第四十五章 31

 先に仕掛けたのはクリシュナだった。互いに間合いを縮めていく最中、クリシュナが地面を強く蹴り、上体を深く沈めて一気に間合いを詰めに駆け出した。


(若さと瑞々しさが溢れている。いいものだ)


 馬吉はクリシュナから放たれる鋭いオーラを見て、歓喜した。


(何よりこの闘気。私の若い頃を思い出す。私にもこんな時があった。そんな若さを摘み取る哀しみと悦び、たまらんよん)


 自分の攻撃の制空権にクリシュナが入ったその瞬間、馬吉は大きく、速く、クリシュナよりはるかに強烈な闘気を込めて、一歩を踏み出した。

 馬吉のその一歩踏み出す所作だけで、クリシュナは圧倒された。形容しがたい何か巨大で恐ろしいものが、目の前に突如として現れ、自分を押し潰そうとしているような、そんな感覚に捉われた。


 クリシュナの顔面めがけて、馬吉の右腕が突き出される。腕は回転していたのが見てとれた。そして自分の顔がえぐられて即死するイメージがクリシュナの脳裏によぎる。


 馬吉の手が迫る最中、クリシュナの上体がさらに沈み、走る速度が鈍る。

 体が自然に動いていた。死のイメージが体の機能のスイッチを入れて、回避を促していた。


 上野原流古武術の名も無いこの必殺奥義は、極限まで鍛え上げた手をスクリューの如く回転させて、肉も骨も粉砕する。

 この技を放って人体を破壊する瞬間が、馬吉は好きだ。そしてその光景を他者に見せ付けて、恐怖の反応を見るのも大好きだった。


(ぎりぎりとはいえ、よくぞかわした。やはりこいつは将来有望よん)


 心の中で称賛を送りつつ、馬吉は体を反転させて後ろ回し蹴りを放つ。


 今度はかわすことはできなかったクリシュナだが、腕で防御したので、直撃を食らわずに済んだ。しかしその体は大きく横に傾く。


 何とか踏み留まって、倒れそうになった体を維持するクリシュナ。そこに馬吉がまた攻撃を仕掛けてくる。振り向き様の裏拳がクリシュナの肩の下に当たっていた。上腕骨が軋む。


 馬吉が動く度に、周囲の空気までもが破壊されているかのような、そんな錯覚をクリシュナは覚えてしまう。それほどこの老人の動きは、速く、鋭く、暴威に満ちている。


 完全にひるんだクリシュナに、さらに一歩踏み込む馬吉。同時に馬吉の体が若干沈み、体が大きく伸びて、手が回転されながら突き出される。

 馬吉はクリシュナの喉を狙っていた。

 クリシュナはかわすことができなかったが、反射的にククリナイフで喉元を守っていた。


 そしてクリシュナは信じられない体験をした。ナイフが破壊されて破片が飛び散り、クリシユナの下顎の骨も砕かれた。

 クリシュナの体が大きくのけぞり、血を撒き散らしながら仰向けに倒れる。


 顎の皮も肉もえぐられ、骨もが砕かれるという、目を覆いたくなるような重傷を負い、大量の血を噴き出してはいたものの、それでも喉をえぐられて死に至ることだけは防ぐことができた。


 クリシュナが馬吉に向かって駆け出してから、現在に至るまでの時間は、わずか五秒程だ。あっという間に勝負が決まった。一方的に攻められ、何もいい所無しで終わってしまった。

 自分が敗北したと、クリシュナの脳は受け入れてすらいなかった。得物を破壊され、何もできずに倒され、極悪なまでに力の差を見せ付けられた事に、脳が追いついていない。


(どうしたものか……)


 戦闘不能となって呆けているクリシュナを見て、馬吉は迷っていた。


 馬吉は非常に気まぐれな性格をしている。発展途上の才能のある若者を殺してしまうのも好きであるが、見逃してやりたいと感じる時もある。つい今しがたまで、才能の芽を摘んでしまおうと思っていたのに、今はその気が無くなっている。


