Ⅰ-9 せいいっぱいの逃避

 唖然あぜんとしていた僕を慈しむような笑顔でこちらを見るこよみ


 ……いや、これは慈悲なんかじゃない。哀れみだ。

 可哀想な人間だとさげすみ哀れんでいるんだ。


「こ、ここここがどこだろうとそ、そんなのどうでもいい、は、早く僕の家に帰してよ!」


 気がついたら長らく出したことのないほど、声を荒げていた。

 ここにきてやっと、これは夢なんかじゃない、僕自身にとんでもない事態が実際に降りかかっていると自覚できた。膝の笑いが、再び襲い来る。

 だがコヨミは、どこかあしらい慣れたかのように、平然と語り出す。


「おかしなことをおっしゃいますね。ここはあなたの家ですよ? そこは何も変わっておりません。なにせあなたの家ごと、ちょっとワープさせていただいただけですから」


「そ、そんなことできるわけが――」


「だんだん饒舌じょうぜつになっておられますね。……できますよ。科学はあなたの思っている以上に進歩しているものなんですよ、あなたがひきこもって化石のような生活をしているうちに、ね」


「嘘だ、そんな技術聞いたことも……」

「あなたは世界の情勢について恐ろしく無知ですね。まぁ今はそれでいいでしょう……要は逃げようとしたってムダ、ということです」


「そんなこと知るもんか!……どけ!」


 コヨミを押し退けようととしたとき、彼女の身体に腕が……当たる、はずだったのだが、彼女のちょうど胸の部分をすり抜け、空を切っただけであった。


「――!??」


「おわかりいただけたでしょうか?」

 彼女のにこやかな笑顔が今までで最も不気味に映った。


「ご覧いただいたとおり、私には実体がありません。……今更驚くことでもないでしょう? モニターからキーボードまで、そこの小さなMCD――マルチコミュニティデバイスで映し出されたもの。それを応用して人間まで出力できるとしても、なんら疑問では――」


 なんだよ……なんなんだよ……!


「きゃっ!?」


 もう気がついたら走り出していた。


 長らく家から一歩も出ていないことなんかもう頭から完全に消え去っていた。

 ……そんなことよりも、とにかくもうその場から離れたかった。

 玄関の扉を開けるのにちょっともたつき苛立ちながらも、家から飛び出す。

 どのくらい走ったのだろう。よくわからないけど――

 

 どこを見渡しても、ぼくが知らない高層ビル。

 それに対して、予告もなしに放り投げ出された、ちっぽけな存在。


 今にも潰されてしまうんじゃないかと錯覚させられそうなほど、上からの巨大な圧力のようなものを感じずにはいられなかった。

 

 ……走り疲れたところで足がチクッとした。何かを思いっきり踏んづけてしま

ったらしい。……そこでやっと靴も履かずに飛び出したのだと自覚した。


「……もう満足ですか?」


「ひぃっ!」

 突如として聞こえた声に僕は身震いした。

 その声の主は、先程振り切ったはずの――なんだよ、なんでいるんだよ!?


「ムダですよ。いくら逃げてもこの区画は私が投影できるようになっているのですから。……改めまして、ようこそ、世界で唯一の『時を刻む国』へ――」


「……時を、刻む国……」


 今この瞬間も心臓が張り裂けそうになるほど動揺している。


 だが同時にひどく他人事めいた冷静さもあった。もはやあまりにも理解が追いつかなさすぎて、自分の身に起こっていることのようには考えられなくなっているのかもしれない。


 後ろからパタパタと足音がした。振り返ると、先程のメイドの格好をした女の子が追いかけてきたようだ。


「はぁ、はぁ……やっと追いつきました。……戻りましょう、あなたの家に」


 僕の、家に……?

 

「そうです。あの家は……あの家の匂いは間違いなく大野様、あなたの家です。ここがどこであっても、それだけはきっと変わらないと思うんです。……戻りましょう。わたしたちのいた、あの家に」


 僕たちのいた、あの家……


「小間使いさんもなかなかよいことをおっしゃいますね。どうやらわかってくださったようで。……その通りです。難しいことは考えなくてよいのです。あなたは今までどおり、あの家、あの部屋にいる――それだけでよいのです。さあ帰りましょう、あなたの家に」


「――帰りましょう、あなたの、わたしたちの、家に」



 走り疲れていた僕は、それ以上、考えるのを、やめた。

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