第三十九章 17
糸吐き女の木田はみどりの一撃で手を骨折し、泣きながら蹲っている。今の所、落ちた銃を拾いに行こうともしない。
みどりは星一郎をバイパーに近づけまいと、攻撃し続けていた。
「しゃがんで」
幸司が星一郎に指示を出す。
「おらあっ!」
みどりが薙刀の木刀を振るう。転移した薙刀がしゃがんだ星一郎の頭の上を、際どい所でかすめていった。
「次は左右どちらかに避けて、その後に跳んで」
幸司の指示に従って、足元の糸の道を踏み外さない範囲で動き続ける星一郎。転移した薙刀の切っ先で突かれたかた思うと、転移した石突(刃と逆の部分)が振るわれて足払いをかけられる。どちらも指示通りに動いたおかげで、回避できた。
(こんちくしょーめ、よくも真兄とバイパーを……ぶっころしてやんよ……)
珍しくみどりが殺意を抱き、術を唱えようとしたその時であった。
「みどり、摩擦が無いのはどのくらいの範囲かわかる?」
みどりにだけは、摩擦を消す超常の力が見えていると見なし、上美が尋ねる。
「えっとねー……」
みどりは力が伸びている範囲を教えた。
「みどりはあっちの人を警戒して、私に手出ししようとしたら援護してほしいんだけど」
「オッケイ、任せろ」
上美が星一郎に視線を向けて頼むと、みどりにかっと歯を見せて笑う。
「む……」
いつの間にかクウラチングスタートの姿勢を取っている上美に、星一郎が気付いた。
上美が摩擦消去ゾーンめがけて、全速力でダッシュをかける。
「バイパーさん、先輩、ごめんっ!」
謝罪の叫びをあげ、上美がうつ伏せに倒れたバイパーめがけて跳ぶと、その頭を踏みつけて、摩擦でバイパーの体が滑る前にさらに跳躍して、今度は真の腹を踏んで跳躍し、一気に摩擦消去ゾーンを抜けて、神沼へと襲いかかった。
糸の上は摩擦が有るのだから、倒れたバイパーと真にも摩擦が残っているかもしれないと踏んで、彼等を踏んで摩擦ゾーンを抜けることを考えた上美である。真の銃の摩擦も消えていたので、二人の体の上も摩擦も消えている可能性もあったが、平気だった。
「いや……尻とか背中踏むならわかるけど、頭踏まなくてもいいだろ……」
苦笑しつつ、バイパーは倒れたまま、乱れた髪形を直していた。
「僕なんか撃たれた腹の上近くを踏まれたぞ……」
「お、おう……」
明らかに先ほどより出血量が増えている真を見て、バイパーが引きつった笑みを浮かべて同情する。
神沼は恐怖した。摩擦消去ゾーン外まで飛び越えてきて、目と鼻の先にいる、自分の胸までも無い背丈の小柄な少女に対し、震えた。自分を見上げるその静かな眼差しは、殺意一色で染まっている事がわかってしまったからだ。
着地した際に、すでに上美は構えていた。右手を己の顔の横に添え、肘を上げ、掌は上に向けて、親指と小指は第三関節から折り曲げ、人差し指と中指と薬指は第一関節と第二関節をおおよそ四十五度程に折り曲げている
ふと、神沼は上美の手を見た。少女らしい細く可憐な手――ではなかった。掌にタコが盛り上っている。神沼の角度からは見えないが、拳ダコもできている。そのうえ小さな傷痕が手のあちこちにある。
神沼は次の瞬間、涼しい風が喉元を吹きぬけるのを感じた。そして何か大事な物が自分から飛び散り、軽くなったと感じた。
一切躊躇することなく、上美は文字通りの必殺の一撃を放った。ここで躊躇して、自分や仲間を死なすなど愚の骨頂であるとわかっていたし、最初から殺す覚悟も決めていた。
上美は蒼月祭から帰った後、これまで以上に修行を積んで、上野原古武術の奥義であるこの殺人技を、徹底的に磨きあげていた。この先もこの技を使う機会が――人と命の取り合いをする事を、上美は予感していたのである。
名前も無かったこの奥義を、上美は回天掌と名づけている。
喉の大部分をごっそりと削り取られ、喉から大量の血を撒き散らして、神沼は前のめりに倒れる。呼吸もできずに空気が抜けるような音を立て、死の恐怖と絶望をたっぷりと味わいながら、事切れた。
幸司は上美のこの動きを予知できなかった。予知による危険回避は、常に星一郎の方に意識を傾けていたからだ。
そして予知した時にはもう遅かった。何をどうやっても、神沼の運命は決まっていた。
(お、もう滑らない)
バイパーが全身の痛みを堪えて立ち上がり、みどりの転移薙刀を避け続けている星一郎を睨む。
「怠惰を尊ぶ漁師の網!」
星一郎の手よりピンクの光の網が広がり、バイパーに覆いかぶさる。電車にはねられたダメージが響いて、動きが鈍っていた事に加えて、網が広範囲に広がったので、避ける事ができなかった。
星一郎からすれば、みどりの相手で手一杯なので、バイパーをこれで一時的に封じるしかなかった。
「しゅーっ!」
神沼を殺した上美めがけて、木田が糸を吐く。
油断していたわけではないが、糸が何十本にも広範囲に拡散されたので、上美は避けようと移動したが、片足を糸で絡めとられてしまった。
