137「トレインソフトウェアの異変」

 ボロ車を駐車場に停めて、ダイゴはトレインソフトウェア本社を訪れていた。

 さすが世界一の企業と言うべきか。社屋は、薄汚れた建物の多いダイクロップスでは、数少ない見た目の美麗さを誇る。

 側面に巨大なパネルが二枚ほど設置されているのが特徴的だった。一枚目はラナクリムのゲーム映像を、もう一枚はその他サービスの宣伝映像を垂れ流し続けている。現在は新規アップデートの内容が告知されているところであった。

 ゲーマーならばつい足を止めて見上げてしまいそうなところ、しかしダイゴの興味は一切そこに向いていなかった。


 彼は戸惑い、立ち尽くしていた。

 クソンの足取りを追ってみれば。明らかに様子がおかしい。


「おいおいおい。どうなってんだよ」


 平常は赤バッジ――レッドドルーザーの警備員が立ち、一般の者には固く閉ざされているはずのエントランスは。

 どういうわけか、しんと静まり返っていた。しかも、不気味にもガラス戸は開け放たれたままになっている。


「がら空きじゃないかよ」


 目の前の光景がとても信じられず、もう一度電話の画面――発信場所に目を凝らす。

 間違いない。クソンはこの中にいる。少なくとも電話は向こうにある。


「入っちまっていいのか……?」


 普通に考えるといいわけがない。ないのだが、今彼を止めるべき者は誰もいなかった。

 だが、勢いのまま一歩を踏み出すほど倫理の欠落している彼ではなかった。これが『ヴェスペラント』フウガならば「一向に構わん」としたところだが、現実の彼は何の力も持たない一般人である。

