第四十二章 7

 再び最上階である九階から、階段で一階ロビーへと向かう犬飼。


「往復とか……これだけでもしんどいな。しかも今度はこれかぶって移動だし……」


 ダンボールをかぶって中腰で階段も廊下も移動し続けるのは、かなり辛い。

 すでに制限時間はオーバーしているが、刺客が襲ってくることはなかった。


(今殺したら向こうにとって都合が悪いもんな。現時点では殺されるわけがない。そして俺がそれを見抜いて、わざと遅らせていることも、向こうもわかっているし、それでイライラしてるかな? そんな気がする。いや、それはいささか楽観視気味か? ま、やきもきしてくれれば、こっちには都合がいいね)


 そんなことを考えている間に、やっとロビーへと到着した。


「亀になった気分だぜ」


 ダンボール箱をめくり、犬飼は呟く。箱をロビーの隅へと追いやっておく。


 ダンボールの中は二重底の仕掛けにしておく。そしてフェイクとして、包丁やアイスピックを箱の底に置いておく。しかし本命は、二重底の中に隠されたお手製爆弾とお手製毒ガスだ。


(こんな二重底の仕掛け、気付かれる可能性も高いけどな。包丁とアイスピックを隠しもっていたとして、そっちで満足してくれればいいけど)


 敵が用心深くないことを祈る犬飼であった。


 それからロビーで所在なげにしていると、また完全武装の兵士達が現れる。


 そして兵士達の間から、見覚えのある精力的そうな白人の中年男が姿を現した。コルネリス・ヴァンダムだ。

 冷ややかさと激しさが同居した憎悪の眼差しを向けられ、犬飼は嬉しそうに笑みをこぼす


「おやおや、悪事の首魁が自らお出ましか」


 このタイミングで現れるとは正直思っていなかった犬飼であるが、特に動揺はしていない。


「君とは是非会ってみたかったものでね」

 怒りを押し殺した声を発するヴァンダム。


「危険だとは思わなかったのか? ハメる相手と同じホテルにわざわざいるなんて」


 そう尋ねる犬飼であったが、多分いるだろうと考えていた。恨みを持つ者が相手であるなら、近場でチッェクしたいはずだ。


「何が危険だというのかね? 私には見てのとおり私兵が揃っている。君は一人だ。銃を持っていない事も確認済みだ。これでどう、私の身が危うくなるというのかね?」


 ヴァンダムが肩をすくめ、口角を片方吊り上げて、皮肉っぽく笑う。

 それを見て犬飼も嘲笑を浮かべる。


「ハメるのは好きだが、ハメられるのも好きだなあ。もちろん、ハメられっぱなしは嫌だけどね。ハメ手を使ってきていい気になってる奴――自分は安全圏にいて絶対大丈夫だと、何の根拠も無く思い込んでいる奴に、逆襲してやる時のあの快感がたまらない。勝ち誇ってだらしない冷笑を浮かべていた奴が、あっという間に青ざめて、みっともなく慌てふためく姿は最高なんだぜ?」


 それが未来のお前だと言わんばかりの犬飼の不遜な台詞に、ヴァンダムの顔から笑みが消え、興味深そうな顔になって、顎に手を当てた。


「ふむ。つまり君はこの状況でなお、私に反撃し、私を殺そうとしてくると? その算段がついていると?」

「どうだかなあ。いずれにせよ、あんたは案外危機感無いんだな。自惚れ屋っていうか、思い上がりが激しいっていうか。あ、意味はどっちも同じか?」

「ふむふむ。わざわざそんな挑発をしてくるのは……私にここから立ち去って欲しいと考えているのかな?」

「まさか。あんたが戦力差に自惚れている時点で、それは有りえないだろう。ただの伏線だよ」

「伏線?」


 ヴァンダムが怪訝な声をあげた。


「あんたがこのビルの中で破滅する時、今俺が言ったことを思い出して、後悔しながら死ぬための伏線。死ぬ時の悔しさが倍増するようにな」


 笑顔で言い切る犬飼に、ヴァンダムの顔にも笑みが戻る。


「実に面白いな。そして興味深い。どんなことを企んでいるのか、是非知りたい所だ。そして私からすれば、君のその考えこそが思いあがりだ。あるいは気が狂って妄想の世界にでもいってしまったのかな?」

