173/母より

 ジョーが母親の部屋をノックすると、「はいはい」と気楽な返事が返ってきた。


 二台並んだモニターの前で、翻訳の仕事中だった母は、一通りキーを叩いたりマウスをクリックしたりして作業を落ち着かせると、ジョーの方を向き直った。


「何?」


 ジョーは直球で聞いてみることにした。母が、あるいは家族が自分に隠し事をしているとしても、自分自身は率直であろうと。


「古い、本があったはずなんだ。人から譲り受けたものなんだけど」


 続いて、記憶している限りで、スヴャトから譲り受けた本の題名を口にしてみる。


「ガリレオ・ガリレイ『星界の報告』。

 ジュール・ベルヌ『月世界へ行く』。

 H・G・ウェルズ『宇宙戦争』。

 そして、

 コンスタンチン・エドアルドヴィチ・ツィオルコフスキー『エチカ』」


 母はそっと目を伏せると、机の上のコーヒーに口をつけた。


「知らないわね」


 母・カンナは翻訳稼業に没頭している仕事の人であるようで、子供が仕事場を訪れた時は、必ず仕事を一旦ストップして丁寧に話を聞いてくれた。


 そういう宮澤家の文化があるので、ジョーもカレンも本当に大事な話がある時しか母の仕事部屋は訪ねないし、逆に、母の方もそれでも訪ねてきたということは、大事な話があるのだと理解しているはずだった。


「こっちのマンションに引っ越してきた時に、だいぶ本も始末したから。その中にあったんじゃないかしら」


 そんな母だが、今日はジョーが投げかけた言葉に対して、意図して「ズラした」ポジションを取っているように感じる。


 ジョーは、もう一歩踏み込んで尋ねる。


「スヴャトっていうお爺さんを知らないか? 顎鬚にリボンをつけたりして、ちょっとファンキーな感じの。昔、世話になったはずの人なんだけど」


 母親の反応は冷静沈着。


「知らないわ」


 突き放すように、端的に答える。

 そして、吐き捨てるようにこう呟いた。


「夢想っ」


 一瞬。知らない母親の顏を見た気がする。


「ジョー、あのね」


 母はすぐにいつもの柔順な態度に戻ると、親、つまり子供を導く責任がある者としての顏でこう言った。


「昔読んだ本の空想に浸るのもイイけど、今年の夏は日本史や世界史を勉強したいって言ってた話はどうなったの」


 塾や予備校に行くよりも、自分で歴史の勉強をしてみたいと両親に言っていた件である。オントロジカにまつわる様々なことがあったので忘れかけていたが、その気持ちは今でも変わっていない。


「それは。そんなに進んでないんだけど……」


 この話はジョーに分が悪い。歴史の教科書を学校から持ち帰っては来ていたものの、通読するにも至っていなかった。戦艦陸奥のこと、エッフェル塔のこと。もっと知りたいとは思っているのだけれど。


 母は、話をこう結んだ。


「お母さんね。苦しいことがあっても、『ここではないどこか』へ逃げないで、耐えながらも逆風の中を歩き続けられる人。忍びながらもコツコツと積み重ね続けられる人。ジョーにはそういう『強さ』を持った人になって欲しいと思ってるんだよ」

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