 さすがに危ないのではないか。よすべきではないか。彼の中の良識的な部分が、一度は咎めようとした。

 彼はしばし逡巡した。リスクと興味を天秤にかけて、真剣に悩んだ。

 そうして、結局は興味が勝った。世界一の会社の中を拝めるチャンスなど、今この時を逃せば二度と来ないだろう。

 もしや高値で売れる機密情報が見つかるかもしれないし、クソンの野郎を失脚させるチャンスかもしれない。

 自らの野次馬性分にまったく呆れながら、彼は覚悟を決めて足を踏み入れていった。


 このとき、確かに彼は覚悟を決めた。決めたつもりだった。


 やはり誰もいないエントランスを越えて、上の階へと繋がるエレベーターを見つけたときには、彼の覚悟は早くも折れそうになっていた。

 エレベーターのドアが。分厚い金属製の扉が。力任せにねじ開けられていたのを目にしてしまったからだ。


 間違いない。彼は思った。

 事件だ。事件が起きているぞ。


 経緯はさっぱりわからないが。何が起きているかはわからないが。

 とにかく、同期の上司は世界一の大企業へ入り込み。そして事件が起きている。


 唐突な非日常が突き付けられた。まるで緊急クエストだ。

 面白い。恐ろしい。

 彼の破滅的な部分と、良識的な部分とが衝突して。

 また一度は後者が勝り、腰が引けた。


 警察を呼んだ方がいいだろうか。

 いや、それはできない。

 そんなことをすれば、会社に無断で入った自分も捕まってしまう。

 それに、レッドドルーザー擁するトレインソフトウェアに任せておけない案件ならば、一介の警察ごときに対処できるとは思えない。


「ええい。ままだ!」


 一度行くと決めたのが引っ込み付かず。

 半ばやけくそになって、目に付いた階段に向かって彼は駆けた。



 ***



 一晩をホテルで寝て過ごしてから、次の日、昼頃にトレインソフトウェアへ向かった。

 もちろん人の多い時間帯に忍び込もうというつもりではなかった。とりあえず下見をして、実際の作戦決行は深夜を回ってからのつもりでいた。

 そのつもりだったんだけど……。

 トレインソフトウェアに着いてみると、明らかに様子がおかしかった。


「警備員が、いない……?」

「どういうことだ」


 とりあえず中の様子を探ろうと、気力探知と心探知を併用して。


「ん?」

「どうした。ユウ」


 人の生命反応が、ほとんどなくなっている……。

 みんな揃って出かけたわけはないだろうし。

 それになんだ。やばい奴がいるぞ。

 この突き刺すような悪意の塊は。堂々とひけらかして、隠そうともしない力の高まりは。

 トレヴァークでは初めて見るレベルだ。今まで相手してきた連中とは、比較にならない。

 嫌な予感がする。何かが起きているんだ。


 まさか――。


 恐ろしい可能性に気付いて、戦慄する。

 みんな、殺されたのか……? こいつに。

 もしそうだとしたら、なんてことを!

