241/「ロジカ」の世界

 志麻が出て行ってからしばらく、一人傷ついた体をベッドに横たえていた時だった。空瀬アスミにも「その時」が訪れた。


 この世界から忘却されていた人物、宮澤新和/スヴャトポルクに関する記憶が、アスミにも蘇ってきたのだ。


 上体を起こし、ベッドから出る。


 新和の存在と関連づけられていた、母親についての記憶も、チラチラと頭に瞬き始める。


(私のお母さんと、ジョー君のお祖父さん、知り合い、だった?)


 気がつくと、一階の方からドヴォルザーグの『月に寄せる歌』の旋律が漏れ響いてきていた。


 部屋を出て、重い身体を引きずって、階段を降りていく。


 様々な想念が巡り始める。


(私、スヴャトさんと、会ったことがある)


 一階の母の部屋の前まで辿り着き、ゆっくりとドアノブを回す。


 壁一面の本棚に古い蔵書。傍らではレコードが蓄音機の上で回っている。部屋の真ん中のソファに、アスミの父が座っていた。


 こちらを振り返った父と、目が合う。チャーミングなお髭に、朗らかな雰囲気を纏って、眼差しが優しさに満ちている人。父が行っている復興活動の過程で、彼が纏っている柔らかさに助けられてきた人達も沢山いるのだろうなんて思う。


明日美アスミ


 父の声は慈愛に満ちている。


「ようやく、この時間が来た。まずは何から話せばいいのか。そうだな、最初に……」


 その時、蓄音機が制止して、音楽が鳴りやんだ。


「僕は、明日美の本当のお父さんじゃないんだ」


 父の表情が、ばつが悪そうに曇った。


「明日美の本当のお父さんは、スロヴェニアという国の人だ。日本人の在可アリカお母さんと、そのスロヴェニア人のお父さんとの間にロマンスがあって、明日美が生まれた。生まれた場所も、スロヴェニアのリュブリャナという場所だ。スロヴェニアの首都でね。高所にあるリュブリャナ城に、見守られている場所だ」


 アスミは、「構築物コンストラクテッド・歴史図書館ヒストリア」に逆召喚された時に紫の少女が言っていたことを思い出した。スロヴェニアという国と、そしてリュブリャナ城というお城と、アスミには縁があると彼女は言っていた。今の父の告解をそのまま受け取るなら、つまり。


(私の本当のお父さんと、縁がある場所?)


 心にざわつくものを感じながらも、アスミの口から洩れたのは、まずは表層的な問いだった。


「私、ハーフだったってこと? でも、私ってなんか日本人っぽくない? 髪も目も黒いし。そういう意味では」

「三歳までは、明日美はちょっと栗毛で、ハーフっぽい感じもあったよ。母さんが、義体を作る時に黒髪と黒い瞳に変えたんだ。もしかしたら、僕に気を使ったのかもしれない。


 さて、そうなると、ハーフとかハーフじゃないとか、何なんだろうって話だ。一般的な日本人の感覚だといわゆる『血』が重要視されるようだけれども。今の明日美は義体で、本当のお父さんの血も、僕の血も流れていない。血も身体も前提にならないのだとしたら、アスミの『お父さん』とは、誰なんだろうなんて、ね」


 その上で、と父は改めて前おいてから。


「それでも、僕のことをお父さんだと思ってくれるかい?」


 父は、許可を求めているのだと思った。真面目な人だ。子の気持ちなど鑑みず、親という立場をただ振りかざす人間達だっている世の中なのに。


 そんなことを問われても、決まっていた。


 本当のとか、どうでもイイ。こんな私を育ててくれた人。震災の後は、街の復興活動に従事している、「日常」を守り続けている尊敬できる人。


「お父さんは、お父さんだよ」


 そういえばつい最近、「気にしない」って、誰かが自分に言っていた気がした。すぐには思い出せない。その時はその言葉に反発した気もした。


 父に対してナチュラルに受容の態度を示せたのは、誰かから何かを受け取っていたからなのかもしれないけれど、この時はよく分からなかった。


「ありがとう。では改めて、全てを話そう。母さんが何故欧州に行っているのかも。この『境界の時間』まで、どうして話せなかったのかも」


 父の話が始まった。


「父さんが、オントロジカの研究を続けていたのは、明日美も知っていたね?」


 アスミは頷いた。存在変動者として生まれなかった代わりに、「日常」を復興活動の仕事で守りながら、「非日常」にもオントロジカの研究を通して関わる。それが、父が選んだ生き方だった。


「母さんのことを話す前に、まずはオントロジカの正体について、現時点で分かっていることを明日美に伝えないといけない」


 本質能力エッセンテティアと関係する次世代のエネルギー。そこまではアスミも認識していた。しかし、父が今から話そうとしている内容は、もう一歩深層に迫った事柄であるらしい。


