∠ 61 密命


貴教の引っ越しが済み、イルカ達の日常は一旦落ち着きを取り戻したかに見えた。


そんな中、光太郎は日曜の午前に讃岐家を訪れた。しかも隠密よろしく玄関から入らず庭を回り、縁側から無断で母屋に入る。


座敷が東西南北に無数に広がるが、光太郎は迷うことなく襖を開けて奥に分け入った。


「あんたに富嶽統一会を紹介したのは誰だ」


光太郎は道中、貴教との印象深い会話を思い返していた。


「イルカの爺さん。正宗さんだよ」


数え切れぬ程の部屋を通過した先で、目当ての男と相対した。


竹取りの翁は、藍色の和服姿で端座していた。光太郎に気づくと薄く目を開け、一喝した。


「アポもなしにやってくるとは何事か」


武道の師範のような出で立ちで、横文字を使用されると違和感がある。それでも、翁はイルカよりはITに精通していると見え、部屋にはタブレットが置かれていた。


「俺が子供の頃、家の借金をあんたに肩代わりしてもらったことがあったな。それと似た話を最近聞いた。貴教の兄貴に富嶽統一会を紹介したのは何故だ」


光太郎が立ったまま単刀直入に訊ねると、翁は顎をしゃくって座るように促した。


翁の計画は以前から周到だった。光太郎の実家の家業が傾きかけた時に手を差し伸べてきたのも、光太郎を断れない状況に追い込むための布石だったのだ。


おおよそ三年の間、光太郎は翁のを受けてきた。勉学の傍ら人知れず鍛錬に励んだ結果、彼は体術、諜報、暗殺術を修め、どこに出しても恥ずかしくない忍となった。


「不幸の形は数多ある。儂は困っている人間に手を貸したに過ぎぬ。功徳を積んだとて罪には当たらんと思うが」


翁に良心の呵責はなく、恣意的な関与さえ伺わせる。今回の件で多くの人間の運命が狂ったはずだ。イルカだって少なからず傷ついた。どう思うか訊ねると、


「良い薬になったではないか。これで悪い虫がつくこともなかろう」


光太郎は翁の真意が読めない。これまで利害が一致していたからこそ、光太郎は影に徹することができた。だが、イルカを傷つける企みは、約束に反する。


「なんだ、その顔は。イルカに対する恩を返すと言ったのは口だけか」


光太郎はかつて命を落としかけ、イルカに救われた。そのせいで、イルカは大切な家来を失った。その補填を翁に求められるまでもなく、光太郎は勧んで影になると誓ったのだ。二言はない。


「俺は、あいつの幸せを願って……」


「ふん。青二才が余計な知恵を働かせおって。富嶽統一会と月の船団の共倒れを狙っておったのに台無しではないか。だが、まあいい。これで相手の戦力はわかった。月影よ」


翁は、ずいと身を乗り出し、光太郎の目をのぞき込んだ。


「ツクヨミを討て」


月の神を討つなど正気の沙汰ではない。光太郎は自然反論する。


「あいつには俺と同じか、それ以上の力を持ってる部下がいる。ツクヨミの名前の由来は、月を数えるって意味があるんだろ。月の船団っていうのはそういうことだと思う。分裂した魂を別の体に憑依されたら」


翁は光太郎の危惧を予想していたという風に、鼻で笑う。


「まあまあの分析だが、あの子供が本当に神なのか疑ってみたことはあるかね。そんなもの誰に証明できる」


ツクヨミは突然現れ、イルカを娶ると宣言した。文献によってその存在は予言されていたものの、未だ自称に過ぎないと翁は信じこんでいた。


「そもそも、ツクヨミという神は文献がほとんどない胡乱な神だ。騙ろうと思えばどうとでもなる。大方妖怪変化の類だろうて」


妖怪変化の類にしても、ツクヨミは並外れた力を持っていることは確かだ。翁は楽観視しているが、光太郎は決して侮ってはない。


光太郎が躊躇していると、翁は急に声を和らげ、下手に出た。


「なあ、助けては貰えんか。イルカは儂らを苦しめまいと、あの化け物の妻になるなどと世迷いごとを口にしているのだ。あの子を苦しみから解放してやれるのはお前しかおらん」


光太郎は翁の言葉を鵜呑みにしたわけではなかった。それでも、イルカは無理をして日々を過ごしている。辛い顔一つ見せずに、周りと調和しようとする彼女を見るのは忍びない。これが歪な円なら断ち切る覚悟がある。


光太郎が部屋を出ていった後、翁は黒い表紙の綴じ本を手に取った。


「あの化け物を討ち取って初めて、真の竹取物語が始まるのだ。失敗は許されんぞ、月影」

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