∠48 幸せになろうよ


「翁! 翁いますか!」


イルカは怒鳴りながら、翁の部屋の襖を開けた。


部屋には竹で作られたオブジェが置かれている。イルカの揺りかごから椅子まで翁の手作りである。翁は、パリの美術館で個展を開いたこともある世界的な竹家具職人だ。その黄金の手先に目覚めたのは、イルカの生誕が契機だったという。裏金作りで財産を築いたと揶揄されたこともあるが、何不自由のない暮らしができるのは、翁のおかげである。


「騒がしいぞ、イルカ。何事だ」


床の間で正座していた翁は、動転した様子の娘を静かにたしなめる。イルカは目があった瞬間に怖じ気付いたように言葉を飲み込んだが、今更ひっこみがつかず、翁の前に座った。


「私、貴教さんと婚約したつもりはありませんが」


イルカが語気強く迫っても、翁は狼狽えるどころか滅多に見せない笑顔まで見せた。


「小さい頃よく言ってたぞ。貴教お兄ちゃんと結婚するー、とな」


「いつの話をしているんですか……」


イルカは頭を抱える。貴教は翁に了承は得ていると言っていた。酒の席での約束に過ぎないと高を括っていたが、自分が思っていた以上に事態は進行している。


「お前は、ツクヨミ様の嫁になりたいのか」


「はい」


翁は立ち上がり、竹でできたゆりかごを揺らす。


「いきなりやってきたわけのわからん輩に孫をやれるわけがなかろう。なあ?」


翁のツクヨミに対する面従腹背には、薄々感づいていたが、運命には抗えない。翁はまだ理解できていないのではないか。イルカはそう訴える。


「約束は約束です。もし破ったら地球が……」


「それがどうした」


翁は突き放すように言い、揺りかごに入っていた市松人形を抱き上げた。


「お前が生まれた時に儂は決めたのよ。何が起ころうとお前を守るとな。そのためならどんな犠牲も厭わん」


翁の中では、イルカは今でも竹の中にいた幼子と変わらないのだろう。時間が経過し、成長した現在では息苦しく感じる。そうと知りつつ、イルカは強く反発できなかった。翁の狂気に近い愛情をはねのけられるほど強くもなく、薄情にもなれなかった。


「万事、儂に任せておけば安心だ。わかったな?」


イルカはいつもの倣いで、はいと、返事をしそうになったが、それはツクヨミにも貴教にも不実に当たるとして、逃げるように部屋を出ていった。


明くる日、朝一番に貴教の店に向かう。貴教は丁度戸締まりをして車に乗り込む所だった。


「よお、早いな」


寝癖のついた頭で笑うものだから、締まりがない。だらしないと見るか、気安いと受け取るかは人によるが、今のイルカは冷静に彼を観察する余裕はなかった。


「あの、翁の言ったことは気にしないでいいですからね」


イルカの遠慮とも拒絶とも取れる態度に、貴教は気分を害することなく微笑んでいる。しかも、気取らずに将来の願望を口にした。


「爺さんは関係ない。俺はお前と幸せになりたいと思ってるよ」


イルカは言葉の意味がしばし飲み込めずよろめいた。その体を貴教がやさしく支える。イルカが困っていた時に、ためらわずに差し伸べられた大きな手だったが、このような機会に実感するとは思わなかった。


「ごめん、いきなりこんなこと言って。嫌だったら言ってくれよ」


嫌ではない。混乱はしているが、彼と共に生きる未来もあったかもしれない。貴教は子供の頃から知る大切な存在だ。しかし、貴教の好意とイルカの好意は一致しない。その考えは変わらないのだが、自信が持てないでいる。


「嫌じゃない、です。でも少し考えさせて欲しいです」


曖昧な答えを、貴教は受け入れた。これが年上の余裕なのかと、イルカは貴教の新たな一面に驚く。


「そうだ、お前に渡したいものがあるんだ」


ついでとばかりに貴教はあるものをイルカに手渡した。


「え……、こんなもの受け取れません」


貴教が渡したのは、最新式のスマートフォンだ。イルカの時給の数ヶ月分はすると思われる。


「バイト代の代わり。あんまり出せないからそれで勘弁な」


確かにイルカは携帯電話が欲しかった。ただしそれは自分で選んだ決断の結果として求めたのであって、誰かに与えられて満足するものではなかった。押しつけられた運命に対するささやかな抵抗の機会すら奪われようとしている。


「あ、ありがとうございます」


複雑な胸中を内に秘め、イルカは照れたように礼を言った。これまで築き上げた関係を壊すのは避けたい。携帯をもらった後、貴教と一緒に市場に行った。タイやヒラメの舞踊り。自分が輝夜ではなく、乙姫だったらこんなにも思い煩うこともないのかもしれない。

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