 ちょっと調べ物をしようとしたつもりが、大変なことになってしまった。


「……シズハ。予定変更だ」

「……なに?」

「とんでもなく強い奴がいる。君はバイクに乗って今すぐここから離れてくれ。そして――」


 そう言った途端、シズハの目は非難の色を示し、唇は悔しげに歪んだ。


「私は、足手まといと……?」


 違う。

 確かに純粋な戦闘力という意味では、「戦いを避けるべき」ということはある。

 俺だってそうだ。どれほど鍛えたところで、本当に強い奴らの前では霞んでしまう。

 でも、力だけじゃない。人にはそれぞれやれることがある。いるだけでも力になることだって。

 だから俺は、そんな優しくない言葉を使いたくはなかった。気持ちの問題かもしれないけど、大切なことだ。

 首を横に振る。


「そうじゃない。他の店員と協力して、人払いを頼みたいんだ。会社に人を近づけないようにして欲しい」

「そう、か。中々難しいことを、普通に頼むんだな……」


 人を近づけないということは、警察やレッドドルーザーの増援も止めるということを意味する。厄介な仕事だと思う。

 彼女は困った顔をしたが、もう怒ってはいなかった。


「少しの間でいい。頼む。やれそうか」

「やるしかない、わけか」


 俺が真剣なのを見て、シズハは渋々頷いてくれた。ありがたいことに、直ちに行動に移してくれた。

 バイクで走り去っていく彼女の後ろ姿を見つめながら、申し訳なく思う。

 無事に済んだら、何か奢ってあげよう。

 ……無事に済んだら、な。


『さて』

『何が出てくるか……』


 考え過ぎかもしれないけど、最悪の可能性を考えて先手を打っておいたが。


 この心配が杞憂でなかったことを、すぐに思い知ることになる。



 ***



 ダイゴは、好奇心に導かれるまま、なけなしの勇気を振り絞りつつ、階段を上へと進んだ。

 人だけがごっそり消えてしまったのではないかというほど、不気味に静まり返る社内に、ますます不安を募らせながら。

 代わり映えのしない階段風景が、延々と続いていたが。

 やがて、違いを見た。恐ろしいものを見つけてしまった。

 それが目に映った途端、彼は身震いした。

 そしてまた、後悔が襲ってきた。何度目だろうか。


 血だ。

 どす黒い血の跡が、床にべったり張り付いて、向こうへ続いている。

 明らかに、人が死ぬ量。


「なんだよ。クソッ……!」


 自分自身意味もわからず、悪態を吐く。

 ここ数日は、おかしなことばかりだ。

 現実はつまらないと言っておきながら。いざ非日常を前にして、情けなく狼狽えるばかりの自分がいる。


 こんなの、しょうがないだろう。実際見てしまったら、想像以上にもほどがある。


「こんなはずじゃ、なかった」


 ただ、クソンの弱みを握ってやろうとか、それこそクソみてえな、小さなことを期待していただけなんだ。


 ――もう、無理だ。引き返すべきだ。まだ戻って、最悪侵入がばれて捕まった方がマシだ。


 理性と良識は、声を大にしてそう言い続けているのに。

 なぜだろう。なぜなのか。

 ふらふらと足は前へ進んでいく。

 まるで怖い者知らずのように。本物のフウガのように。

 戦場にも似た緊迫感に、この異常な空気に、狂ってしまったのだろうか。


「ああ……」


 やがて、彼は人の姿を見つける。

 彼の予想通りに、血塗れで、息も絶え絶えで。白いモップは真っ赤に染まっていて。

 しかし、まだ生きていた。彼と同じ中年の男だった。


「おい、あんた。大丈夫か……?」


 怖くて仕方がないが、生きているとなれば、人並みほどではないが、心配もする。

 日頃悪態吐くとは言え、彼も普通の人間の範疇ではあった。

 弱々しく声をかけたけれども、社員と思しき男は気付かない。

 目の焦点が合っていなかった。

 しかも、ダイゴの声を聞いた途端。

 男の肩が、釣り竿にでもかかったようにびくんと跳ね上がる。

 血が流れ出ている頭を、さらに強く掻きむしって。男は喚いた。


「ひいいぃぃぃぃぃ! 僕たちは、何も知らないんだ……!」


 脅されていると、勝手に思い込んで。

 社員と思しき男は、ひどく錯乱していた。


「本当なんだ! ただ、上の言われた通りにッ! ディスクを焼いてるだけなんだ!」

「お、おい。落ち着け。何を、言ってるんだ。おい……」


 理解が追いつかない。何もかもがわからない。

 やばい気だけはする。できるなら落ち着かせたいが、恐怖で身体が動かない。゛

 すると、男は今度、掻きむしっていた頭を押さえ出した。


「あつい! いたい! あつい! いたい! いたいいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたい!」


 熱さと痛みを、しきりに訴え続けている。

 ダイゴはしかし、どうにもできなかった。

 もうなんだってんだ。自分こそ泣きたい気分だった。

 そしてついには、男は半狂乱になって、壁を頭にぶつけ始めた。

 何か、見えてはいけないものが見え、零れてはいけないものが零れている。このままでは――


「やめろっ!」


 これ以上はまずい。とにかくダイゴは、祈るように叫んだ。


 そして――


 そして、突然だった。



 ボンッ!



 頭が、弾けた。ポップコーンのように。


「な――」


 びちゃり。びちゃ。びちゃ。


 中年男だったモノは、脳漿と血を大量に床へまき散らして――


「な、な……」


 現実なのに、現実感がなかった。

 脳が理解を拒否しようとする。彼は目を背けようとして、かぶりを振った。

 口を開けたまま、立ち尽くし――しかし、立ち込める悪臭と、嫌でも網膜にこびり付くイメージからは逃れられるはずもない。

 否応なしに、理解させられた。


 叫ぶこともできなかった。

 ただ、猛烈に吐き気が込み上げてきて、その場で吐いた。


 涙とゲロと血と脳みその混じる世界が、広がっていた。


 ――どこだ。ここは。どこなんだ。


 昼まで俺のいた場所と、本当に同じ世界なのか……?


 誰か。俺が悪かった。

 許してくれ。時間を戻してくれ。夢だと言ってくれ!



 そのとき、下の階では、何かと何かがぶつかり合う音が断続的に続いていた。

 音の呼吸から、誰かと誰かが激しく戦っている音だということに、気付ける者ならばすぐに気付いただろう。

 だが、この場には焦燥し切った中年男が一人いるだけであった。

 このままいけば、遠からず戦闘の余波に巻き込まれるなりして、彼は多くの社員と死の運命を共にすることとなるだろう。


 そうなるはずであった。

 しかし、何の因果か。彼の運命は、さらに展開を迎えるのである。


 この上ないパニックと後悔に苛まれ、力なく項垂れているダイゴの前に、何者かが悠然と歩いてきた。随分と上機嫌で。


「いやはや。ほんの少しばかり誘導しただけだというのに、まさかたった一人で、ここまでやってくれるとはね。想像以上だったよ」


 人形のように整った顔と、柔らかく散らかした銀髪。モデルのごとき立ち姿に、冒険者スタイルをやや現代風にアレンジしてみましたとでも言うような奇抜なファッションは、まるで世界を一つ隣に間違えてしまったかのようだ。


