第三十八章 8
B月4日 11:58
ダーマス佐胸が与えられた部屋は、相部屋ではない。それは断固として拒否し、個室を独占している。
佐胸の部屋には、部屋中の壁に、佐胸が描いた絵が張られている。全て鉛筆で描かれたリアルな写実画だ。実在の人物を描いている。女性が多いが、男性もいる。
絵を描いている時が、一番落ち着く。心が穏やかになる。そしてそれは顔つきにも現れる。普段の佐胸とは別人のように柔和な顔つきになっている。
メールによって作業が邪魔される。舌打ちして、見る見るうちに険のある顔つきへと戻り、ディスプレイを投影する。
『お前最近全然連絡よこさないが、元気にしてるのかよ?』
差出人の名前とメッセージを見て、佐胸の顔の険が取れ、自然と笑みがこぼれた。差出人の名はシルヴィア丹下。
『あまり元気ではない。しかし以前とは違う生活をしている。いろいろと変化はあった。それでも描いている。そっちはどうだ?』
そうメールを打ち込み、送信する。
『暇さえあれば描いてるよ。今度累も交えて、タスマニアデビルで飲もうぜ』
『互いに手が空いたらな』
嬉しいお誘いに、再び佐胸の口元が綻んだ。シルヴィア、累、そして杏とは、裏通りの絵描き仲間だが、ここの所全く顔を合わせていなかった。杏とはもう顔を合わせることもないが。
杏はフリーの情報屋として名を売り、シルヴィアは銀嵐館の当主にしてオーマイレイプの最高幹部の一人、累は引きこもりと、同じ裏通りの住人でも立場はまるで違う。対して自分は、裏通りの最底辺で生きるケチなチンピラだった。絵という共通の趣味だけで繋がっていたが、本音はいつも引け目を感じてもいる。それが苦しい。
(累は引きこもりを脱却しようと、タスマニアデビルでピアノ弾きのバイトを始めたし、最近では朝のジョギングもするようになったっていう。少しずつ進歩してる。一方で俺はどうなんだ……)
佐胸は佐胸で変化があった。まずこのような発足したての宗教団体に身を置いている。本来の自分の役割とは違うが、漸浄斎との連携もとりやすくなるし、彼のやる事にも惹かれて、彼と行動を共にするようになった。
(俺はもう人間じゃあない……)
そう意識すると、また陰鬱な気分になる。そして苛々する。
佐胸には使命があった。漸浄斎と同じ立場で、同じ者より、同じ使命を受けていた。
(その使命の先には何がある? 漸浄斎は使命を楽しんでいるが……俺は漠然とした恐ろしさを感じている。途轍もなくヤバい領域に、足を踏み込んでしまったような……)
恐怖するも、最早後戻りはできない。
***
B月2日 15:44
下校中の咲の前に、一人の女性が立ち塞がった。
咲は警戒して、いつでも能力を使えるよう身構える。目の前の女性は自分を真っ直ぐ見据えて、明らかに殺気を放っているのが、咲にもわかった。
ブラウスとジーンズという動きやすい格好をした芽塚アンナは、自分のターゲットが女子高生と知っていたが、実際に会ってみて改めて嫌な気分になった。
(私より年下の女の子を殺すなんて……)
佐胸が睦月を見て抵抗を覚えたように、アンナもターゲットが未成年と見て、激しく抵抗を感じていた。せめて同じくらいの年齢か、年上なら抵抗も薄かったであろうが。
そのうえ佐胸とは違い、アンナは裏通りの住人でもないので、佐胸とは比べ物にならないほど、荒事や殺人に抵抗がある。しかしこれが自分に課せられた使命なので、仕方がない。
芽塚アンナは二十五歳の元OLだった。
アンナはそんな自分の性分に、激しい自己嫌悪を抱いていた。そのせいで辛い目にあったことは数知れない。しかし抑制することができないし、嫌なことがあれば衝動的に男を漁る始末であった。
そんな自分の性癖をどうにかしたいと思いながら、どうにもできない日々を送っていたある日、漸浄斎と出会ったのである。
女を抱くことが出来ない体である漸浄斎は、アンナに誘惑されても笑っているだけであり、己の事情も全て明かした。漸浄斎の酷い過去を知り、アンナは軽蔑や嫌悪の念も多少は抱いたが、今の漸浄斎は好々爺であったため、過去のことなど深く考えないようにした。何より、彼は自分の助けになると約束してくれた。
今のアンナは望みがかなって、性欲が異常に昂ぶることも無くなった。だがその代償として、体内に人ならざるものを宿し、人智を超越した力も宿し、その力で戦うことを命じられた。
似たような者は何人もいる。享命会にいるだけでも、自分を含め三人。漸浄斎と佐胸。そしてあの教団の真の目的は、アンナのように、望みと引き換えに人ならざる者を体に寄生させる者を増やすことだ。
アルウラネと呼ばれる、知能を持つ寄生生物。それはアンナの中で、アンナと会話さえ行う。それが何者で、どうして同じアルラウネの宿主を襲えと命ずるのか、アンナにはわからない。しかし契約は果たさないといけない。皆がそうしているから、自分もそうしないといけない。拒んだ場合どうなるかは不明だが、ろくでもない想像しか浮かばないので、はっきりと訊ねて知りたくはない。
ここで殺害を拒めば、ろくでもない想像が実現するとして、アンナは意を決し、攻撃を開始した。
アンナがおもむろに、咲に向かって両手をかざす。かざした両手の前に、不定形に蠢く透明の塊が現れる。
それは咲がよく知る物のように見えた。咲でなくても誰でも知っている。透明で、中には泡が見える。普通、空に浮かぶものではないが、時々空から降ってくることもある。概ね全ての生物が、生命維持にかかさぬ存在。
(水?)
