∠23 謀反
それが、これまでイルカたちとたびたび衝突してきた彼女の本名だ。祖父は著名な翻訳家で、家にはかなりの蔵書を所有している。涼子はその影響からか、幼少の頃から本に親しんできた。
「え? 昨日は学校の図書館に泊まったんですか?」
体育終わり、校舎へ途上にイルカは彼女と話した。
「ここの図書館は二十四時間開いてるし、生徒用に簡易宿泊施設も提供されている。知らなかった? 遅れてる、姫の癖に」
毒舌は消えないものの、イルカが隣を歩くことを許してくれたように思える。
「全然知りませんでした。では試しにお泊まりしませんか、三人で」
イルカの脈絡のない提案を、三歩後ろを歩いていた宇美が反駁する。
「ちょっと何考えてんのよ、姫! こいつにされたこと忘れたの?」
宇美に言われたことを思いだそうと努めたが、イルカには心当たりがなかった。ここ数日、色々あったせいで失念していたのかもしれない。イルカはおおらかであまり些事にこだわらない。
「別に構わないけど」
「ほら、ノリ悪いんだからこういう奴は。えっ?」
涼子が拒絶すると思いこんでいた宇美は、飲み込みの早さに疑惑の目を向ける。
「信じられない。昨日今日で仲良くなるなんて」
「勘違いしないで。なれ合うなんて言ってない。さっきの仕返しをしたいだけ」
涼子はイルカのストレッチ地獄が腹に据えかねていた。反撃の機会を伺い、新たな挑戦をしようと考えていたのだ。
「ねえ、二階堂宇美。あなたも腹にイチモツあるんじゃない?」
「な、何よ。引っかかる言い方しないではっきり言いなよ」
強がって見せても、宇美はあきらかに不安を射抜かれている。宇美に付け入る隙があると見た涼子は畳みかける。
「この偉そうな姫とやらに一泡吹かせてやるの。そのために手を組もうと言ってるのよ」
宇美の胸にわだかまりがないと言えば嘘になる。輝夜の姫という謎の根拠を盾に振り回されてきたのも事実だ。迷った末の宇美の決断は、
「宇美殿?」
イルカの側をゆっくり離れ、宇美は涼子の脇に立った。
「ごめん、姫。何かよくわからないけど、宣戦布告するわ!」
家来が敵に寝返るとは初めての経験だ。否、正確には宇美とは友人の契りを結んでいるのだが、裏切りには違いない。
涼子は宇美の裏切りを当然と受け入れ、肩で風を切る。
「詳細は追って知らせる。行くぞ、二階堂」
「うい……、って仕切るな。聞いてんのか、おい」
二人が連れだって学びやの古い建物に消えると、イルカは取り残される。一体どうなってしまうのだろう。
次の授業も宇美と一緒だったが、宇美は意図してイルカから離れた場所に座っていた。
イルカは感じたことのない寂しさに、我を忘れそうになる。人との繋がりを強く意識した瞬間だった。
二
宝蔵院は単位制のため、日よっては早い時間に授業が終わることも珍しくない。
イルカもその日、十四時で授業を終え、食堂に来ていた。本来なら宇美をお気に入りのあんみつ屋に誘うつもりがその機は失われた。
食堂の入り口は二カ所あって、ひっきりなしに生徒の団体が出入りしている。新入生は遠慮がちに入ってくるのですぐにわかる。
その法則に当てはまらない者が一人、つかつかとイルカのいるテーブルに近づいてきた。長身の彼が接近すると、迫力があるが、イルカの目はあらぬ方を向いている。
「相席していいかな?」
イルカは頬杖をついて考えごとをしていたので、彼の存在に気づくのに遅れた。
「おーい、イルカちゃん。ぼーっとしてるとイタズラするで」
菱川諸矢に眼前で手のひらを振られ、ようやくイルカは知覚を思い出した。
「あ、菱川殿。はい、どうかされましたか」
「別になーんも。座ってもええ?」
諸矢も帰りなのかリュックサックをテーブルに置いてイルカの向かいに席についた。いつぞやのようにシャツのボタンを開け、袖も捲っている。
「イルカちゃん、授業終わったん?」
「はい……」
「何やおつかれやなー、走って疲れたか」
午前の体育は陸上競技だった。五月にマラソン大会が開かれるためその練習も兼ねている。同じ時間、諸矢は参加していなかった。どうして知っているのだろう。
「英語の時間によそ見してたらチラチラっと」
イルカは無意識に上半身を引いていた。
「そんな引かんでも。たまたま目に入っただけやで」
諸矢の言葉に深い意味はないのだ。過敏な反応は失礼だと思い直す。
「すみません。ちょっと色々立て込んでて」
「うん、どんな」
イルカが憂慮を口にすると、諸矢は積極的に耳を傾ける。口が滑るというのはこういう場合を言うのだろう。知り合って間もないのに、諸矢に胸の内を吐露していた。
ところが、味方になってくれるはずの諸矢でさえ、イルカに弓を引くのだった。
「そりゃイルカちゃんも悪い」
「え? どうしてですか」
イルカには謀反の動機に覚えがないので聞き返した。
「普通、友達にランクづけせえへんって」
諸矢の言うとおり線引きは相手を貶めているかもしれない。イルカもそれは理解できるが、どうしても癖になって直らない。否、これまで直そうとしなかった。
「ちなみに、俺はイルカちゃんにとってどういう位置づけなんかな?」
興味津々な諸矢を前にして、本当のことを言うのはためらわれた。イルカにとって対人関係は、非常に繊細な問題をはらんでいる。
そのため、あっさり機微を見抜かれた。
「それな。そういうところ直さないと友達なんか一生できへんで」
苦笑混じりに言い、諸矢はテーブルを離れてしまった。
残されたイルカはぼんやり顔を上げた。
「友達を大切に……」
人が離れていくのは辛いものだ。気を許し始めていたからなおさらそう感じる。周りの人間が当たり前にできていることを自分ができないのは何故だろう。これまで幾度もしてきた自問自答に、イルカは疲れてしまった。
イルカの側に再び人の気配。諸矢が戻ってきたのかと思いきや、先ほど別離を告げてきた宇美だった。
「……、これ」
宇美は紙の切れ端をイルカに突きつけた。受け取らないと見るや紙をテーブルにそっと置き、走り去った。
「言いたいことがあるなら直接言えばいいのに」
落胆しつつ、ノートの切れ端の紙を開く。そこには丸っこい癖字が踊っていた。
拝啓 綾瀬イルカ姫
ごきげんうるわしゅう。
姫様におかれましてはお疲れのことと存じますが、図書館にお越しください。
さっきは変なノリで姫を傷つけてしまいました。怒ってますか。ごめんなさい。
お泊まり会してくれると嬉しいです。かしこ
謝罪文を受け取っても、イルカの心は晴れない。やはり直接対峙せねば失われた信頼は取り戻せないのだ。
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