第三十四章 22

 かつてテレンス・ムーアは世界中の戦場を駆け巡り、戦場の死神とまで呼ばれて、その名を馳せた。

 テレンスはその生存能力に抜きんでており、如何なる逆境も乗り越えて生き延びた。部隊長として部下を統率する事にも優れていたため、ミッションの成功率も高かった。身体機能も他の兵士達と比べて抜きん出ていた。


 戦場にいた時、テレンスはいろんな名前を聞いて知った。伝説を築いた兵士達の名を。


 そのうちの一人が、『デビル・グランマザー』の異名を持つ伝説の女傭兵、上野原梅子である。

 傭兵を辞めた後は鬼教官として、多くの兵士を育てるにあたったが、それも引退し、今は孫娘に己が受け継いだ武術を叩き込んでいた。


 そんな彼女とふとしたことで知り合ったテレンスは、より強くなるために、彼女に教えを請い、上野原道場へと通っていた。テレンスが日本にずっと滞在していた理由は、それだった。


 道場にて、梅子が正座して茶をすすりながら見守る中、道着姿のテレンスは一人の男と向かい合っていた。名を葉山という。


 葉山からは全く闘志が感じられない、構えてはいるが、ぼーっと突っ立っているだけのように見える。こんなタイプは戦場にもいなかったし、テレンスは初めて見る。いろんな意味で規格外の人物であった。

 身体能力に関してはテレンスの方がやや上と思えた。特にスピードにおいては上だ。戦闘技術面においては、葉山の方がやや上であると、テレンスは感じている。しかしそんなことより決定的に差が有るのは、葉山が攻撃の気配を感じさせることなく、いきなり攻撃が飛んでくることだ。


 多くの荒事士が、視覚だけに頼らず、電磁波を呼んで攻撃の気配を察知も組み合わせている。あるいは第六感も絡める。故に、葉山と戦う際は電磁波による読みが全くできず、第六感の機能もいまいち低下してしまう。動体視力だけに頼らないといけない。

 まるで存在の希薄な幽鬼と戦っているような、そんな感覚だ。そのせいで、両者の組み手では負け越してしまっている。


 葉山から仕掛けさせると厄介なので、いつもテレンスから先に仕掛けるが、葉山はカウンターも上手かった。負ける時はどこからとんできたのかわからないカウンターパンチや、気がつくと瞬時に投げ飛ばされたり極められたりといった感じだ。


 テレンスもそれなりに勝っているし、大きく引き離されているわけではないが、必死で食らいついているという印象だ。圧倒的に自分より強いわけではないが、確実に少し強い。


 その日もまるで相手の姿が一瞬消失したかと思うと、腕をとられて脇固めで押さえ込まれてしまった。


「ただいまー、あ、また二人やってるんだ」


 丁度葉山に極められた場面で、上美とアンジェリーナが道場に入ってきて、負けたところをばっちり見られてしまい、苦笑するテレンス。


「ジャップジャジャーップ!」


 葉山に解放されたテレンスのすぐ近くに、アンジェリーナがやってきて、両腕両脚を大きく広げて両手を鉤爪状にして構え、威嚇のポーズを取って叫ぶ。

 このイルカ女とは一応顔見知りであるが、向こうは明らかにテレンスに敵意を向けているので、どうにもテレンスは居心地が悪かった。


「こら、アンジェリーナ、邪魔するんじゃないよ」

「ジャッ!」


 梅子に叱られ、テレンスに向かって中指を立てた後、テレンスの側から離れるアンジェリーナ。


「葉山さん、突然消えるみたいな動きが多いですね。そういう時、大抵負けちゃう。どうしたらそんな風に動けるんですか?」


 思い切って聞いてみるテレンス。


「蛆虫ならではです。いつも僕は一人でうねうねしていますから。ほーれ、うねうね」


 予想通り、ろくでもない答えが返ってくる。しかもくねくねと気色悪い動きまで見せてくる。しかし本人はからかっているつもりではなく、真面目らしい。


「空(くう)のカウンターとでも言うべきかね。葉山がいつも使っているのは」


 梅子が腕組みしながら神妙な面持ちで言った。


「空(くう)のカウンター?」

 上美が不思議な顔をする。


「こいつは殺気無し闘気無しで攻撃ができる。それの応用で、完全に空(くう)――実体が無いと思わせる状態になって、一瞬だけ、相手の認識からも外れるようだよ。言葉にすると簡単だけどね。長生きしてるけど、あたしゃそんな芸当ができる奴は、他に見たことがないわ」