「しゅーっ!」
なおも糸が何本も不規則に吐かれ続け、上美の手に、腕に、首に巻きついていく。
(これは不味いかも……)
糸を回天掌で断ち切ろうにも、肝心の手が封じられてしまった。
「しゅっしゅっしゅっ」
木田がぎょろぎょろした目で上美を見て笑う。この女性が極めて歪な精神状態にあることが、その目つきと表情だけでも伺えた。
「私の彼氏が言ってた……。女の子が一番綺麗になる瞬間は、白い糸まみれになることだって。顔に無数の糸が引いている時だって……」
上美を見てへらへらと笑いながら、木田が話しかける。
「私を何十人もの男に売り飛ばして、顔から糸が引いている私を見下ろして、そう言ってたの……。うふふふ……だからあいつらも糸に巻き取って、一人一人こうしてあげた」
いつの間にか拾い上げた銃を、上美に向ける木田。上美の顔が恐怖に強張る。
その木田の銃を、手が掴んだ。手だけ――手首から先しか無い手が、突然現れて掴んでいた。
直後、掴んだ部分が霧状になって消失した。銃身の余った部分が床に落ちる。突然の出来事に、木田は混乱する。手首から先だけの手が消える。
「純子さんっ」
ホームの階段で、こちらに向かって手を振る純子の姿を発見して、上美が歓喜と安堵の入り混じった声をあげる。
「誰かのピンチに颯爽と登場するマッドサイエンティストってのも、乙だよねー」
純子が屈託のない笑顔で言いつつ、上美と木田のいる方へと歩いていく。
実はたまたま現れたというわけではない。待っている時間に真が電話して、助っ人にと、呼び出していたのである。いつもなら純子を名指しで助っ人に呼びはしない真だが、敵のやり方に腹が立ったので、ただ殺すより、実験台として差し出してやろうと考えたのである。もっとも神沼は、それ以前に殺されてしまったが。
「オイコラーっ! 駅で暴れているバカタレはお前らかーっ!」
その時、騒ぎを聞きつけた警察官達がやってきた。
「潮時か」
星一郎が呟き、幸司に視線で合図をする。
幸司が先に逃げ、星一郎も後に続く。
「ジャンプ」
逃げながら幸司が星一郎に指示を送る。
「逃がすかあっ!」
逃がすまいと、転移させた薙刀で足払いをかけるみどりだったが、星一郎はまるでその動きが見えているかのように、逃げながらジャンプしてみどりの攻撃を避けて、そのまま階段を駆け降りていった。
「しゅっ!?」
純子が木田の首元に手を走らせると、木田の視界が暗転する。意識を失った木田の体を、純子が抱きとめた。
戦いは終わった。純子が、駆けつけた警察官達の軽い事情聴取に応じる。
「パトカーで負傷者を霧崎研究所まで運んでほしいんだけどー」
「了解しました」
安楽警察署の者は、純子や霧崎に世話になっている者が多いので、話はすんなりとまとまった。
「バイパーさん、先輩、さっき踏んじゃってごめんねー」
「ああ、いいってことよ」
手を合わせて微笑みながら謝る上美に、本当はよくないが、笑って済ませておくバイパー。真は返事をしなかった。軽く意識を失っている。みどりが真の手当てをしている。
「でもバイパーさんの頭は踏み心地良かった。いいジャンプ台って感じだった」
「コノヤロメ」
上美の頭をこつんと拳で軽く小突くバイパー。
「終わったか……踏み台にされただけしか、活躍してないな。それと雪岡を呼んだくらいか」
気がついた真が口を開く。
「真君もバイパー君も放っておいていい怪我じゃないし、今日は無理しない方がいいよー。パトカーで霧崎研究所に送ってくれるっていうから、そこで治療しよう」
「仕方ないな」
純子に言われ、真は申し訳無さそうに上美を見る。
「敵を誘き出して数を減らして、そのうえで救助とか、欲張りすぎたな。次は救助だけ優先にしよう。ごめん、上野原」
「ううん、私達の都合だけ優先はできないし、いいよ」
真の謝罪を受け、上美は笑顔で言った。
「なっ? 真兄の策とか方針て、基本迷惑な形でしょ~?」
「うるさいな。今回はたまたま失敗しただけだし、敵の数を減らすことは上手くいった」
茶化すみどりに反論する真。
「上手くいったじゃねーべ。せっかくあたしが苦労してアンジェリーナが監禁されてそうな居場所突き止めたのに、救出を後日に流して、その間に別の場所に移動してたらどーすんのって話だよォ~。真兄はマジで反省しような」
少し真面目な顔になって、みどりが諭す。
「まあ、俺達も最初にしっかりと反対しなかったし、真の案に乗ったから、連帯責任だ」
「まあ、一つのことに集中した場合もあるし、チャンスであれば二兎を追った方がいい場合もあるよー。その辺は運によって結果が左右される事もあるしさあ」
バイパーと純子が、真へのフォローのつもりで言ったが、結局自分が悪いと念押しされているので、あまり嬉しくない真であった。
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