第三十三章 27
千晶は人気の無い廃工場の中へと連つれていかれた。
もうこの時点で千晶は、いろいろとヤバそうな気配をひしひし感じている。無論、尾行していた義久と犬飼も同様の感覚だ。
義久達もこっそりと工場の中へ入る。そしてうまいこと千晶だけの視界内に入ることができたので、物陰から手だけ一瞬出して、親指を立ててみる。
ちゃんとついてきてくれて、しかもすぐ側で見守ってくれている事を知り、千晶は胸を撫で下ろした。
千晶に仕掛けた盗聴器を通じて、両者の会話も録音できる。超小型インカムを千晶につけてもらって、こちらで指示を出す事も検討したが、バレたら元も子もないという事で、それは諦めた。
烏腹がポケットからウィスキーの入った瓶を出して飲む。朝からずっと飲み続けているが、ここからが肝心だ。だからこそアルコールの力を借りる。これから大胆な手に出ようというのだから、根は小心者である烏腹にとって必要なものだ。
「こんな所で……何の会話ですか?」
怯えた顔で訊ねる千晶。これは演技ではない。例え側に義久と犬飼がいても、それでも本能的な恐怖が沸き起こる。
その千晶の恐怖が増した。烏腹が懐からカッターナイフを取り出したのだ。
義久も物陰で銃を取り出したが、烏腹はにやにや笑いながらカッターを千晶の足元に放り投げた。
「リストカットしろ」
「りすと……?」
烏腹の口にした言葉に、千晶は戸惑い、義久と犬飼はあまりの唐突さに呆然としていた。
「何だ、その歳でまだ知らないのか。手首を切るんだよ。手首には動脈があるだろ? 動脈はわかるか? 大きな血管で、切ってそのままにすれば出血多量で死ぬんだ。で、メンヘラ十代が自殺をイメージして、自分を傷つける行為を……あ、待てよ……やっぱやめた。もっといい方法があるぞ。ただのリストカットじゃなくて、本気で自殺未遂という展開にしよう」
喋っている最中に方針を変え、とんでもないことを口にした烏腹に、千晶は青ざめる。
「手首を深く切れ。何、安心しろ。私がすぐに手当てしてやるし、救急車も呼んでやる。偶然私が駆けつけて助けたという筋書きでな。悪人ケイトに加担した罪悪感に耐えられず――という記事を私が書こう。ここまでやれば、ケイトもだんまりでは済まないだろうよ。お前の父親とケイトをその後で対面させて、ケイトをなじらせよう。そしてその記事も私が独占ッ。私はお前を助けてやった正義のジャーナリストっ。うんうんっ、素晴らしいぞぉっ、これはぁっ」
笑顔でまくしたてた烏腹を、千晶は化け物でも見るような眼差しを向けていた。
「ここまで悪党全開だと逆におもしれー」
犬飼がおかしそうに笑いながら呟く。その隣で義久は、銃を握る手に力を込め、怒りに震えて、烏腹を無言で睨みつけている。
「何で私が……そんなことまでして、私の命を必死に助けてくれた人を、穢す手助けしなくちゃならないの! ふざけるな! もうこれ以上は嫌!」
演技ではなく、本物の怒りを込めて千秋は叫んだ。
「今更何を拒んでいる。お前はどうしてここに来たんだ? 少しは話を聞いてくれる気があったからだろう? 本当はまだ父親をかばいたいからだろう? 勢いで拒んだが、本当は父親の犯罪をバラされたら困るからだろう?」
ニヤニヤと勝ち誇った笑みをうかべる烏腹。これは脈があると感じた。
「持たざる貧しい者に相応しい、汚れ仕事じゃないか。まあ……別に嫌ならしなくていいんだ。全部バラしてやるからね。それはそれで面白いんだ」
もう一押しだと思い、烏腹の拳に力が入る。勝負をかける瞬間だと。もうすぐこの娘は堕ちて自分の思い通りになると。そして自分のシナリオ通りに事が運ぶと。絶頂の瞬間へ向かって、全力疾走で駆け抜けていく感覚。
「それに、悪い話ばかりでもない。貧しさ故に恩人を裏切らざるをえなかったドラマという題材で、また記事が書ける。君にも同情票が世界中から集る。ケイトもきっと君を許してくれる。いや、これは今思いついたが、その方向でいくとしよう。その方がドラマチックだ。何よりいい記事になる。世間を騒がせることもできる。素晴らしいじゃないか」
「嫌だ! ふざけんな! そんなの絶対嫌!」
改めて拒絶の叫びをあげた千晶に、烏腹の笑みが引きつった。
勝利の余韻が冷まされた。もう自分の思い通りになると確信していたのに、冷水を浴びせられた気分。そして烏腹の中に、ふつふつと怒りがこみあげる。
「じゃあ家族ごとのたれ死ぬといい」
口元を歪めて、ぽつりと呟く。
(いや……まだ諦めるのは早い。もっとしぶとく粘れ)
何もかも放り投げてしまいそうになった烏腹だが、自分にそう言い聞かせる。
「いや、それじゃあ私の気がすまないな。私に逆らった罰として、お前はギャングに売り飛ばしてやろう。今から電話してな。私はそういう筋に通じているからな」
もちろんこれは嘘だ。しかし子供を怖がらせて従わせるには十分な効果だろうと見て、脅してみた。
「嫌だっ、やめてっ、そんなことしないでっ」
効果は覿面だった――と、烏腹は思い込んでいた。
実際の所、千晶はギャング云々に関しては、全く怖がっていなかった。近くに義久達がいた事も知っているし、いざとなれば助けてくれるだろうと、信頼していた。そのうえで演技をして、烏腹に合わせていただけだ。
しかし――
「だったら私に従え!」