「オントロジカと世界の関係については、新和さんも研究していた。新和さんが最後にS市を去る時に、研究の大部分を僕が引き継いだんだ。新和さんは『宇宙の果て』、つまり極大の世界にオントロジカの謎の解答を求めていたけれど、僕はむしろ極小の世界にその解答を求めていた。新和さんが使ったのは望遠鏡で、僕が使ったのは顕微鏡だ。するとある地点で、オントロジカにまつわる極大の世界での解釈は、極小の世界での解釈と一致するということを認めざるを得ない段階に至った」

「極大の世界と、極小の世界は同じ。『全』は『一』であり、『一』は『全』であるとか、そんな話?」


 アスミは平均的な同年齢の者よりも、思考が成熟している女である。そんな彼女の知的な態度に加えて、アスミは神社の娘でもあった。両部りょうぶ神道しんとう。神道と仏教を同時に存在させてきた日本の宗教体系の文脈で育ってきた者として、そんな仏教的な考え方には、比較的馴染みがあるものだった。


 父は頷いた。


「オントロジカというのは、『たましい』に積み立てられた愛・優しさ・徳分、そんな『善なるゆらめき』の集積のようなものなんだ。


 親和さんの仮説では、我々が今生きている、時間軸があるこの『線』の世界の外側に、より広大な『外』の世界が存在しているという。『線』の世界と『外』の世界では存在・論理・時間のモデルが異なっていて、この『線』の世界では『因果』で物事が進むのに対して、『外』の世界では『縁起』が複雑に絡まり合っていたり、漂っていたり、くっついたり、切断されたり、巡ったりしているらしい。『線』の世界と『外』の世界はループ状に関連し合っていて、『たましい』はこの二つの世界を行き来している。この『線』の世界では死んだ人の『たましい』が、一旦『外』の世界へと還っていき、また何らかの縁でこの『線』の世界に戻ってきたりするわけだ。


 さて、でもそうなると、我々の『たましい』は、絶えず『線』の世界と『外』の世界を、ループし続けているだけ、ということになる。この『線』の世界での出来事のみが全てじゃない、たとえ『線』の世界で『死』を迎えたとしても、それが全ての終わりではない。それは、救いでもあるかもしれないけれど、一方で永遠に『線』の世界と『外』の世界をループしているだけなのだとしたら、そこには『意味』がない。


 そこで、オントロジカだ。我々の『たましい』はこの『線』の世界に生まれて、ただ何もないまま『外』の世界に帰っていくのではなく、この世界で『徳分』のようなものを積み重ねることができる。その『たましい』一つでこの世界にやってきた我々が、この『線』の世界で積むことができる『何か』。一つは、それがオントロジカの正体だと言うことができる。この『線』の世界で積んだオントロジカは、この世から離れる時に『外』の世界に持っていく人もいるし、まだ『線』の世界に存在している大事な人や場所、もの・ことに置いていく人もいる。


 一つはこの『善なるゆらめき』としてのオントロジカを積み重ねることが、我々がこの『線」の世界に生まれた『意味』であるわけだ。『外』の世界に持っていくにしろ、『線』の世界に残していくにしろ、この『線』の世界で積まれたオントロジカは、『外』の世界と『線』の世界をループする『たましい』の還流に、『いろどり』を加えていく。繰り返しが、ただの終わらないループではなくなるわけだ。『たましい』の調べは『線』と『外』を巡りながら、優しくリピートされてゆく。でもそれは単調ということではなくて、モーリス・ラヴェルの『ボレロ』みたいに、同じリズムを繰り返しながら少しずつ、オントロジカを媒介にして、わずかずつだけど変形していて、いつしか大きな全体につながってゆく。波打つように、少しずつ右肩上がりに、『線』の世界、『外』の世界、両方の宇宙の『彩』を深くしてゆく。それは、『意味』があることだ』


 父は穏やかに話し続けると、まず、オントロジカの正体について、こう結んだ。


「新和さんが『線』の世界と呼んでいたこの世界の名称を、『「ロジカ」の世界』という。一方で、『外』の世界と呼んでいた方の世界を『「レンマ」の世界』という。『レンマ』の世界から『たましい』一つでこの『ロジカ』の世界に生まれ、効率だけを追求するなら、愛もいらない、子供を育てることもない、お年寄りの面倒をみることもない。それなのに、我々はそれをやろうとする。何故だと思う? 『意味』のためだ。『意味』とは『レンマ』の世界と『ロジカ』の世界が相補い合いながら、『彩』を深めてゆけたならという『祈り』のことだ。僕達はこの『ロジカ』の世界で、強者への意志。拡大への意志。繁栄への意志。そういったプログラムから少し離れることになったとしても、そっと大事な存在に無償の優しさを向けることができるんだ。そのような『たましい』がこの『ロジカ』の世界で徳行を行う時に世界に生まれ出づる徳分――『善なるゆらめき』のようなもの。それが」



――オントロジカ(ON-to-Logica)だ。

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