第三十二章 24
「曾お婆ちゃん、人を殺したこと、あるの?」
何年か前、修行の休憩中に、興味本位で上美は聞いたことがある。梅子が軍隊経験も有るうえに、武者修行で凶悪な殺人鬼とガチで戦ったこともあると知り、それなら相手も殺したのではないかと思い、恐々と口にした。
「もちろんあるよ。文字通り、数えられないくらいね」
笑顔であっさりと答える梅子。
「上野原流古武術を継ぐってことは、そうなる宿命さ。覚悟しときな。嫌ならやめときな」
「しゅくめー……?」
上美が小首をかしげる
「本人が望まなくても、上美が人を殺したくないって思っていても、どうしても殺しちゃうことになるってことさ。そんな呪いみたいな宿命が、上野原流古武術の継承者にはあるんだよ。継いだ者は、自然と闘いの渦中へと身を投じる運命なのさ」
「ぶーぶー、そんな呪いなんて信じない。私はけーしょーしゃになっても、人を殺したりなんかしないもん」
恐怖を誤魔化すニュアンスも込めて、上美は言い張る。梅子その件に関してはそれ以上触れようとはしなかったが、上美の頭の中にはしっかりと思い出としてこびりついていた。
***
あの時の会話が今、鮮明に脳裏に蘇る。
(つまり、今が……その時ってこと? 他にどうにもしようがないし)
躊躇していたら自分とアンジェリーナが殺される。自分にはどうにかできる力もあるというのに、ヒューマニズムにとらわれて力を振るわず、命を失うなど、あまりに馬鹿げている。
上美は覚悟を決めた。
「ジャップ……」
寒気を覚えるアンジェリーナ。少女の体から、無数の氷の針のような鋭く冷たい殺気が放たれたのを確かに感じた。
上美は半身で男と向き合い、左腕を前方へ突き出して掌を大きく広げる一方、右腕は折り曲げて顔の横に手を添えた。右手は親指と小指を軽くたたみ、中の三本の指は第一関節をわずかに曲げ、第二関節は四十五度くらいの角度で曲げる。
右手は最早手ではない。命を奪うための武器だと、上美は強く意識する。
今から大体一年程前の話。上美は幼き頃から修練を重ねた末に、素手でもって、飛んできたボールを空中で粉々に粉砕できるようになった。ボールの外側は人の筋肉、内側の芯は人の骨と大体同じ硬度と強度で作られていた。
上美の方から接近してもよかったが、男の方から上美めがけて突進してきた。
上美は横を意識する。しかしその意識を悟られないよう、前を意識している振りをして、敵の意識を正面に引き付ける。そこまでやる必要も無い相手と思われたが、初めて実戦で用いる上野原流秘奥義――殺人拳故に、一切の妥協無く徹底する。
男の手が上美に届かんとしたその刹那、上美の体が男の前から消失した。
相手の意識を固定させるように、己の意識を、気を、存在感を前方に固定しつつ、しかし本体は幽鬼の如く右側へと動く。男から見て左へと、静かに、速く、回り込む。
回りこんだと同時に、上美が顔の横で構えていた右手が解き放たれた。回転しながら放たれた右手が、男の喉を横斜め下から穿ち抜く。
喉笛も頚動脈も気管も、スクリューと化した少女の小さな手によってえぐられ、弾け飛んだ。男の喉の左側から正面にかけて大きな溝ができて、血が大量に吹き出る。
返り血すら浴びずに身を引く術も、曾祖母よりきっちりと叩き込まれた上美は、突き出した時とほぼ同じ速さで腕を引き、バックステップして男と距離を取っていた。
「ご……ここ……ごぉ……くぉ……」
空気が抜けるような、文字通りの声にならない声を漏らし、男が血走った目で自分を殺した可憐な少女を睨みつける。
(呪ってやる……ノロッテ……ヤル……ゾ……)
そう口にしたくても出来ない殺され方をしたことをまた呪いつつ、男は大量の血を喉から噴出しながら、崩れ落ちた。
梅子に継承者として指定された時点で伝授された、一生使うまいと決めていた奥義。その封印を解いた事への興奮と畏怖に、上美は震えていた。
「ジャ……」
アンジェリーナに声をかけられ、上美が振り返る。上美の心ここにあらずという蒼白な顔を見て、アンジェリーナは動揺した。
「アンジェリーナさん、私……人を殺しちゃったよ」
「ジャップ」
何かを確かめるように言う上美の肩に手を置き、アンジェリーナは首を横に振った。
「殺さなくちゃ殺されてたしね。自分の身を守らなきゃだし……でも、アンジェリーナさん、私を怖がったり軽蔑したりしない?」
「ジャアアーアアァーッアァアアァァーアアァアップ! ジャジャジャジャジャジャアアアアアァアァァァップ!」
明らかに否定している声をあげ、ぶんぶんと大きく首を横に振る。
アンジェリーナからすれば、いろいろな意味で胸の痛みを覚えた。かつての自分は人を殺すことを正当化して、殺人を楽しんでいた。一方、そんな穢れきった大罪人の自分を守るという意識も込めて、上美は自分の手を汚した。己との違いをどうしても意識してしまう。
自分が上美の心を守らなくてはならないという気持ちが、アンジェリーナに沸き起こる。しかし言いたいことがあっても、ジャップとしか叫べないもどかしさ。
「大丈夫、泣いてない」
涙をぼろぼろこぼしながら、しかし表情は引き締めて、上美は毅然とした面持ちと声で言い切る。
『そう簡単に泣くんじゃないよ。泣くってのは負けを認めて、逃げることだ』
幼い頃の曾祖母の叱咤が思い起こされる。
稽古でくじけた時の出来事だ。自分はもう限界なのに、泣いているのに、それでもなお叱ってきて、泣くなとまで言う梅子が、この時の上美の目にはまるで鬼のように映った。しかし続けて口にした台詞で、意識が変わる。