咲が訝った直後、二つの水の塊が、咲めがけて飛来した。
速度は大したこと無いが、まるで意思を持っているかのように、空を飛ぶ水の塊を見て、咲はぞっとする。あれがどういう攻撃をするか、想像してしまったのだ。
先も掌から赤い花びらを放つ。しかしこれは敵の頭部に付着させないと、大きな効果をもたらすことができない。ハマれば強力だが、そこに至るまでが問題だ。そのうえ敵の方が先に攻撃をしている。
花弁がアンナめがけて飛ぶ途中、アンナから放たれた水が横切る。
その刹那、不定形な水の塊がアメーバのように大きく拡がり、花弁を全て飲み込んだ。
咲の赤い花びらは、それで無力化された。ただの水だが、水の中に包み込まれ、そこから抜け出せない。コントロールできない。
そして咲の花びらを取り込んだまま、二つの水の塊が、咲の頭部へと同時に迫る。何をするかなど知れている。口や鼻から侵入し、溺れさせるつもりだ。
咲が口と鼻を手で塞ぎ、しゃがみこむ。
二つの水の塊は空中で一つになり、そして咲の頭部をすっぽりと包み込んだ。
鼻と口を塞いでも、恐ろしいことに水は耳や目から浸入を開始していた。ひょっとしたら毛穴からも入っているかもしれない。そのおぞましい感触に、咲は底無しの恐怖を抱く。
水に包まれたまま、目の前のアンナを見上げる。水越しにぼやけたアンナは、哀れみの表情で自分を見下ろしていたのが、はっきりと見えた。残酷な方法で殺すことも本意では無いということが、咲にも伝わった。しかしそれが何だというのか。これから悲惨な死に方をする事に、変わりは無いというのに。
水越しにぼやけたアンナの頭が、視界から消えた。
代わりに小太刀を振りかざしたゴスロリ衣装の少女が、それまでアンナのいた場所に現れた。
「何よ~、これ? 水ぅ?」
アンナに切りかかった亜希子が、顔をしかめる。
アンナは新たな水の塊を放ちつつ、大きく跳んでかわしていた。いや、亜希子の斬撃を避けきれず、腕を浅く斬られて血を流していた。
亜希子はというと、自分に放たれた水の塊を、妖刀火衣で斬り裂いていた。火衣の妖力は、アンナの能力を無効化して制御を断ち、ただの水に戻して、地面に落下した。
さらに亜希子の後ろから、睦月が雀を放つ。アンナの胸に当たる寸前に、アンナは腕でガードする。
アンナも体内に宿したアルラウネの影響で、多少は反射神経が向上しているが、睦月のように再生能力も無ければ、佐胸のように膂力や敏捷性が大きく向上しているわけでもない。
三対一という不利な状況になってアンナは逃走を選ぶ。水の壁を作り、堂々と背を向けて走る。
「あはっ、逃げられる自信あるのぉ?」
さらにもう一匹雀を放つ睦月。水の壁を一応迂回させて、アンナの背にぶつけようと試みる。
しかし、雀が水の壁に近づいた時点で、壁から水が触手のように伸びて、雀を捕食するかのように捕らえた。雀はそのまま水を突き抜けて飛ぶことができず、水を大量にまとわりつかせて、落下してしまう。
「近づかない方がいいねえ。便利な能力だよ」
現れた水の壁を見て、睦月が感心する。
「げほっげほっ」
アンナが離れたことで能力が解除され、咲の顔にへばりついていた水が地面に落ちた、激しく咳き込む咲。水の壁も崩れ落ちて、地面に大量の水溜りを作る。
「間一髪だったねえ、咲」
「そのようだ。ありがとう、二人共」
濡れた髪を後ろに撫でつけながら、咲は睦月と亜希子を見上げて無理して笑う。
「俺、やっぱり咲につきっきりでいた方がいいよ。咲を死なせるわけにはいかない。絶対」
「姉さんに申し訳が立たない?」
「うん」
意地悪い笑みを浮かべて問う咲に、睦月は真顔で頷く。
「明日は私と望もガードにつくわ~」
亜希子が言った。
「明日、望とデートの予定だったんじゃないのお?」
「そうだけど、睦月の友達を守るためなら、望だって一肌脱いでくれるはず。望にちょっと連絡してみるね」
そう言って亜希子が指輪からホログラフィー・ディスプレイを投影する。
「あっ、バーチャフォンだ。いいなあ……画像綺麗。品薄だし高いしで、とても手に入らん」
それを見て羨む咲。
「あははっ、咲も裏通りの住人になったらあ? 裏通りでは手に入れやすいよぉ」
「お断り。でも羨ましいのは事実。それより私のために人を大勢巻き込むのはやめて」
からかう睦月に、今度は咲が真顔になって頼む。
「亜希子はまあ家族だからいいけど、望まで危険に巻き込むのはどうかと思うなあ。ま、明日くらいは二人でデートしてきたらあ?」
「望にもう話しちゃったよ。二人きりのデートできなくなったのは残念だけど、そういう事情なら、四人で遊びながら護衛もいいんじゃないかってさ」
案ずる睦月に、亜希子は悪戯っぽく笑いながら告げた。
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