「妄想上等。俺はかつて妄想を物語に変えて、人を楽しませる仕事をしていたんだぜ? しかしそれじゃあ物足りなくて、現実の物語を創るようになった。俺の創った物語に、あんたら夫婦も組み込まれ、その中で踊った。どうだった? 俺のストーリーは楽しかったか?」

「それに関しては、後で聞こうと思っていたよ」


 犬飼のその露骨な挑発にも、ヴァンダムは笑顔を崩さない。


「皆が優しくあれば、人を思いやれる心があれば、良い世界ができる。君はそんな文を書いておきながら、やっていることはそれとは真逆だな」

「それは真理だからな。しかしその真理が実現した世界は、退屈な理想郷でもあり、俺が一番望まない世界でもある」


 ヴァンダムが自分の書いた小説の文章を引用してきた事に、犬飼は気恥ずかしさを覚えつつ、思っていることを正直に述べた。


「では……私の一番聞きたいことに答えてもらおう」


 ヴァンダムが目を細め、口元から笑みを消す。


「何故、私にケイトの素性を教えた? 正義のためか? 警告のためか? それとも恨みでもあるのか?」

「全部外れ。ただ、あんたの奥さんが気に入らなかったから。そして、俺はスイッチを押せる立場だったから」

「意味がわからんな。抽象的表現は控えてくれると嬉しいね」

「あんたの性格はわかっていた。馬鹿丸出しにカミさんを女神の如く崇拝する、度の過ぎた愛妻家。でもそんなあんたの抱く幻想が、最悪の形で崩れた時、どうするか? あんたはケイトさんを殺すと俺は読んでいた。しかし読み違いだったかな? あんたが俺を恨んでいるってことは、ケイトさんは自殺でもしたのか?」

「質問しているのはこちらだ。まずこちらの質問に答えたまえ。今の言葉では答えになっていない」


 少し焦れったそうにしているヴァンダムを見て、犬飼はほくそ笑む。


「今のが答えだよ。これが答えになってないと言うのなら、あんたの物差しは短いってことだ。俺という人間が理解できない。あんたのチンケな物差しでは測れない。そうだろう?」

「ふー……」


 大きく息を吐き、何度も首を横に振るヴァンダム。


「確かに君の言うとおりのようだな。確かにそうだ。私には君という人間など、全く理解の範囲外だ。しかし理解できないにしても、認識はできた。私は……五十年以上生きてきて、君ほどおぞましく、そしてくだらない存在を知らない。初めて見た。ここまでふざけきった人間が世にいることにな……」

「そいつはどーも、最高の褒め言葉でございま~す」


 笑みを張り付かせたまま、手を胸に沿えて、恭しく礼をしてみせる犬飼。


「君も既婚者かね? それでいてなお私達の夫婦仲を引き裂くような真似をしたと?」


 犬飼の指にはめられた結婚指輪を見て、ヴァンダムが言った。


「俺にもカミさんはいたが……失恋の悲しみとか、愛が壊れるときの絶望なんて知らないね。あいつは俺と気持ちが通じ合ったまま逝ったからさ」


 曖昧な表情で犬飼が言う。


「君は私が君のことを理解できていないと言ったな? しかしそうでもないと私は思うよ。一つ理解していることはある」

「へえ? 何だい?」


 ヴァンダムの言葉に興味深そうな声をあげる犬飼。


「私が思うに、君は例え殺されてもへらへらと笑っているタイプだ。自分が死を迎えた時も、さほど慌てず、悲しまず、殺した相手を恨みもしない。しかし……そんな君にも、屈辱を与える方法が存在する」


 そこまで言った所で、ヴァンダムはにやりと笑った。


「君の柔らかい部分は見抜いたよ。君が一番大事にしているものが何か――それは君のファンだ。君が火捨離威BBAなどという組織を築いて、君の作品を貶めたる者達を集めて一網打尽にしたのは、自分の作品を穢された恨みではない。ファンの悲しみを受けたからではないかね?」