 多少のやっかみも込めて言う梅子。


「色即是空(しきそくぜくう)。形ある物――色(しき)は永遠にその形が留まるわけではなく、やがては実体が見えざる物――空と変化をする。この蛆虫男は、その境地に辿りついちまってるみたいね。達人の域さ。言っておくけど、空ってのは、何も無くなった無の状態ってわけじゃないよ。色とは目に見える形あるもの、空は存在するけど目に見えないもの――あるいは見えない力とでも言おうかね」


 わかるような、わからないような話であるが、テレンスは梅子の話を聞いてひどく惹かれた。


「それ、僕にもできますかねー?」


 目をキラキラさせて、テレンスが梅子に尋ねる。


「は? 私がこんだけ長生きして初めて見るもんだし、私にもできないし、それを……いや、まあ試してみるのは悪くないね。でも、これこそ天賦の才を持つ者でないと、無理な芸当だと私は思うけどねえ」


 そう言って、梅子は葉山の方を見た。


「葉山、もしよかったらテレンスにコツを教えてあげな。教えることができるようなもんだったらね」

「蛆虫です」

「言うと思った……」

「ジャップ……」


 梅子に促され、予想通りの台詞を口にする葉山と、ぽつりと呟く上美とアンジェリーナ。


「蛆虫の心得です。例えば人前に蛆虫が湧いて、潰さなくちゃとティッシュの方に目と意識を離した瞬間に、小さな蛆虫はうねうねな動きでも懸命に逃げて、どこかに隠れていなくなってしまう。蛆虫だって生きているんだ生きたいんだという、命の叫びです」

「わかりました。ありがとう、葉山さん」

「……わかったのかい? テレンス」


 真顔で力説する葉山に礼を述べるテレンスと、半眼で呆れたように確認する梅子。


「頑張って会得してみます」

「本気かい……?」


 にっこりと笑うテレンスに、梅子は啞然としていた。


「じゃあ私もその技、習うー。テレンスさん、一緒に頑張ろ」

「ジャップップップー」

「やれやれ」


 上美とアンジェリーナまでもが笑顔で挙手して宣言し、梅子は苦笑いを浮かべた。


***


 正美は銃を撃ちながら、少しずつ距離を詰めてきた。いずれ近接戦に持ち込もうとするつもりなのであろうが、その前に銃撃戦だけでも決着がつく気配もある。


 さらに一発、テレンスが勢いよくかがんだ頭のすぐ上を、弾が通り過ぎていくのがわかった。二回目の強運。ほんの少し遅れていれば、そしてほんの少し正美が下を狙っていれば、死んでいた。


 テレンスが二発撃ち返すも、正美は体を横に傾けながら、斜め前に踏み込んでくる。


 確実に接近してくる正美。テレンスはナイフによる接近戦に長けているが、正美の持つ銛による戦い方は、完全に未知の領域である。リーチでは圧倒的に負けているし、何よりテレンスの本能が拒絶していた。

 正美が自分より強いのはわかりきっている。そのうえ武器のリーチも劣り、初めて相手にする武器で近接戦闘など、避けられるものなら避けたい。


 正美がさらに銃を撃ってくるかと警戒したテレンスだが、正美は動きもせず、様子を見る構えに入っていた。

 ここで撃ちにいったらどうなるか――テレンスは高速で頭を巡らすも、悪い想像ばかりがよぎる。その悪い想像の先を予測し、さらに悪い想像が浮かび、その対処の先も悪い予感。

 自分が撃とうとした所で、正美がそのタイミングを狙って撃ってきたら? あるいは避けながらまた距離を縮めてきたら?


