第四十二章 23
ケイトの瞳に深い哀しみの色が宿ったような、そんな錯覚を覚える犬飼。不恰好な義眼のせいでケイトの瞳など見ることなどできないというのに。
ケイトが最新式の義眼をつけず、安物で不便で見た目も不恰好な旧式の義眼をつけているのは、自分と同様の視覚障害者達で、立派な義眼をつけられない貧しい人達と、同じ視線でものを見るためという理由である。その辺からしても、犬飼には無意味な自己陶酔であり、偽善と感じられてしまう。
「悪の自覚があったら、罪の意識が芽生えたら、その時点でどちらかを断つしかなかった。愛情と任務と両方を取って、バランスを取って綱渡り。結局いい所取りしながら、罪悪感に打ちひしがれる自分に酔って悲劇のヒロイン気取り、それがあんたの正体だ。どちらかならまだいい。ヨブの報酬のエージェントと徹してヴァンダムを騙し続けるか、ヴァンダムを取ってヨブの報酬に背を向けるか。自分に酔うためだけに、両方取っているから最悪だわ」
犬飼の指摘をケイトは真に受けていた。犬飼は、女は自分の非など認めない生き物だと断言していたが、ケイトは真摯に己を見つめなおしている。
自分に酔っているなどと全く意識していなかったが、言われてみて、思い当たる節はあった。完全にヴァンダムを取った今だからこそ、犬飼の指摘も正しいと受け入れられる。
「そういう奴は一番タチが悪い。無自覚に誰かを裏切っていても、あるいは傷つけていても、罪の意識がまるでないから、無尽蔵に罪を重ねていく。あんたとヴァンダムの間でどんなやりとりがあったか知らんが、それは思い知ったんじゃないか? それとも騙し続けていた方がよかったか?」
「イイエ……」
結果オーライとはいえ、あのまま夫を騙し続けていたよりは、今の状態の方がよい。騙し続けている意識で、罪悪感を抱いていた時より、心が楽だ。
ケイトが恐ろしいと感じるのは、犬飼が口にしたこと――自分が罪悪感に酔って、楽しんでいたという事だ。ケイトはそれを否定することができない。悲劇のヒロインのような意識は確かにあった。己の中の罪悪感を、悲痛を、弄んでいた。
「あんたの質問に対して言えることはこれくらいだ。俺は許せなかったし、許す気も無かった。俺は真実を知っていたから、そいつをあんたの旦那に曝露した。そうしたらこのザマだ」
血の滲む腹部を押さえて笑う犬飼。
「あんたの旦那は何でこんな回りくどいやり方で俺をハメたか、理解してる? 俺は理解してるけど? 旦那から聞いてる?」
「モチロン聞いてマス」
神妙な顔でケイトは頷いた。
「ヴァンダムの旦那の頭の中では、俺が書いた小説と同じシチュエーションをこさえて、それを作者である俺が脅えてぴーぴー泣き喚いて、必死こいてビルの中を這いずりまわってミッションを解く姿でも、思い描いてたんじゃないか? ヴァンダムだけじゃなく、肝杉の息子も靴法もな。ま、目論見がはずれて残念賞だね。悪趣味な作家が作った世界を再現し、その作家を弄ぶという悪趣味な計らい。しかし当の俺は余裕かましまくって、未だ健在。今どんな気持ちでいるのかねえ? 滑稽すぎて涙が出そうだよ」
「お前、そうやって精一杯悪ぶってるの、いい加減痛々しいぞ」
聞いていられなくて、つい口出ししてしまうバイパーであった。
「悪ぶってるだけじゃあない。いろいろ頭にきてる部分もある。無関係な大日さんを巻き込んだ事とかな。それと、俺をハメようとするのは別に構わんが、こんな悪趣味なやり方なのが気に入らないんだ。俺も低く見られている感じだし」
悪ぶっていたと認めている発言をしている事に、犬飼は気付いていなかった。
「怒るポイントがあほらしい……。それとお前の女性観は歪みすぎだ。ちゃんと非を認める女だっているよ」
十年以上経った後にな――と、口に出す事無く付け加えるバイパー。
「犬飼さんハ不思議な人デスね。善人でもアリ、悪人でもアル」
穏やかな表情になって言うケイトを見て、犬飼は嫌そうな顔になる。
「つーかお前の話を聞いても、俺には理解できねーな。何でケイトが偽善者なんだか……。普通に善人だろ。ヴァンダムを騙していたのだって、罪悪感を抱いてたんなら、好きでやってたわけじゃねーだろ。苦しみながら迷っていたんだろうが」
バイパーが疑問をぶつける。
「俺はいつもいろんな所でいろんな奴に言うんだが、やらない善よりやる偽善て言葉があるが、実行した時点で――誰かの助けになった時点で、それは偽善でもなんでもない、善だろう。本当の偽善てのはな、善の振りをしているだけで、誰の助けにもならないどころか、特定の人を傷つけるとか、もっと深刻な害をもたらす行為や思考のことだ」
「それならなおさらケイトは偽善者じゃなくて善人じゃないか」