やにわに憤怒の形相になって、烏腹は千晶の頭部を殴りつけた。千晶の体が少し横に傾く。
「ジャーナリストに逆らうとどうなるか、知っておけ! 絶対に逆らってはいけない相手だと、大人になっても覚えておけ! 私こそが正義だ!」
酔っ払っている勢いもあって、素面ではとても口にできない台詞を喚く。
(ふざけやがって……)
怒り心頭で、堪えきれずに出て行こうと身を乗り出しかけた義久であったが、犬飼がその肩に手を置いて止めた。
「まだだ。あの子はまだ戦っている」
珍しく真剣な声音での犬飼の台詞を聞いて、義久は千晶の目を見た。殴られて涙ぐみながらなお、千晶は突き刺すような視線を烏腹にぶつけていた。
「な、何だ、その目はっ!」
昔のことを思い出してかっとなる烏腹。そういえば千晶は、あの時の女子と似ている気がしないでもない。そう意識すると余計に腹が立ち、そして酔いの勢いと、小学生の頃の性の目覚めとなったきっかけによって、リビドーが沸き起こる。
「そうだ……もっといいこと思いついた。嫌だというのなら、自殺したくなるようなことをしてやるよ。そして本当に自殺してもらえばいいな。貧乏移民の小娘の分際で、この私に楯突いた罪も、それで償いになるなー。わはははは」
「何言ってんのよ……。私が貧乏移民の小娘なら、お前は何なんだよ! お前こそ最低の人間だ! 悪党! ちょっ……何すんのよ!」
罵る千晶に、好色な笑みを浮かべて覆いかぶさる烏腹。千晶は生まれてこのかた感じた事の無いような、底無しの嫌悪感を覚えた。
「何って? ちょっと早いけど大人にしてやるよ。なあに、私は年季も入ってるし、何も心配することはない。大人に逆らった罰なのに大人にしてもらうとか、傑作だよなあ~。あはあはあはっ」
気色悪い笑い声を漏らし、烏腹は千晶の服に手をかける。千晶は精一杯抵抗する。
義久がとうとう飛び出した。今度は流石に犬飼も止めなかった。
天井に向かって銃を撃つ。千晶も烏腹も驚いて義久の方を見た。
「お、お前はあの時の!?」
義久を見て恐れおののく烏腹。これがどういうことか、すぐに察する。
「畜生! 罠にハメたのか!? そうなんだな!? ふざけやがってふざけやがってふざけやがってーっ! こんなものが通じると思うなよ! 訴えてやるうっ! 先生に言いつけてやるうっ!」
「先生?」
深酒と混乱のあまり、おかしなことを口走った烏腹の台詞を、物陰で犬飼が訝る。
「お前なんかがジャーナリストを名乗るな! 穢らわしい!」
怒号と共に鉄拳が烏腹の顔面に炸裂した。烏腹の痩せた体が大きく吹っ飛ぶ。
激昂した義久が、吹っ飛んで倒れた烏腹の上に覆いかぶさり、なおも殴りかかろうとしたが、その肩に犬飼が手を置き、止めにはいった。
「止めるなよっ!」
振り返り、犬飼を睨んで怒りに任せて叫ぶ義久。
そんな義久のことを、犬飼は真顔で見下ろしていた。
「お前が今やるべきことは、人間の形をしたゴミを殴って、自分の怒りを晴らすことか? 他に真っ先にやるべきことがあるんじゃないか? 一発ならともかく、それ以上やったら手が汚れるだけだ」
いつもの飄々とした犬飼ではない。真剣な口調で説き伏せながら、犬飼は蹲ったまま泣いている千晶を、肩越しに親指で指した。
犬飼の言葉を聞いて、義久ははっとする。
「俺よりお前の方が適役だ。お前に懐いてたしな」
にやりと笑ってみせる犬飼。義久はバツが悪そうな顔で、犬飼に向かって軽く頭を下げると、うずくまって震えている千晶の元へと近寄る。
「出て行くのが遅くてごめんな。怖かったろう……。でも、よく頑張った。勇敢だったよ」
「うっ……うう……うわああぁあぁぁんっ」
千晶の頭を撫でて、思いついたことをそのままストレートに口にする義久。千晶は火がついたように泣きだし、義久に抱きついた。
「えーっと……暁優って知ってる? 俺、その子の父親と知り合いで、父親に代わってずっと面倒見てきて……うん、優からあんたのことを聞いてさ、それで信用できそうだと思って……ちょっと頼っていいかな?」
一方、犬飼は電話をしている。
「今、警察に通報した。裏通り課の刑事にな」
優から聞いた、信用できそうな警察官に直接連絡した犬飼であった。
「なあ烏腹の爺さんよ。あんたが千晶と話した会話、全部録音してあるから、覚悟しておけよ? 千晶達も全て暴露するつもりでいる。あんたみたいな馬鹿がいたおかげで、マスゴミ側は相当立場が悪くなるだろうなあ。一番厄介なのは、無能な身内ってね」
「しぇんせい……せんせい……だずげで……僕、また殴られました。叱っでくだざいぃ……」
犬飼が烏腹に声をかけたが、烏腹は幼児のように泣きじゃくりながら、わけのわからないことを口走っていた。
「いつまで抱き合ってんだよ。ナイト様にしてはデカブツすぎるし、おまけにおっさんなのに、千晶はそれでもいいのか?」
義久と千晶の方を向き、犬飼が笑顔になって茶化す。
「いいよ……」
涙声で答える千晶。
「いや、俺おっさんじゃないから……。つうか千晶もそこは否定してくれよ。いいよってことは、俺がおっさんていうことになっちゃうだろー」
犬飼の言葉にこの期に及んで抗議する義久に、千晶は涙を指で拭い、笑みをこぼした。
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