92「エーナとレンクスの昼下がり」

「これで完璧ね」


 店の掃除を終えたエーナは、手の甲で汗を拭った。彼女の頭には、モコちゃんバンダナが巻かれている。以前「店の先輩」のミティに買ってもらったものだ。可愛らしいデザインが気に入って、掃除のときは毎回巻いている。

 ピカピカになった床や机を見回して満足した後、


「どうして私、こんなことをやっているのかしら」


 ふと冷静になって、独りごちる。

 そもそも掃除なんて、魔法で簡単に済むはずなのだ。なのに使おうとすると、「店が吹き飛ぶからやめて」とみんなに引き止められてしまう始末。

 それはまあ……かなり、おっちょこちょいかもしれないけれど。

【星占い】が使えなくなってからというもの、どうにも調子が悪い。やらかした数々の失敗を思い返して、彼女は肩を落とした。

 しかしすぐに気を取り直したエーナは、何となしに窓際へ目を向けた。

 レンクスと小さな兄妹が、机を挟んで向かい合っている。間に薄い木の板で作られた小さな台があり、その上には厚紙を折って作った人形が立っている。両者でつつき合い、紙人形同士をぶつけて戦わせているようだった。

 興味を覚えて、エーナはその様子をぼんやりと眺めた。

 彼女は知らないのであるが、これは紙相撲によく似た遊びである。

 ただし、小さな台は土俵ではなく闘技台であり、そして紙人形が模しているのは相撲取りではなく、剣を持った冒険者だった。


「むう……くっ!」


 レンクスは冷や汗をかきながら、慎重に指先で台をつついている。

 何しろ、フェバルは力加減が難しい。勢い余って強く叩き過ぎると、土俵を割ってしまう。物理的に。

 中々苦しい戦いを強いられているレンクスに対して、仲良し兄妹は威勢がよかった。レンクスが攻めあぐねていると見るや、一転攻勢。レンクスの向かい側の闘技台の両端を、二人でトントントンとリズムを揃えて叩いていく。

「金髪の兄ちゃん」人形は、「剣麗レオン」人形に押し込まれていき――

 コテン。ついに倒れた。

 レンクスは大袈裟に頭を抱えて悔しがった。


「だあーっ! また負けたー!」

「おにーちゃんよわいー」「よわいー」

「あーくそ、まいったぜ。つえーなお前らー」

「だろー」「でしょー」


 兄妹は目を見合わせて、本日幾度目かの勝利を笑顔で喜んだ。

 この笑顔のためなら、本気で悔しがる役者を演じるのもまんざらではない。ちゃんと付き合っていいところで負けてやる方が子供は喜ぶものだと、当時小さかったユウとの付き合いで十分に心得ていた。