「おーい、勝負ついたぞー。もっと強いのはいないのかー?」


 敵兵士のいる家に向かって銃を撃っている新居達の背に、馬吉が声をかける。


(あのクリシュナが……)


 無残な姿で倒れているクリシュナを見て、真は絶句していた。クリシュナとは何度も近接戦闘の訓練をした真だが、一度も勝ったことはない。サイモンと李磊とシャルルには及ばないが、近接戦闘だけならば、新居とアンドリューにも勝る腕の持ち主だ。


「あっちは済んだな。思ったより早かった」


 敵から銃が撃たれなくなったのを見て、新居が呟いた。


「待ってろ。じーさん。今こっちの取っておきのが来るからよ」

「ほほー、そいつは楽しみだよん」


 新居の言葉ににやりと笑う馬吉。


「いや、暇なら待ってなくていいけどよ」

「どっちだよん」


 新居の言葉がツボにハマって笑う馬吉。


 一分後、家の中に直接潜り込んで中の兵士達を仕留めてきた李磊とサイモンが、戻ってくる。


「シルバー・ウルフか」


 長身マッチョの老人を見て、李磊がその名を口にする。


「サイモン、クリシュナがタイマン張って負けちまった。仇取ってやれ」

「そんな遊びしてていいのか?」


 新居の命令に、サイモンが微笑を浮かべて肩をすくめる。


「全員で銃撃ってもすぐ逃げちまうから、タイマンで遊んでいる間に仕留める方がいいんだとよ」

「了解」


 新居に促され、サイモンは馬吉の前へと進み出る。


 その脇をすり抜け、新居が倒れているクリシュナの元へと駆け寄った。馬吉の横も平然とすり抜けていく。


「クリシュナ、お前は最強の男になりたいんだってな? じゃあここで気絶せず、サイモンの戦いをじっくり見ておけ。俺の知る限り、あいつこそが最強の傭兵だからな」


 クリシュナの手当てをしながら、新居が力強い声で告げた。

 クリシュナは新居の言葉に従い、必死で意識を保って、向かい合うサイモンと馬吉を凝視した。


 身長180を優に超える馬吉に比べ、身長160のサイモンでは見た目的には見劣りしそうなものだが、サイモンの内に秘められたる力がオーラとなって放たれ、向かい合う馬吉にも、見ている傭兵達の目にも、見劣りさせることがない。


(それどころか……こいつの気に、私の方が圧倒されているよん)


 生唾を飲み込む馬吉。手の先が細かく震えている。本能がすでに力の差を理解している。


(私の三分の一も生きていない若造相手に……)


 対峙しただけで震えている事を受け止め、馬吉のブライドが激しく軋む。これまで多くの者と戦ってきたが、母親以外では、自分より強い相手と戦ったことは無かった。それは運が良いとも悪いとも言える。


 先に馬吉から踏み込み、腕を振るった。回転させながら、サイモンの喉をえぐらんとする。

 馬吉はただ踏み込んだだけで、相手を圧倒させる。クリシュナは戦ってみて、それを強く感じた。強烈な気に満ち溢れている。


 だがサイモンは涼しい顔で、馬吉の圧力などまるで感じないように、自身も力強く踏み込んでいた。


 サイモンの優れた動体視力は、馬吉の攻撃を完全に読んでいた。

 サイモンの卓越した反射神経は、馬吉の攻撃に完全に対応していた。

 サイモンの並外れた瞬発力は、馬吉の速度を完全に凌駕していた。


 馬吉の必殺の奥義は空を切り、懐に飛び込んだサイモンの放ったフックが、馬吉の脇腹に突き刺さっていた。

 20センチ以上も身長差があれば、体重差体格差により、攻撃の重みも、受け止める厚みも全く異なってくる。しかしサイモンの拳の一撃は、自分よりはるかにガタイのいい馬吉を大きく横によろめかせているという現実。


 馬吉の喉の奥から血が逆流し、口の中までこみあげてくる。


(重い……強い……)