「何でそう思う?」


 ヴァンダムに完全に見抜かれている事に、犬飼は激しく動揺しながらも、平静を装って尋ねる。ここで初めて犬飼の心が大きく揺れた。


「他に理由が無いからだ。作品を穢された個人の恨みで動くというのも妙だ。君はどんなに叩かれても、それをエネルギーに変えてしまうタイプだと、君の作品を全て読み尽くして、つくづく感じた。逆境を好み、踏み台にする。敵にすると非常に厄介なタイプだ。規制団体に目の仇にされようと、それさえ話のタネにしておちょくっている。そんな君が、自分の恨みという理由以外で、彼等を殺害するとしたら? 理由は限られてくる」

「そうかな? 本当は、槍玉にあげられていた事で、規制派のカス共を殺したくて仕方ないくらいムカついていたのを、必死に押し殺していただけかもしれないぜ? そして我慢できなくなって、殺した、と」

「そうかな? ――という台詞をそっくりお返ししてあげよう。もしそうであれば、私がこれからすることにも、何とも思わないな?」


 たっぷりと意地悪い口調で告げるヴァンダムが、何をしようという腹積もりなのか、犬飼には大体予想が出来ていた。


「君の真実の全て、君の読者達に曝露してやることも、平気なはずだな? 君がこれまで散々人を殺してきた事も、君が裏通りの組織の長であった事も、だ。しかもあの組織は実におぞましい。『ホルマリン漬け大統領』――まさに君の悪趣味な小説がそのまま現実になったかのようではないか」

(やっぱりか……)


 犬飼は大きな溜息をついた。


「言っても信じないかもしれねーけど、ホルマリン漬け大統領をあんな悪趣味な組織にしたのは、俺じゃねーよ」

「私は別に信じてやってもいいぞ? 君の読者がどう受け取るかは知らんが」


 悪人面全開の嫌らしい笑みを広げて言い放つヴァンダムに、犬飼の方はすっかり余裕を失くし、笑みも消えていた。


「しかし君は作家の鑑とも言えるな。何より一番大事なのは、一番意識しているのが、作品の読者であるとはね」

(当然だろう。俺の魂を込めた作品を受け止めてくれた連中だ。そいつらが、俺の作品をけなされて傷ついている。目の前で涙している。それを目にした俺の気持ちなんか、語った所で誰にもわかりゃしないだろうよ)


 ヴァンダムの台詞を受け、声には出さずに語りかける犬飼。これは口にするのは、犬飼にとってかなり恥ずかしい。


「で、俺も殺すと? 死体は隠蔽して、行方不明扱いかな?」

「おや? どうして殺すと思うのだね?」

「そりゃ生かしておいたら反論もしちまうし、何より報復に、あんたの愛する聖女様の本性だって曝露されちまうだろ? いや、愛していたと過去形の方がいいのかな?」


 犬飼の指摘を受け、ヴァンダムの表情が激変した。笑みが一瞬なして消え、強張って目が細まり、眉間に皺が刻まれ、口元が引き締まる。


(あっさり怒ってやんの。もしかして……いや、やはり、こいつはケイトを殺していないのか? ケイトは自殺したのか?)


 犬飼がそう勘繰った、その直後――


 鈍い破壊音がロビーに響き渡った。兵士達が一斉に音のする方――ホテルの入り口の方に向き、銃を構える。


「撃つな」


 そこに現れた者を見て、ヴァンダムが短く命じる。彼等に制することはできないと、わかっていたが故に、攻撃をさせなかった。


「おおー、バーちゃん、よく来てくれた~。助かったぜ~」


 ライフルの弾も通さない強化ガラスの自動ドアを、いとも簡単に蹴り割り、中へ入ってきたバイパーに向かって犬飼が歓喜の声をあげる。

 だがバイパーは途中で足を止め、憮然とした顔になったかと思うと、くるりと踵を返した。


「帰るわ……」

「ごめん、もう二度と言わないから許して……」


 バーちゃんという呼び名が相当気に入らないということは、とりあえず理解した犬飼であった。

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