 ただ裏では、まるですまし顔みたいにしゃんと立つレオン人形を見つめて、「この野郎。負けねえぞ」と誰にも聞こえないように呟くことを忘れないレンクスであった。

 ちなみに言われた本物は、そのとき世界のどこかでくしゃみをして、首を傾げた。

 やがて自分たちを見つめる視線に気付いた兄妹は、振り向いてエーナを指差した。


「あー。そうじのおばさんだー」「おっちょこちょいのおばさんだー」


 いきなりおばさん扱いされたエーナは、ちょっとカチンときてじろりと子供たちを睨んだ。


「うるさいわね。雷落とすわよ」

「おばさんこわいー」「こわいー」

「おばさんじゃないわよ!」

「うわーこわいなー」


 レンクスもわざとらしい調子で同意して、兄妹をかくまうように抱き寄せた。


「おばさんさちうすそう」「こじわふえそう」

「生き遅れてるからな。常に」

「あなたたち……」


 さすがにただからかわれているだけと気付いたエーナは、乗ることにした。オーバーアクション気味に拳を振るわせる。


「そんなこと言う悪い子は……」


 歯をむき出しにして、吠えた。


「食べちゃうぞ。がおー」

「「きゃー!」」


 襲いかかるふりをすると、きゃっきゃはしゃぎながら、兄妹は走って逃げていく。

 そのまま外へ。両開きのドアが勢いよく開いて、閉じた。

 レンクスは二人を追いかけて、ドアの手前まで見送った。


「またなー。いつでも来いよー」


 と、気軽に手を振るのを忘れない。


 兄妹が去り、一転して店内は静かになった。

 ミティとユイは買い出しに出かけており、ジルフはユウの代わりに汗水垂らして依頼をさばいているので、今店には二人しかいない。

 鬼役を務めたエーナは、やれやれと肩をすくめてバンダナを外した。窓際に戻ったレンクスに声をかける。


「あなた。最近本当に楽しそうねえ。ユウとユイと出会ってから、また一段と」

「まあな」


 レンクスはあのときユナに救われ、今はユウとユイに一番の生きがいを見出している。


「前はしょっちゅう辛気臭い顔してたのにねえ」

「そうだったかな。でもよ、お前も人のこと言えないぜ」

「……まあ、色々と生き方を考えさせられる子ではあるわね。あんなフェバル、見たことないというか」


 世俗のことに関わらないはずが、二人のペースに巻き込まれてお店掃除なんかをやっている。どうしてこんなことをやっているのだろうと、また彼女は思っていた。

 しかし、あれほど普通の人と触れ合うことは避けていたはずなのに、いざやってみると悪い気はしないのだから不思議なものである。


「例外中の例外だろうな。普通はもっとよ。まだ若いだけってのもあるかもしれねえ。俺はだから、お前のやり方も間違っちゃいないと思う」

「そう、かしらね」

「ウィルの奴から聞いたよ。俺たち、ろくな『死に方』しないってな」


 真顔でさらっと言われたことにエーナは驚いて、目を見開いた。その反応にレンクスは小さく笑って、続ける。


「エーナ、お前昔から知ってたんだろう? ずっと」

「……ええ。知ってたわ」


 躊躇いがちに、しかしはっきりと肯定した。


「悪かったな。今まで気を使わせて」

「あら。どうしてそう思うの?」

「ただ普通に死ねないだけじゃないって知ったら、確かにもっと絶望する奴もいるだろうと思ってさ。それが怖くて、ずっと言わなかったんだろ?」

「……そうね。否定しないわ」

「お前も大変だよな。その気になれば、知っちゃいけないことまでわかってしまう。知らずにいればいいと頭では理解していても、手を伸ばさずにはいられない……ときもあるよな」

「何度後悔したわからないわね」

「今度からよ。自分だけで抱えなくていい。俺に相談してくれていいんだぜ。仲間だろ?」

「ありがとう。そうさせてもらうわ――今のあなたは強いもの」

「強くなんかねえさ。ただ俺のこと強いって頼りにしてる子がいるからよ。かっこいいとこ見せなくっちゃな」


 白い歯を見せて、レンクスは明るく笑った。

 エーナはそんな彼のキャラクターをありがたいと思いながら、これまでのことを思い返していた。

 自分はいったいどれほど生きてきたことだろう。

 何万年を超えた辺りから数えるのを止めた。正直、生き疲れを感じない日の方が少ない。

 最初、フェバルはただ死ねないのだと思っていた。色々なことがあって、思い出したくもないことがたくさんあって。何度も死のうとして、そして死ねなくて絶望した。

 でもいつかは『死ねる』と思っていた。長い旅の果てに、たとえ肉体は朽ちずとも心が朽ちていく。そしてついに心が死んでしまうときがくれば。呆れるほど後ろ向きな考えだが、それが唯一の救いだと考えて彼女は生きてきた。