「くそったれ……。今度は、なんなんだよ……」


 実は、本当に夢なんじゃなかろうか。

 若い銀髪の男に気付いたダイゴは、妙な期待を持たせられつつ、投げやりに視線を向けた。

 彼の顔を見た途端、ダイゴは、不思議と見覚えがあるような気がした。

 夢で――ラナソールで見たような。マジで夢だな。これじゃあ。

 銀髪の男もまた、汚物塗れのダイゴに気付いて、軽く鼻で笑った。普段ならむっとするダイゴであるが、このときは何も気にする元気がない。

 銀髪の男も、小物には用などなく、軽く通り過ぎるところであった。

 だが二目見た途端、彼の瞳には興味の光が宿った。そして言った。


「おや? 君、『素質』があるようだね。こんなところで『素質持ち』を見つけてしまうとは。なんという偶然だろうか」

「『素質持ち』だあ……?」


 まさか自分のことを言われているとは思わず、ダイゴはほとんど呆けたまま、素で問い返してしまう。

 銀髪の男は、さらにしげしげとダイゴを眺めて、にやりと笑った。


「いいね。よく見れば、実にいい顔をしている。現実に疲れ切ったって、そんな眼をしているな」

「人のこと、わかったみてえによ……」


 ダイゴは細い声で悪態を吐きつつ、内心投げやりに同意していた。


 確かに、疲れたさ。何もわからねえ。今はもう何も見たくない。

 このよくわからん奴は、こんな俺を嘲笑いにでも来たのか。どうでもいい。


 そんな彼の態度とは対照的に、先ほどまでほとんど無関心だった銀髪の男にとっては、今や彼のことこそが重大な関心事のようだった。

 まるで同志を見つけたと言わんばかりに――実際その通りなのであるが――諸手を広げて喜んだ。

 芝居がかった動作は、実に「ラナソール」的だった。


「いやあ。君は実にラッキーだ。僕なら、君の願いを叶えてあげられるとも」

「なんだと……」

「君は、現実に無力を感じているね? もっと力があればと、そう思っているだろう? のように!」 


 はっとする。図星だ。

 ずっと、そう思ってきたとも。

 フウガのように、好き勝手暴れられる力があるなら。こんな退屈な人生は選ばなかった。

 だが現実の俺は、どう足掻いたところで、変わらねえ。冴えない窓際族の童貞だ。

 現実にはとっくに絶望している。

 そして、夢にも絶望している。

 夢は、どれほど理想的であっても、理想的なほど、決して現実にならないから。


「いいや。僕ならできる。僕たちは知っている。


 まるで心を読み透かしたように、銀髪の男は答える。


「夢と現実のハードルは、君が思っているよりもずっと低いんだよ。そして、ラナソールを知っている君なら、越えられる」


 そうだ。確かに俺は


 ラナクリムと似ているようで違う、夢の世界。こいつも知っているのか。

 確信めいた響きに、ダイゴは馬鹿げた戯言だと思えなかった。むしろ、縋りたい気分だった。それほどに弱っていた。


「僕の名は、ゾルーダ。君に夢の翼を授けよう。手を、取ってみるかい?」


 銀髪の男は怪しげに微笑んで、嫌な顔一つせず、汚物塗れのダイゴに手を差し伸べた。


 ダイゴは、手をとった。


 元々フウガを引き入れようかと迷っていたゾルーダと、フウガを演じていたダイゴ。互いにそうとは知らず、奇遇にも邂逅を果たしたのだった。


 そしてダイゴは、新たなるアルトサイダーとなった。

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