第八話「夢星」(前編)

161/結婚したいなぁ

 第八話「夢星」(前編)


 二〇一三年・八月十一日。


 朝からリビングルームのテレビは、今日でちょうど震災から二年と五か月が経ったという事実を伝え、東北各地の現在の様子を映している。


 大きな破綻的な出来事からの修復の過程はそれ自体が非日常的であるけれど、その光景が生活に隣接したままここまで過ごしてきた点で、それはもう、その場で暮らしている者達にとっては日常になっている。


 そんな複雑な心象の中、ちょうど今朝がた、ジョーには思い出したことがあった。スヴャト、という親しかった老人のことである。アンナお祖母ばあちゃんは異国の人だし、その血を継いだ母も、姉のカレンも金色の髪に青い瞳は異国人めいている。そんな異国の風貌・雰囲気に慣れているジョーでも、スヴャトは異国人として、何か背景が違う人間に感じられた。「異」という字が、「異質」であったり、「異端」であったりに使われるのが意識される。スヴャトはそんな人間だった。


 何か、変だ。


 冷水で顔を入念に洗いながら、ジョーはこのざわつきに思いを馳せる。


 今日が、震災の日からの区切りの日付だからか?


 もうすぐ、蝶女王・エルヘンカディアが予告した二週間の猶予期間が終わり、真実しんじつ大王だいおうが襲来してくるからか?


 少し違う。この不安の源泉は、自分自身にある。忘却していたということ。それが受け入れ難くて、心が乱されている。どうして自分は、スヴャトのことを忘れていた。


 思考がその次の段階に入り、不安は恐怖に変わる。自分が忘却していただけに留まらない。何故、周囲の人間はそんな忘却した自分を、そのまま受け入れていた。


 ズキリと、左手首に生まれた昇竜のアザが痛む。


(何なんだ、いったい?)


 思わず、洗面所でうずくまる。過ったのは、牛人との戦いの最中、アスミが言っていた言葉だ。「なかったことになる」と、アスミはそう言っていた。


 本があったはずだった。空想小説から、難しい学術書に至るまで。「宇宙」に関するスヴャトから譲り受けた本が。


 しかし、今はどこにもない。スヴャトの痕跡が、自分の周囲から消えてしまっている。


 メディアからは震災復興のニュース。けれどもジョーは、そんな世界や社会の話題よりも、自分のことでいっぱいだ。消えてしまったのはスヴャトのはずなのに、何故だか自分という存在も脅かされているように感じる。


 ぐるぐると廻る思考。焦燥。


 そんな時に、リビングルームに併設されているキッチンの方から声がした。


「ジョー、ご飯だよ~」


 カレンの言葉。というより、彼女が纏っている彼女のリズムのようなものが伝播してきて、ジョーの不安はひとまず治まった。


 いたずらに家族に心配をかけるのも違う。そう思って、たった今まで襲われていた恐怖心に一区切りをつけ、ジョーもいつもの調子で食卓に向かう。


 テーブルには朝の着替えを終えたアンナお祖母ちゃんが座っており、丁寧に箸やスプーンを並べて、カレンが朝食を運んでくるのを待っていた。


「今日のお味噌汁は、煮干しと、この前買った減塩出汁のもとのミックスがベースなのだ」


 陽気に和風のお椀を運んでくるカレンは、鼻歌なんかを歌っていたりして。


「姉ちゃんは、元気だな」

「そういうジョーは、ちょっと元気ないね。何。悩み事?」

「悩み事くらい、ある年頃なんだ」

「ふーん?」


 すると、アンナお祖母ちゃんが麻痺側じゃない手でスプーンを使って、煮魚をほぐしてジョーの皿に置いてくれた。たんとお食べ、ということらしい。


 やがて、カレンも食卓に着いて手を合わせると、食事時の歓談になる。


「ああ。結婚したいなぁ」

「そんな。朝からおもむろに言われても」

「しみじみ言いたくなってしまう、年頃なのさ」

「へぇ」

「アンナお祖母ちゃんは凄いよね。結婚して、孫まで繁栄して。私、全然そういうイメージが持てない」


 カレンが真顔でアンナお祖母ちゃんに話題を振る。ジョーとしても分からないでもない。普通の結婚とか。普通の収入とか。当たり前に誰もが受け取れるかといったら、社会はもうそんな局面にないことが、カレンよりも年少のジョーにも理解できていた。


 アンナお祖母ちゃんはゆっくりと発音して、英語で「私も確信はなかった」と返事をした。そして、「Thanks」と続けて、ニコニコっとカレンを見て笑った。


 アンナお祖母ちゃんのまなざしは、カレンのみならず、ジョーをも安心させるものだった。


 ジョーが口をつけた煮魚は、アンナお祖母ちゃん用に、相変わらず塩分は控えめ。それでも満たされるから、伝えておいた。


「姉ちゃん。これ。美味しいよ」

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