『お前の父さんは甘やかして育てちゃったおかげで、あんな風になっちゃったよ。私はお前をあんな風にはしたくないし、私の跡を継ぐ気なら、どんなに恨まれようと甘やかしたりしない。でもね、お前が武術を習うのも辞めて、私に優しい曾お婆ちゃんであってほしいと願うなら、喜んでそうするよ。子供に厳しくあたるなんて、私も辛いからね』
梅子の台詞の後に、どうして泣いてはいけないのかと、上美は疑問をぶつけてみた。
『泣いた分だけ楽になる。自分を楽にするな。泣くのは本当に最後の最後にとっておきな。誰か大事な人を亡くしたとか、そういう時は思いきり泣いてもいい』
「気が緩むってことだよね。なるほど……曾お婆ちゃんの言いたかったことが、今ならよくわかる」
あの時よくわからなかった、返ってきた言葉の意味を、上美は噛みしめる。
「ジャップ……」
アンジェリーナが上美の頭を撫でる。いくら強がって気を張っていても、十三歳の少女にはキツいであろうことくらい、アンジェリーナにもわかる。
「ありがと、アンジェリーナさん。でも慰めながらジャップはないよ」
「ジャップ~」
頭の上に両手で大きく輪を作り、それしか喋れないから仕方無い――というジェスチャーと、ニュアンスを込めた声をあげるアンジェリーナ。そしてそれは上美にも伝わり、涙をこぼしながら、同時に微笑みもこぼれでた。
***
近づいただけで結界の存在を察知して、純子は一旦足を止める。
「ふむむむ、かなりの広範囲みたいだねえ」
目の前に広がるも森の大部分が結界に張られていると、純子は見なした。
シルヴィアの助っ人要請に応じた純子は、シルヴィアの提案で、シルヴィアとは別行動しつつ、少し遅れて来ることで、できれば敵に存在を悟らせない、遊軍かつジョーカーという扱いにする手筈になっていた。
(シルヴィアがわざわざ純子指名で手を貸して欲しいって言うからには、わりと余裕が無いんでしょうね)
純子の後ろで、守護霊の杏が言う。生前、シルヴィアとは仕事の関係上で付き合いがあった。趣味も同じだったので、わりと親しかったが、ウマが合わない部分もあったので、喧嘩もよくした仲である。
「杏ちゃんを殺した葉山さん対策って言われたけど、それだけじゃ済まないかもねえ」
(いちいち私を殺したどうこう言わなくていいよ。それに、私を殺した葉山を、私は恨んではいないし。葉山に依頼した奴はともかくとして、ね)
杏が言った。
非常に禍々しい気配が前方から立ちのぼっている事を、純子は意識する。この先で多くの命が弾け飛び、歓喜と快楽と怨恨と恐怖が交錯している事が、容易に察せられる。
不気味な夜の森の中に、呪いを帯びたものしか寄せ付けぬ結界の中へと、純子は悠然と足を踏み入れる。
「おや、入れた……」
呪いがかかってない者は入れないというので、試してみたが、すんなりと入れたことに、意外そうな声をあげる。
「私にかけた呪いはもう解けたはずなのにな……」
かつて純子は自分自身に呪いをかけた。愛する者と再び巡りあうまでは、誰にも恋をしない呪い。誰も愛することはない呪い。しかしそれは真との出会いで、解除されたはずである。
(つまり……気付いていないうちに、他にも呪いがかかっている? しかもそれを疑うことのないよう、私の精神にも影響を及ぼして偽装……しているみたいだね)
疑問に覚えると同時に純子は自身に解析をかけ、未だ自分が呪われていることや、その事実に気付かないよう、気付いても意識しないようにされている事に知った。マインドコントロールの効果は、すでに非常に弱くなっているがために、純子が疑問を覚えても抑える事ができなかった。
(この呪いは……信念への制約か。私が私にかけた呪いと同じだけど、私が知らないうちに私を呪った誰かは、私の信念――どんな気持ちを維持するようにしたんだろ。それがわからないねー)
呪いの性質そのものはわかったが、自分に呪いをかけた者の意図はわからないままだ。そしてこの呪いは、放っておいても害のあるものではない。己の気持ちを変えられないようにするだけのものだから。
考えても仕方がないので、それ以上はその件について考えないことにした。
しばらく歩いていくと、複数の人の声がして、声のした方に明かりが見えたので、そちらへ向かって歩き出す。
「お、雪岡純子まで来てるとは」
黒人の中年カメラマンが純子に声をかけてきた。
「おや、安瀬さんじゃない」
思わぬ所で知り合いと出くわす純子。彼の名は安瀬春太郎(あぜしゅんたろう)。表通りでも裏通り及び超常業界の中でも、知る人ぞ知るカメラマンだ。
「あれ? 何かあったの?」
安瀬が来た方向から何人もが泡を食った様子で逃げてくるのを見て、純子が尋ねる。
「安全ゾーンだった場所にヤバいのが現れて暴れてるよ。皆で返り討ちにしようとしたが、止められない。で、皆して一斉にとんずらだ」
「ふーん、じゃあちょっと行ってみるねー」
「できれば退治してほしいなあ、ああいうのは」
安瀬と共に、道の先へと進む純子。
サバトもどきのドンチャン騒ぎが行われていた、薪のある広間は、虐殺現場になっていた。そこかしこに裸の男女の死体が転がっている。
そして死体の山を築いた当人が、悠然と佇んでいる。山葵之介の手駒として動く呪われた戦士、ガルシアだった。
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