(考えているだけじゃ駄目だ……臆していたら駄目だ……)


 己に言い聞かせ、意を決し、銃を撃つテレンス。


 正美はあっさりと回避しつつ、同時に撃ち返してきた。


 テレンスは転がって回避を試みるも、銃弾の一発がテレンスの腕をかすめていた。ダメージにはなっていない。しかし精神的にはさらに追い詰められた感がある。正美はしっかりと、また一歩こちらに近づいている。

 これまで何度も死地を経験してきたテレンスだが、今回は最大級と感じられた。


(完全に相手の流れだ。このままじゃ殺られそうだな。もう……いちかばちか……)


 テレンスは大きく息を吐くと、体勢を立て直し、脱力した。


 明らかにテレンスの雰囲気が変わったのを見て、正美は警戒する。全身の力が抜けて、闘気も殺気も消えてしまい、おまけに隙だらけだ。表情もどこか虚ろで、半眼である。


(どういうつもりなんだろ? 諦めちゃった? いや、何か違う。何か危険な雰囲気がする)


 留まったのはほんの数秒だった。正美はすぐにまた銃撃を再開する。避ける気配すら、テレンスから感じなかった。


「え……?」


 思わず正美は怪訝な声を漏らした。避ける気配すら無かったテレンスが、避けていた。いや、テレンス自体が一瞬消えたかのように見えた。


「色は次第に褪せていく、目に見える物質は全ていずれ壊れて消える、幻のようなもの。でも……目に映らなくても、空気は確かにそこに存在し、パワーを伴っている」


 半眼で無表情のまま、テレンスはぶつぶつと呟く。


 正美は得体の知れぬ不気味さを感じ、接近をやめて、その場でまた銃を撃つ。


(生きたいという命の叫び)


 葉山の言葉を思い出し、強く意識しつつ、テレンスも銃を撃った。

 先程正美がやったのと同じように、正美の弾をテレンスの弾が弾く。


 何をされたか正美は理解し、さらに二発撃つ。一発はフェイント。もう一発は行動予測の弾。


 しかしそれを完全に見切ったかのように、テレンスはその場に佇んで動かなかった。


 正美が驚きに目を見開いた瞬間、それは起こった。

 テレンスの姿はずっとそこにあった。ちゃんと見ていた。にも関わらず、テレンスの姿が消えたかのように映ったのだ。


 直後、テレンスが銃を撃つ。

 銃弾は正美の銃に当たり、正美の銃が床に落ちていた。


「空気があるからこそ、僕達は生きていける。目に見えぬ力はやがて目に見える物になる。現象となって形を伴う。色即是空、空即是色。こんな解釈でいいのかな?」


 愕然としている正美を見て、テレンスは朗らかな笑みを見せた。


「どういうことなの? 今の何? 超常の力……じゃないよね? 何か今、消えたみたいな?」

「視覚だけに頼っていれば――例えば君が機械か何かなら、通じなかったと思います。僕達は視覚以外でも相手を認識しているんですよ。その視覚以外の認識を消したから、見失ったんです。僕にも……難しい原理はわかりませんけどね」


 興味津々に訊ねてくる正美に、テレンスは笑顔のまま答えた。


(言うなれば、一瞬だけ葉山さんになれる技かな。梅子さんの所で、梅子さんや葉山さんと稽古をつけてなかったら、僕が負けていた可能性が高かった……)


 内心安堵しているテレンスであった。今の技として、上手くいく保障は無かった。しかし初めて実戦で用いて、大分コツを掴めた気がする。


「とどめささなくていいの? もう戦わないの?」


 あの技をもう一度使われれば、正美は自分が殺されるのでは無いかと思う。


「殺意を完全に消したからこそ、僕は勝てたんですよ。だから今もそのつもりはありません」


 テレンスは軽く肩をすくめて答えた。


「それに、うちのキャサリンも見逃してくれたそうだし、これで貸し借りチャラということにしましょう。しかし、できればこの仕事から手を引いて欲しいですけどね」

「そっか。じゃあそうするよ。依頼主には悪いけど、命を救ってくれた人の方が、私にとっては重いしね。ありがとさん」


 正美も笑顔を見せて礼を述べると、テレンスに堂々と背を向けて立ち去った。

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