第三十七章 4
「脱走するからお前ら手伝えよ。ここの警備は思ったほど厳重じゃない」
留置所に入れられた裏通りの住人が、そう声をかけてきた。
まだ若い青年だ。二十歳前後といったところだろう。しかし裏通り歴は長いように、声をかけられた二人には感じられた。雰囲気で何となくわかる。腕も立ちそうだ。
声をかけられたのは、先日の捕り物で逮捕された、安心切開とチャイニーズマフィアの構成員、それぞれ一名ずつだ。
逮捕された仲間のうち二名は、尋問中に急性心不全になって死亡したと聞かされているが、度の過ぎた拷問で命を落とした事くらいは、彼等も察している。次は自分の番ではないかと、死の恐怖に怯えていた所だ。
そこにこのような話を持ちかけられたのだから、いちかばちかで逃げ出すことを試すのも、当然の流れと言えた。このまま何もせず大人しくしていたら、殺されかねないのだから。
声をかけた裏通りの住人は、いとも簡単に自分の部屋の鍵を外し、安心切開とチャイニーズマフィアの構成員の部屋の扉も開けてみせた。
「俺は昔スリで慣らした身でね。さっきこいつをパクっておいたのさ」
そう言ってにやりと笑い、カードキーをちらつかせてみせる。
「しかしここからが肝心だ。ここから先は俺一人では無理だ。手伝ってもらう」
元スリという若い男の指示に従い、二人は動く。
看守の気を引く為に物音を立てるという、ごく簡単な役割。
壁を殴り、看守が見回りに来た所を、元スリの男が後ろから回りこみ、首筋に手刀を振り下ろし、一撃で昏倒させた。
鮮やかな手並みに息を飲む二人。
「殺しといた方がいいんじゃないか?」
倒れた看守の体を引きずる元スリに、安心切開の構成員が声をかける。
「馬鹿を言うな。殺せば警察は必死になるし、捕まった時にさらに罪が重くなる。それには俺は殺しなんてしたことないし、したくもないね」
元スリは笑顔で言うと、看守の体を入り口まで引きずっていき、指紋認証と虹彩認証、さらにカードキーを使って扉を開けた。
途中で遭遇した警察官数名も、同じやり方で悉く気絶させていく元スリの男。その素早く正確な動きを見て、やはり只者ではないと、チャイニーズマフィアと安心切開の構成員の二人は思う。
「あっさり……脱走できたな」
三人揃って警察署の外に出た所で、チャイニーズマフィアの男が呻く。こんなに簡単に外に出られたのが、信じられなかった。
「無間地獄より恐ろしいと言われる安楽警察署の留置所から、脱走できる奴なんていないっていう、そんな思いあがりから油断していたんだろうさ。ここから先はバラバラに逃げよう」
元スリの青年は爽やかな笑顔で告げた。
チャイニーズマフィアと安心切開の構成員の姿が見えなくなった所で、自称元スリの青年は安楽警察署前へと戻ってくる。署の前には頭髪の薄くなった中年の刑事が煙草を吹かしながら佇んでいた。
「うまくいきました」
元スリの青年を自称して、二人を脱走させた松本が、梅津に向かってにやりと笑う。
「御苦労さん。つーか何人かが文句言ってたぞ。強く殴りすぎだって」
「でも少し強くやらないと、不審に思われるじゃないですか」
「ま、それもそうだがね」
反論する松本に、梅津は微苦笑を浮かべ、携帯灰皿に吸殻を捨てた。
***
全国の警察署の裏通り課には、元裏通りの住人であるという警察官はかなりいる。特に珍しいものではない。
竹田香苗が裏通りに堕ちたのは十五歳の頃だった。自分が頭を張っていたレディースの面々と、吸収した愚連隊を中心にして、卸売り組織を築いた。
香苗が裏通りから足を洗って警察官になったきっかけは、十七歳になって間もない時、自分のために殉職した少年課の警察官がいたからだ。抗争に巻き込まれ、香苗をかばって死んだ。
香苗達の元によく足を運び、しつこく説教をし、時に補導し、時に談話をし、気がついたら香苗はその警察官に恋心を抱くようになり、そして気がついたら自分の前で息絶えていた。
ショックのあまり、香苗は一ヶ月近く家から出られなかった。組織は放り出したままで、香苗のいない組織にいても意味が無いとして、組織から足を洗う者も多かった。
その後、香苗は警察官になる道を選んだ。
元裏通りの住人となると、それなりに軋轢もあったが、香苗は屈することなく、その力が認められ、超エリート武闘派である裏通り課に配属される。
裏通り課の刑事になってすぐに、香苗はかつて自分がトップを務めていた組織――『肉塊の尊厳』を訪れた。
組織の変化は残った構成員づてに聞いていた。構成員の入れ替わりが激しく、ボスが明らかに統率力にも商才にも欠け、組織の運営はずっと悲惨な有様らしい。
倉庫街にある組織の本拠地へと行くと、見慣れぬ顔が増えていたうえに、皆覇気が無い。香苗が長を務めていた時代の元構成員は、香苗を見て喜んだが、明らかに疲れている印象でもあった。そして彼等が喜ぶ理由は、香苗に現在のボスを諭してくれることを期待していたからだと知る。