「バイパーは事情を知らないから、そういうこと言うんだわ。ケイトさんを追っていた記者は何人も殺されて、クローン化されているんだぞ。ヨヴの報酬っつー組織の一員として、聖女としてのお仕事をして、外面だけはよくして、裏では汚れ仕事をする。これが偽善者でなくて何だっつーんだ」
「それでも弱者の支援活動もしてるんだから、いいんじゃね? お前が今言ったろ。誰かの助けにはなっているんだ」
「だから……。いや、もうどっちでもいい。議論してる時間もねーし」
バイパーがケイト寄りの立場で物を言ってきたので、犬飼はげんなりする。
「最後ニ一つだけお聞カセください。ドウシテそんなに偽善を嫌うのデス?」
ケイトの質問を受け、犬飼は重苦しい気持ちになる。
「元々俺は偽善に拒否反応なんて無かったよ。むしろそれを作中で茶化してた。でも……俺のファンが、不謹慎厨共のせいで傷ついたり怒ったりしているのを見てさ、ああ、これが偽善なんだって、思い知った。善の振りをして、善のつもりでいるが、しかし疑いようの無い悪なんだってな。それからだ。俺が偽善に怒りを覚えるようになったのは」
「なるほど……自分ノこととナラ我慢できても、他人が傷ツクのは我慢デキナイ、そういう方ナノですね」
安心したような顔で言うケイトを見て、犬飼はさらにげんなりする。
「うるさいよ。わざわざ口に出して言うな……」
「お話デキテよかったデス。犬飼サンには犬飼さんノ正義があったのデショウ。私は胸にツッカエテいたものが取レタ気分です」
「だからうるさいって。俺は未だにケイトさんのことは嫌いだからな。いや、今のあんたはもう変わったのかもしれないが、以前のあんたは好かなかった」
「ワカリマシタ。お話シテくださって、ありがとうゴザイます」
いやそうな顔で話す犬飼に、ケイトは深々とお辞儀をした。
「大日さん、危険な目に合わせてすみません。俺の正体知って軽蔑したでしょ?」
二夜の方を向いて、犬飼が申し訳なさそうに声をかける。
「いいえ……いろいろと驚きはしましたが、先程のやりとりを見た限り、やっぱり完全に悪人というわけじゃないんだなあって、ほっとしました」
「それも大日さんの目を気にしての計算かもしれないよ?」
笑顔で思ったことを述べる二夜に、犬飼は冗談めかして言った。
「ああ、大日さん、今までどこにいたか言えるか?」
「はい、四階の404号室です。ヴァンダムさん達だけは、エレベーターが使えるようになっていますが、私達は階段で移動しました」
犬飼の質問に、あっさりと答える二夜。
(何つー間抜けな話だ……。ケイトが馬鹿したおかげで手間が済んだ。いや……馬鹿は俺だな。いくらなんでもケイトがヴァンダムに俺と会った話をしないわけがないし、移動するだろう。しかし……移動方法がわかった今、移動場所は限定される)
いる場所を堂々と聞いた己のうっかり具合がおかしくて、犬飼は笑ってしまう。
「二夜サンはロビーまで私が連れて行きマスね」
と、ケイト
「俺達もロビーが最後の目的地だが、他の階に野暮用があるから、一緒には行けないわ。大日さん、気をつけて。ホテルを出たら警察に行くとか余計なことは絶対するなよ。あんたの身が危なくなる」
「犬飼さんは逃げないんですか?」
二夜に尋ねられ、犬飼は不敵な笑みを浮かべた。
「俺はヴァンダムと決着をつけるつもりでいるからね。俺の勝利を祈っておいてくれ」
「はい……」
ケイトの目を気にしつつ、頷く二夜。
「野暮用って何だ?」
ケイトと二夜がいなくなった所で、バイバーが尋ねた。
「キッチンにな……。いろいろと取りに行く。ロビーのダンボール箱の中のものだけじゃ心許ないし」
ロビーに置きっぱなしであったし、ヴァンダムらに調べられて、取られている可能性も、犬飼は考えていた。
***
ホテルの中をふらふらと彷徨う靴法。
靴法は確かに実感していた。自分の中にいる別人の心の影響を受け、自分が自分ではなくなっている事を。人格からして変わりつつあることを意識していた。
考え方も感じ方も、自分のそれとは違っている。それが理屈で理解できる。
それはとてもおぞましいことだと、普段の靴法なら感じたであろう。しかし今の靴法は、今の自分の変化を受け入れていた。すでに覚悟のうえであったというだけではなく、実際に自分の心が変化してしまえば、それが今の自分なのだ。その変化を嘆く理由は無い。
二人の想いは混ざって一つになった。清々しい気分だ。
「待っていなさいよ~ん、犬飼一」
男の声でもって、女の喋り方で呟き、靴法は楽しげに笑いながら、ホテルのどこかにいる犬飼を探し回っていた。
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