 鋼鉄のボールを至近距離から高速で撃ちこまれたような、そんなイメージをする馬吉。


 根本的に別生物であるかのように感じられた。サイモンが身体能力の全てが自分より勝っていると、拳の一発を受けただけで、馬吉は認めてしまう。


(才能の差というものは歴然とある。母さんを見て、それは私も知っていた。あのような化け物がいて、どんな努力も笑い飛ばしてしまうと。今まで私は母さんの他に……会わなかったがな)


 八十年以上生きて、ようやく二人目に巡り合ってしまった事を、馬吉は実感する。


 倒れそうになるのを踏みとどまり、馬吉は顔をしわくちゃにした必死の形相で、サイモンの側頭部めがけて膝蹴りを放つ。


 サイモンの目には、その動きがはっきりとわかってしまう。読めてしまう。サイモンから見れば、それは遅い。ぬるい。

 馬吉とクリシュナで力の差が歴然としていたように、サイモンと馬吉でもまた、力の差が歴然としていた。


 ふと、サイモンは昔のことを思い出す。


 サイモン・ベルという男は、生まれつき恵まれた身体能力こそ持っていたが、十代後半までは、飛びぬけて優れていたというほどでもない。

 学生の頃にボクシングに手を出したが、そこそこに勝てた程度だ。負ける事が多かった。そしてスポーツとしての格闘技も武術も、自分には全く合わないと痛感した。

 完全なルール無用の殺し合いでないかぎり、体が上手く動いてくれない。逆に言えば殺すための戦いであれば、自由に動ける。傭兵学校に入り、徹底的に体をいじめぬかれ、殺すための技術を学びながら、それが自分に合っていると実感した。


 そしてある時、サイモンは覚醒した。常人では決して意識してできないような、自分の体のコントロールをできるようになった。自由に潜在能力を引き出せるようになった。

 人は命の危機に瀕した際、普段は抑えられている力のブレーキが解放され、火事場の馬鹿力と呼ばれる力を出す。サイモンはそれを意識的に出せる。しかしそれだけではなく、力の解放に耐えうるように、肉体が変化したのである。そして肉体の変化そのものによって、同時に筋力が飛躍的に強化したのである。

 それは進化であり、開花であった。人間が自らの意志で、人間の一段階上へと登った瞬間だった。


 一時期はサイモンも強さを求めたし、執着もした。しかし一段階上へと上がり、他のほとんどの人間が自分に及ばないという現実を知り、その欲はもう失せた。

 今はもう、戦いの中で生き続けながら、仲間達と楽しく過ごせていればいい。サイモンの中にある気持ちはそれだけだ。


 だからいつも、サイモンは自然と笑っている。気の合う仲間達と過ごせる時間が楽しくて嬉しくて、いつも優しく朗らかに笑っている。

 強さを極めた男は、同時に、明るさと優しさと温かさも極まっていた。


「なっ……!?」


 馬吉は啞然とした。膝蹴りを放った膝が両側から、サイモンの左右の手の親指で受け止められていたのである。


 そのうえサイモンは親指だけで、馬吉の膝関節を外している。


「おおお……」


 サイモンの親指が外れると、馬吉は激しい恐怖と混乱を覚えつつ、片足だけで立って、よろめきながら呻く。


 隙だらけの馬吉の腹部に、サイモンの蹴りが突き刺さった。


 人間の蹴りとは思えぬ威力。強力な射出機械で、鉄の棒が打ち込まれたかのような蹴り。内臓の幾つかが破れ、先程とは比較にならないほどの大量の血が馬吉の口から吐き出され、白目を剥き、うつ伏せにへの字になって倒れる。


 完全に戦闘不能となった馬吉の頭部に、サイモンは銃を突きつけ、引き金を引いた。

 びくんと大きく一回その体が痙攣し、その先は動かなくなる。銀色の頭髪が赤く染まる。


 戦場で戦い続けた――いや、戦っているつもりで、他者の命を弄び続けていた老人の命は、そこで途切れた。

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