「今更何しにきたんだよっ」
香苗の後を継いだ二代目――桜井光男は、香苗を見上げて甲高い声で喚いた。
香苗は彼の名も顔ももちろん知っていた。構成員は全て覚えている。どういう人物だったかも覚えている。光男は香苗が特に可愛がっていた子だ。だからこそ、この子が後を継いだという事が信じられなかった。
自分達の組織の抗争の巻き添えで、両親を失った少年。責任を果たすために、香苗は彼を引き取った。光男もそれを受け入れた。
香苗より五つ年下で、最初の頃は年齢的には小学生だったはずだ。その時から全然背が伸びていない事にも驚く。顔立ちも変化していない。子供のままだ。
ドジでトロくて臆病で、何より軽度の知的障害を煩っている。とてもトップに立てるような器ではない。一体どんな経緯があって彼がトップに立てたのか。
「雪岡研究所で改造してもらったんだよっ。正義のヒーローになったんだっ。しかも凄い犠牲を払って力を手に入れたから、僕に逆らおうなんてする人、ここにはいないさっ」
自虐的な笑みを浮かべ、光男は言った。力でのし上がった部分もあるが、その払った犠牲があまりにも残酷すぎて、その事実を知る構成員達は、彼に文句を言い難いのだと、香苗は理解する。
実際、光男は大きな働きをしている。他の組織と抗争が起こった際に、最も頼りになったのは光男であったそうだ。彼のおかげで香苗が去ってから、一人として死者を出していないという。
しかし香苗は容赦しない。組織の運営が上手くいかない問題点をあれこれ指摘し、改善を求めたが、光男は聞き入れなかった。
「勝手に組織を放り投げた奴に、何でなじられなくちゃならないんだっ」
「なじってるわけじゃなくて、注意してあげてるんでしょーが。今のままじゃ駄目だって、何やっても負けだって、お前もわかってるでしょうに」
「何だよう、その上から目線の言い方っ。もう竹田さんは俺の上にいる人じゃないんだぞっ」
「お前ってさ……見た目だけでなく、頭の中も小学生のまま止まってるの?」
思わず言ってからはっとした。忘れていたが、彼は少し知恵遅れが入っていたはずだと。
「ふ、ふ、ふふふざけるなようっ! 人が二番目に気にしてること言いやがって! これでも僕、少しでも皆に追いつこうと、認められようと、難しい本もいっぱい読んで、勉強もしているんだっ! それなのに……竹田さん、僕を馬鹿にしてっ! 出てけ出てけーっ! も、もう二度と……二度と……二度と……」
二度どころではなく何度も二度とという言葉を、涙ぐみながら繰り返す光男。その理由も、香苗は知っている。知っているからこそ、憐憫にも見た眼差しで光男を見ることができた。
その一方で、光男のこのいじらしさを目の当たりにすると、香苗の嗜虐心がくすぐられる。
香苗には理解できた。光男は必死に頑張る自分を褒めてほしかったのだろうと。それなのに、久しぶりに現れたと思ったら、否定してばかりで、それで傷ついてしまったのだろうと。
「二度と来るなあっ!」
「ごめんね……」
泣きながら叫んだ光男の頭を撫でながら謝罪し、香苗はかつての組織を後にした。
光男とはそれっきり会っていない。組織の本拠地はどこかへ移転してしまったうえに、香苗と繋がりのあった構成員達とも、どういうわけか連絡が取れなくなった。
それから二年後――つまり今から七年前、肉塊の尊厳は卸売り組織ではなく、裏通りでも容認されない人身売買組織へと商売を替えたと聞き、香苗は必死に彼等の消息を追ったが、その足取りを掴む事はかなわなかった。
元々卸売り組織をしていたが故に、警察の追撃を逃れるイロハをある程度は心得ていたはずではあるが、それにしても、組織のやり口を知っている自分の捜査でさえ、その痕跡が掴めないというのは、異常と思える。
ただ鞍替えをしただけではなく、何かしら大きな変革があったのだろうと、香苗は見る。あの光男に、そんなヤバい商売をできるとは到底思えない。
あれから数年の間、肉塊の尊厳を独自に追っていた香苗であるが、目ぼしい成果は得られぬままだった。組織の者を捕まえたと思っても、雇われチンピラばかり。肉塊の尊厳の本体は、社会の闇の底に、深く潜っていた。
それがここにきてようやく、その影をチラつかせた。
過去のケリをつけるためにも、組織が変わった真相を知るためにも、今こそが好機であると、香苗は見ている。
***
香苗は李磊、真、アドニスの御目付け役として、共に行動しろと命じられた。
三人を警察に呼び出し、情報交換と確認を行う。香苗は李磊に安心切開の工場の写真や映像を渡した。
「私達が撮影してきた。これでも不足だってんなら、あんたらで直に撮影してきて。それと、臓器摘出の現場の撮影は流石に認められない。曲がりなりにもうちらは警察だし、殺されそうになっていた人がいたら、それを黙って見過ごすなんてできないから」
「わかった。これで手を打つさ……」
