろん彼女の秘密ですが、バニー・グラヴィの正体は彼女です。もっとも、あなたを妊娠してから彼女はスーパーヒロインをやめました。それに、もう二百五十年も過去の話ですから、バニーの正体だなんて、いまさら誰も興味を持たないでしょうが」

「そ……それじゃあ、教えて、ミスター・ボグダーノフ!」

 レベッカは彼の腕をとった。

「父親は? わたしの父親はだれ? パンでもベイビーフェイスでも、そしてあなたでもないんでしょ? そしたら、いったいだれなの?」

 ボグダーノフは、この緊迫した場に似つかわしくないほほえみを浮かべた。諦観したようとも、晴れがましいともとれるほほえみだった。

「それさえ彼女が教えてくれたら、あのときどんなに、僕は救われたか」

 レベッカもブラムも、何も言えなかった。

「ええと、たしか、ブラムといいましたか? すみませんが、この近辺のホテルで、今晩の宿をとってくれませんか? まだ予約をとっていないんです」

 ブラムはすぐさま答えた。

「ホテルでしたら、ここにございます。すでに夕食もお嬢様とあなたと、二人ぶんを仕込み中です」

「ありがとうございます。大変、痛み入ります」

 向かいあってディナーをとりながら、レベッカは失礼かと思いつつ、ボグダーノフに聞いてみた。

「あのう、ミスター・ボグダーノフ……」

「僕のことは、ぜひバイユウとお呼びください」

「ああ、ありがとう、バイユウ……ねえ……あなたも、母の……『ラ・マン』(情夫)だったの?」

 彼はニッコリした。

「それよりは少し上だったと信じたいですね。僕たちは少なくとも、驚くべきことに二ヶ月もの間、恋人どうしでいました」

「ご、ごめんなさい。そう。母の彼氏だったんですね」

「ええ、そうですね……彼女が僕を捨ててからも、僕たちは絶交などもせず、人より仲がよかったと思います。なつかしい話ですが、彼女は僕をBFFFBだとも言ってくれました」

「BFFFB?」

「『ベスト・ファッキン・フォーエヴァー・ファック・バディ』です」

 バイユウは白ワインを傾け、夜露に濡れた夜の中庭に目をやった。

「知りませんでした。永遠がこんなに短かったとは」

 その夜、レベッカはパジャマ替わりに使っている、バナナ・リパブリックのお尻がすっぽり隠れるXLサイズ・タンクトップに白いパーカーを羽織って、バイユウの休む部屋のドアを数回、ノックした。

「どうぞ」

 と声がした。

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