 だが――

 自分以外のどれほどのフェバルが真実を知っているのかはわからないが、【星占い】を使えるエーナは知っている。

 心をすり減らして『死んだ』フェバルの存在。噂では聞いたことがあるが、彼らは皆二度と姿を見せない。どこへ消えてしまうのか。

 ある知人のフェバルがおそらく『死んで』行方知らずになったことをきっかけに、調べてしまった。

 そして、知ってしまった。知らなければよかった。

 大き過ぎる力の代償はまた、計り知れないものだった。

 ろくな最期にならない。この言葉が端的に示している。

『死んだ』フェバルの肉体は、星脈に取り込まれてしまう。なのに本当の意味で死なせてくれない。意識だけはそこに残って、苦しみ漂い続けるというのだ。

 星脈に流されるまま生きて、最後は星脈の一部として囚われる。

 死ねばそこで苦しみから解放される普通の人間の死と違って、いつまでも終わらない悪夢が続くだけ。

 フェバルはどこまでいっても星脈の奴隷でしかない。それが知り得た真実だった。

 そのことを不意に知ってしまって、エーナはひどく怯えた。絶望した。

 何のために? 理由などないのかもしれないが、呪わずにはいられなかった。

 嫌になるほど生きて、なぜまだ終わりにしてくれないのか。なぜさらに追い打ちをかけるような真似をしてくれるのか。嫌がらせではないか。

 とっくに生き疲れているのに、『死ぬ』のが怖い。身体の自由も人と触れ合える歓びまでも失って、どこに希望があるのだろう。

 真実を知ってから、ひたすら苦しんで。悩み苦しんで。死ぬのも生きるのも怖くてどうしようもなくなって。

 すっかり希望の光も見えなくなった彼女は、それでも簡単には『死ねない』から。

 さらに遠い時の果てに、決断した。

 こんな呪われた運命の犠牲者を、もう増やしたくない。

 忌まわしい運命から救ってあげられるとしたら、私はどんなに恨まれても構わない。

 それが始まってしまう前に、殺してあげたい。

 悲壮感に満ちた覚悟が、使命が、絶望に囚われたままの彼女を辛うじて立ち上がらせた。

 ……なのに、一人たりとも殺せていない。実はそのことにもひどく絶望させられているのだが。

 ある可能性を、それだけははっきりさせたくない絶望の可能性を、今まで能力で確かめずにいる。

 それを知ってしまったら、もう二度と立てなくなりそうで。

 いつの間にかひどく暗い顔をしているエーナに気付いて、レンクスは真面目な顔で尋ねた。


「また思い悩んでるな」

「どうしてわかったの?」

「自分で思ってるより結構わかりやすいぜ、お前。もしかしたら、自分は殺せないんじゃないかとか、そんなこと考えてないか?」

「……エスパーなの? あなた」

「さてね」


 まさに図星で、彼女は大きく溜め息を吐いた。


「そうよ。私は……弱い女ね。いつまでもはっきりさせずに、逃げてばかりで。軽蔑するでしょう?」

「しねえよ。俺も逃げてばかりだったしな」


 今度はレンクスが何かを思い出して、溜め息を返した。しかし自分などより今は彼女だと思い、本心からの言葉をかける。


「それに、無理してはっきりさせなくていい。今はそれで生きられるなら、それでいいじゃねえか」

「あなた、結構優しいこと言うのね」

「やれやれ。優しさがうつったか?」


 レンクスが笑うと、エーナも無理のない微笑みを返した。

 もう大丈夫そうだと判断した彼は、うんと伸びをした。


「よっしゃ。ぼちぼちごみ拾いに行ってくるか」

「ねえ。私も付いていっていいかしら」

「えー。お前来るとかえってごみ増やすからなあ」

「うう……。わかったわよ。いいわよ」


 ちょっといじけるエーナに向かって、あくびをしながらレンクスは言った。


「なんか適当に依頼でもこなしてくればいいんじゃねえの? 店のだと迷惑かかるかもだからよ、ギルドから紙一枚剥がして」

「散々な言いようね……。でも暇つぶしにはいいかもしれないわ」

「気分転換して来いよ。フェバルと一緒にいたって、どうしたって色々思い出しちまうだろ」

「それもそうかもね。言う通りにさせてもらうわ」


 二人で一緒にお店を出る。

 レンクスがぶらぶらと左へ行ったのを見届けてから、エーナはギルドに向かって右へ歩いていった。

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