上層部にも事情を話して認めてもらうしかないなと、李磊は思う。
「この肉塊の尊厳という組織は、宣伝もしていないし、接触方法も出回ってない。ほぼ完全に直接な口コミだけで運営されているのよ。まだ卸売り組織だった頃に、厄介なものも仕入れていて、警察にも目つけられていたから、私がそういうやり方にしたんだけどね」
「今の時代、宣伝に全く頼らず口コミだけでなんて、やっていけるのか?」
真が疑問を口にする。
「宣伝は必要だけど、宣伝に力を入れすぎるのは、私の中では負けね」
「言ってることがわからん。どういう理屈だ?」
断言する香苗に、アドニスが訊ねる。
「宣伝広告に力を入れている商品はその分、別な所で手を抜いているから、信用しない。逆に宣伝に力を入れてない良品てのは結構あるからね。宣伝まで費用が出せないだけで、その分、質を高めて信用を得ようとしているってわけよ。でも世の中の多くの人間は、宣伝に力を入れた粗悪品の方をホイホイ買いたがる、と」
(雪岡も以前、似たようなことを言ってたな)
真には香苗の言わんとしていることが、理解できた。
「宣伝に頼るなということか?」
「そうは言ってない。多少は宣伝もしないと賞品売れないし、度合いの問題よ」
アドニスの言葉に対し、香苗は言った。
「宣伝していない良品はどうやって見つけるのかな?」
今度は李磊が質問する。
「それは信頼できる独自の情報網を作ることよ。いいものを知るには口コミ経由が一番。もちろん自分で試すこともあるし、試していいものだったらちゃんと広める。そうしないと、せっかく良品を作ってくれている所も潤わないしね」
そこまで喋った所で香苗は、話題がズレまくっている事に気がついた。
「話を元に戻すけど、裏通りの情報網をフル回転して、口コミでの紹介も何度か聞いたわ。そして依頼者の振りをして囮捜査も何度も行ったのよ。ガセってわけじゃあなくて、こちらが警察だと見抜かれて、一度も引っかからなかった。全て空を切った。おかげで警察内部に裏切り者の内通者がいるんじゃないかって、散々疑われたほどよ。一番疑われたのはもちろん、肉塊の尊厳の初代ボスの私だけどね」
「日本の警察は囮捜査禁止してるんじゃなかったのか?」
「禁止されてたのかよ。刑事ドラマじゃ結構やってたけどな」
真が口にした質問に、李磊が驚いたように言った。
「禁止されてたから何? そんなしょーもない規則を守れなんて、そんな甘えは裏通り課には通じない」
「甘えなのか? それ……」
ぴしゃりと断言する香苗に、苦笑する李磊。
「どこかの馬鹿が勝手に決めた、馬鹿な規則や馬鹿な法を守ったら、それは負けだから」
嘲笑すら浮かべて香苗は言い放つ。法を守る側にいながら、そして体制側にいながら、彼女の精神は根本的にアウトローであり反体制であった。
「ちなみに日本だって、囮捜査が全て禁止されているわけじゃないのよ。囮捜査に対して消極的ではあるし、いろいろうるさい取り決めもあるけどね。違法販売のルートを探ったり証拠を抑えたりするために、客を装うとか、そういうのは有りだから。それさえも禁じられちゃったら何もできないよ」
「なるほど、そういうのも確かに囮捜査だな」
無精髭を撫でつつ、李磊は納得する。
「立派に囮捜査よ。話を戻すけど、肉塊の尊厳が警察に捕まれないための手口の多くは、私が考えたものだし、それを伝授してもある。だから私はあいつらのやり口も把握していた。例えば組織に所属する者を直接使わず、事情を知らないチンピラを雇うのは、今も昔も変わらない。でもさ、完全に痕跡を消すなんて無理。所詮は人の所業だからね」
「また話がずれてるぞ。結局どうするんだ」
真に指摘され、香苗は軽く咳払いをした。
「肉塊の尊厳と蜜月関係にあった組織二つ――安心切開と名も無いチャイニーズマフィアが、肉塊の尊厳と切れた今、この二つの組織が手がかりになると見ている。流石に彼等の頭であれば、何か有力な情報を知っているはず。特に安心切開はこれまで、肉塊の尊厳の力を借りて隠蔽され続けてきたんだからね」
「それなのに、目先の利益に目が眩んで安全面を放棄して、関係を断ったのか……」
香苗の話を聞き、呆れたように言う李磊。彼だけではなく、真とアドニスも呆れている。
「警察が今アジトを突き止めようとしている。多分判明する。方法は内緒」
悪戯っぽく笑ってみせる香苗。
「で、踏み込む前に李磊さんの到着も待つけど、安心切開とチャイニーズマフィアどっちかにしてほしい。二つの組織、同時に踏み込むつもりだからね」
「じゃあチャイニーズマフィアの方で……」
李磊としては、その名も無きチャィニーズマフィアこそが、本命であった。もちろん理想は、どちらの組織の構成員も捕まえて、本国へと送る事であるが。
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