∠16 月とオレオの邂逅
威勢良く讃岐町まで下りたツクヨミだったが、烏の消息を掴めずにいた。
古い家屋の軒先で途方に暮れる。讃岐町は、景観の保護のため木造の家屋が多数を占める。
ツクヨミは神性を持つが、空は飛べない。不要な力の行使は彼の実体の維持を危うくしかねないためだ。
ところで彼は鼻が効く。ガラス玉にはイルカの匂いがついていれば追跡は可能性だと思ったが風に流され、痕跡は残っていない。
腹が減ってきて、思考もまとまらない。このまま帰ればイルカの不興を買うのは避けられないのだが、八方ふさがりだ。
「そこで何してるの?」
ツクヨミがうずくまっていると、ふいに声をかけられる。顔を上げると、紺のブレザー姿の少女がいた。眼鏡をかけた小柄な少女だ。前髪を短くカットしている
「何でもない。あっちへ行け」
ツクヨミは邪険に少女を追い払うと、考えに耽った。
少女が心配してくれているのはわかったが、他人との不要な接触は避けるべきだと壁を作る。
少女はツクヨミの前で立ち止まったままだ。もっと強く拒絶するつもりで声を張ろうとしたが、少女の制服に見覚えがあったため、言葉を飲み込んだ。
「ねえ、君、困ってるのなら話聞くけど」
少女は他人事とは思えない辛抱強さでツクヨミの身を案じていた。
助けを求めたいが、ツクヨミは言い出せずじっと体を丸めた。王とはプライドの塊でもある。容易に弱みを見せたりはしない。
「まあ、そこにいたいのなら、好きにすればいいと思うけど。私の家じゃないし」
少女は理解があるような素振りで、ツクヨミの態度を尊重した。
気を遣わせていることに歯がゆさを覚えるが、これであきらめてくれるだろう。
「ごめん、ちょっと顔上げてくれる?」
ツクヨミが言われた通りにすると、少女の顔が間近にあった。正に目と鼻の先である。少女の息が間近にかかりくすぐったい。彼女は大きく目を見開き、ツクヨミの内奥をのぞき込もうとしていた。
「覚えた」
時間にして三十秒にも満たなかった接近だった。それだけ言うと、顔を離す。ツクヨミは事情がわからず、腹が立った。
「おい、小娘。予を誰だと心得る」
「ちょっと待って。今描いてる所だから」
少女は膝の上にノートを乗せて、鉛筆を動かしている。真剣な表情と迷いのない動きに、ツクヨミは文句を言うのを忘れ見入ってしまった。
ツクヨミの前に提示されたのは、デッサン画だ。軒下にうずくまる少年が濃い陰影と共に描写されていた。
「予はこんな様子であったか」
少女は控えめに頷く。
絵の中の自分はまるで母の助けを待つ稚児のようだった。ツクヨミは客観視した己自身の姿を恥じた。
「礼を言うぞ、小娘。予は立ち止まっていられぬ」
息を吹き返したツクヨミだったが、そこで腹の虫が鳴った。
「お腹空いたの? 何か食べる?」
少女の誘いを、ツクヨミは今度こそ跳ね返せなかった。路地を二つまたいだ所にある古民家に入る。
暖簾をくぐると、こけしの置いてあるカウンターがある。
三つあるテーブル席の一つに少女は慣れた様子で腰を下ろした。
「どうしたの? 座ったら」
「悪いが予は金子をもたぬ」
口幅ったい様子のツクヨミに、少女は顔を綻ばせた。
「それならもっと早く言えばいいのに。奢ってもらえると思った?」
少女は、ツクヨミが立ち往生している姿を楽しんでいる。とんでもない性悪だ。
「嘘嘘。モデルになってくれたから、好きなの食べていいよ」
それならばと、ツクヨミは遠慮なくテーブルにつき、メニューに目を通し始めた。
「私、漫画描いてるんだ」
ツクヨミはメニューとにらめっこし、かき揚げ天か、エビ天に迷っていた。
「いずれプロになる。君をモデルにした作品ならそれが叶うと思う」
プロになることと、ツクヨミがモデルになることに関連性が見えない。ツクヨミは人間の欲望を理解はするが、興味が持てなかった。
「だから君を監禁したい。どうかな?」
「ん?」
外から風鈴の音が聞こえた。季節は早いが、ツクヨミの意識を冴えさせる役割を果たした。運ばれてきた水を飲み干す。
「私の家には地下室がある。核戦争になっても大丈夫なほど頑丈な奴。三食昼寝付きで君を養いたいんだけど」
話がおかしな方向になって初めてツクヨミは目を上げた。
「予を飼おうというのか。身の程をわきまえよ。取り消すならなかったことにしてやる」
少女の突拍子もない提案をツクヨミは一蹴した。輝夜との仲を裂かれることを連想して過敏な反応を示したのである。
「オレ様キャラ……、た、たぎる」
少女は懲りずに爛々と目を輝かせ、ノートに没頭した。またツクヨミの絵を描いているらしい。
「まあ、絵を描くのは好きにするがいい。予の体は輝夜のものゆえ、好きにさせてはやれぬのだ。わかってくれ」
懲りない少女に半ば折れた形でツクヨミは輝夜のことを漏らしてしまう。
それを聞くなり少女の手が不自然に止まった。
「それは、綾瀬イルカのこと?」
「貴様、彼奴と旧知か」
どうりでイルカと同じ制服を着ているわけだと、ツクヨミは納得した。
「自分のことを姫と呼ぶ、頭のおかしい子」
「本当に姫なのだから致し方あるまい。予の妻になるのだから吹聴したくなるのも道理というものよ。かっかっか」
上機嫌なツクヨミを前に、少女はそれまで滑らかだった筆がひどく乱れ、収拾がつかなくなる。
「……、許嫁とかそういうの?」
「そんな甘っちょろいものではない。地球と月との盟約、宇宙の一真理にして、大願ぞ」
大言壮語にも、少女は硬質な表情のままだった。
「何その一大スペクタクル。興味深い。もっと聞かせて」
身を乗り出す少女を手で制し、ツクヨミは話題を変えた。
「すまぬが、ここまでだ。予は輝夜のために街まで下りてきた。目玉を追ってな。貴様、知らぬか? 目玉の在処を」
「目玉? 眼球? そんなにゴロゴロしてるものじゃない」
ツクヨミは悲嘆に暮れる。砂金を探すような無謀さを今更ながら痛感したのだ。
「このままでは輝夜に嫌われてしまう……」
「一緒に探してあげようか」
ツクヨミを監禁したいと、先ほど少女は言った。真偽は定かではないが、警戒するに越したことはない。
「実を言うと、私の家にあると思う」
「まことか!」
ツクヨミはテーブルに手をつき、快哉を叫んだ。烏を追うより、手っとり早いのは確かだ。光明に飛びつきたくなるのも無理はない。
「だが、予の帰りが遅くなれば輝夜も心配するぞ」
「大丈夫。もう会わなくてすむから」
不穏な言動を怪しむ間もなくツクヨミの視界がぐらつく。上体を保てなくなり、テーブルに倒れた。急激な眠気にあらがえない。
彼は月の神。
ツクヨミは自身の神聖が昼間に衰えることを失念していた。危し。
少女は何食わぬ顔でノートを仕舞い、ツクヨミを負ぶって店を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます