第三十二章 呪い呪われて遊ぼう

第三十二章 三つのプロローグ

「ジャップ!」


 夕方の川原。大勢の子供達がいる後方で、異形なる者が叫び声をあげ、中腰に構える。

 川原に響く甲高い音。異形が猛然と駆け出す。


「ジャーップ!」


 かけ声と共に、その奇怪な存在は大きくジャンプして、ミットをはめた手を高々と上げる。ボールがミットの中に見事に収まる。


「えー、あれを取るのかよー……」


 ランニングホームラン級の当たりを出したと思った打者の少年が、がっくりと肩を落とす。


「流石、アンジェリーナだなあ」

「ていうか背高い分有利だよ。アンジェリーナ入れたチームはさ、人数減らさない?」

「ジャアアァーップ! ジャアアァーップ!」


 小学生高学年と思しき子供達の言葉は、外野を守る異形――イルカの体に人の手足が生えし者にも聞こえたようで、抗議じみた声をあげつつ、ピッチャーにボールを投げる。


「反対だってさ」

「何か俺達段々、アンジェリーナの言葉わかるようになってきてるよね」

「うん、ジャップしか言わないのに、凄くよくわかる」


 おかしそうに笑いあう子供達。と、そこへ――


「オイコラー、もう暗いんだし、そろそろ帰りなさーい」


 自転車に乗って土手をパトロールしていた中年警察官が、川原で野球をしている子供達に声をかける。


「やべー、オイコラ警官だ」

「だいじょーぶだよー。アンジェリーナがいるんだからさあ」

「そうそう、アンジェリーナがいればこわくなーい」


 子供達が返事をすると、子供達と顔見知りの警察官は、仕方無さそうに小さく微笑んで息を吐く。


「しゃーないな、全く。なるべく早く帰るんだぞー。アンジェリーナさーん、よろしく頼みまーす」

「ジャップ!」


 謎のイルカ人間――アンジェリーナは、警察官に向かって一声叫んで返事をすると、力瘤を作った腕をぱんと叩いてみせる。


 その後しばらくの間、子供達とアンジェリーナは野球を続けていたが、やがて球も見えにくくなったので、お開きとなった。


「じゃあねー」

「アンジェリーナ、またなー」

「ジャァァーップっ」


 別れの挨拶と共に子供達が手を振り、アンジェリーナも手を振る。


 子供達がいなくなって、すっかり陽の暮れた川原で、アンジェリーナは座り込み、深い溜息をつく。

 自分は何をしているのだろうと、ふと考えてしまったのだ。


 かつては日本人を激しく憎み、残虐な方法で殺しまくったというのに、今やすっかり日本での生活に馴染んでしまっている。親しい人間も増えた。

 自分がかつて行った非道を、彼等が知ったらどう思うだろうか。そう考えると胸が激しく痛む。


 現在のイルカボディーは、とても気に入っている。だからといって自分をこの体に改造した雪岡純子を許す気にはなれないが、元の人間に戻りたいとは全く思わない。一生このままでいい。そして今の生活も気に入っている。


 日本人への憎悪が完全に消えたかと言えばそうでもない。きっと日本人は未だイルカやクジラを狩り続けている。そう意識すると、今でもいてもたってもいられなくなる。


 その一方で、かつて多くの日本人を残酷な方法で殺害した事に対して罪悪感が芽生え、意識する度に頭がおかしくなりそうなほど辛い。

 刹那生物研究所での拷問生活。そこから解放してくれた人物との生活。そしてその後の数々の出会い。いろいろあって、アンジェリーナはすっかり改心していた。しかし――改心したからこそ地獄だ。己の罪業の重さに苦しみ続けている。


『ぽおおムぶべルァあぁあうェばあぁぁアうェあゥあラぁアアぁァァあウわアあぁぁ!』

「ジャッ!?」


 突然奇怪な叫び声が近くであがり、アンジェリーナは仰天した。


『だめだあぁあぁあぁぁっ! 憎しみをうわぅわゥわウ忘れるぬぁあぁあぁぁアぁッ!』

「ジャ、ジャアァアァァァ~っプ!?」


 突然宙に浮かび上がったそれを見て、アンジェリーナはさらに驚いた。恐怖に引きつり、ぺたんと尻餅をつく。

 フォルムこそ人型であるが、全身にびっしりと、憤怒と憎悪の表情の同じ小さな顔が重なり溶けあって埋め尽くされた、半透明の化け物が、宙に浮かんでいた。


『お前と俺、同族也ィいいぃいぃぃッ! しかあぁぁあっし! お前の憎しみの心が薄れているるるるルるるウうゥうぅぅっッっっ! これはいただけぬわあぁぁあアァあァい! 合体するぞ! 合体するぞ! 合体してパワーアップして、憎しみを取り戻せえぇぇえぇえぇぇっ! 俺と一緒に全てを壊してやるのどぅわあぁあアあぁァうェあぁアァアヲワぁあぁ!』

「ジャアアアァァッ!」


 化け物がひとしきり叫ぶと、アンジェリーナの体に己の体を重ねてきた。

 デジャヴを覚えるアンジェリーナ。かつて似たようなことがあったが今回は肉体を取り込まれるわけではない。相手が自分の中に入ってきている。しかも相手に肉体はない。これは霊であると、入られて理解した。


「ジャアあアアァァアァアあぁアぁアあぁあアァァァップ!」


 激しい拒絶。抵抗の仕方は、一度経験しているのでわかっている。それ以上の事もできる。


『ななな何だあああぁあァっ!? この我の強さ、いや、個の強さ……魂の強さはあああァあぁアぁぁぁ! ひいぃッ! 逆に飲み込まれルるルルうぅウっ!? うぎゅりゅウわぁラぼぶぶぶぁあぁギャあぁっ!』


 霊が断末魔の悲鳴をあげる。成仏したわけではないが、その個はほぼ失われた。自我は希薄になり、力だけがアンジェリーナへと飲み込まれた。


「ジャップ……」


 アンジェリーナがニヤリと笑う。イルカの口でも、喜びを表現できるし、それが人の目に伝わる。


「ジャアアァァァーーーーーーーーッッップ!」


 新たな力を得た満足感に、アンジェリーナは歓喜の叫びをあげた。


 それが数日前の話。


***


 どうにもならないことはある。どうにもならないと、認めなければならないことがある。


「畜生……」


 少女は血まみれで血だまりの中に倒れ、毒づいた。床に広がる血は、自分のものだけではない。周囲に倒れている仲間達のものが大半だ。


「飛ぶ蝿を蝿叩きでもって、空中で叩いて殺せますか?」


 這いつくばって見上げる少女に一瞥もくれず、そんな台詞を口にして、男は悠然と立ち去っていく。


「今日の僕は蝿だ! ぶーん! しかも蝿の王、ベルゼブブだ! ぶーん! ぶーん!」


 男は途中まで歩いていたが、急に上機嫌に喚きたてると、両手を横に広げて小走りに駆けていった。


 殺すべき相手。それがかなわぬ相手。


 このまま諦めては、明治時代から続く由緒有る一族の歴史に泥を塗る事になる。死んだ者達も報われない。しかしだからといって、さらなる追撃を行えば、余計に多くの犠牲を出すことも目に見えていた。

 当主としての苦渋の決断。諦めるしかない。


 見知った顔達が幾つも転がっている。物言わぬ屍となって。殺し合いをしているのだから、仕方無いという理屈はわかっているが、それでも悔しい。それでも恨めしい。


「は……や……ま……」


 自分達を返り討ちにした忌々しいターゲットの名を、少女は口にする。いずれ機会があったら、必ず仕留めると心に誓う。


 それが数年前の話。


***


 男は何度も同じ夢を見る。その夢の内容が、男のルーツだ。


 子供の頃、見晴らしのよい場所から、生まれて初めて海を見た。美しかった。心を奪われた。心に焼きついた。

 この美しさを自分の物にしたい。自分だけのものにして独り占めしたい。誰にも見せたくない。そんな気持ちが彼の中に沸き起こったが、それが無理であることは、当時の子供の自分にも理解できた。それと同時に、何故それが無理なのかと、理不尽さを覚えた。


 男が目を覚ます。


 一言でその男の容姿を表すなら、異相としか言いようがない。


 額が異様に広いのは前髪の生え際が後退しているからだけでない。額の部分だけが大きく拡がってせり出しているからだ。

 目は細く、頬はこけおちているが、肌にはつやがある。皺も無い。しかし年齢はいまいちわからない。本当は歳を取っているのに若くも見えるし、実は若いが老けているようにも見える。二十代ではないだろうが、三十から上というだけで、そこから判別がつかない。

 手足は短く、そして細い。胴も同様だ。頭部だけアンバランスに大きい、三頭身である。小人症と言ってよいほど背が低い。頭や額の大きさもアンバランスだが、その手も歪かつ異様だ。指が細く、途轍もなく長いのだ。まるでナナフシの肢のように。


 差別的な者でなくても、その人物を一目見て、人のようであって人ではないかのような、人外のクリーチャーを連想するのは無理も無い。あまりにも不気味で、人間離れしている。


 男の名は電々院山葵之介(でんでんいんわさびのすけ)。実年齢は百を過ぎている。


 山葵之介はスーツ姿で執務室の机の前に座し、机の上に浮かべたディスプレイを凝視していた。無論、スーツも椅子も彼に合わせた特注である。

 己の掌の三倍以上はあろう異様に長い指で、ディスプレイを弾いて操作する。


「そろそろ四年経つ……蒼月祭の年だ」


 甲高くもしゃがれた独特の声で、山葵之介は呟く。


「我輩はこの年になると、心がざわめく。呪いが愛おしいほどに」

「年々呪われた者も増える傾向にありますね」


 同室にいた執事が、難しい顔で言う。執事は顔だけ見れば年老いていたし、頭は大分薄くなっていたが、その体型は服の上からでもがっちりとしているのがわかる。肩も広く、胸板も厚く、腕も太く、背もピンと伸び、下半身もしっかりとしている。その顔立ちを見ても、若い頃は美男子だった片鱗がうかがえる。

 ちなみにアニメや漫画に出てくるような燕尾服などは着ていない。ごく普通のスーツ姿だ。あんな服装をしていたら、外出の際に目立って仕方がない。


「私としてはよくない傾向であると思います。そしてそれらの呪われし者の多くは、ルキャネンコの影響があるでしょう」

「だろうな」


 長い指を小さい顎にあて、山葵之介は執事に同意し、思案する。


「我輩とて、ルキャネンコには世話になっている。だが――あ奴は無節操に手を広げすぎだ。やはり呪いの売買など、認めるべきではないのやもしれん」

「ルキャネンコを敵視し、亡き者としようと試みる者も後を断ちません。一族の半数以上は、恨みを買って暗殺される最期です」

「んくくく……呪いを売り買いする者が、恨みを買う――か」


 執事の言葉がおかしくて、山葵之介は含み笑いを漏らす。


「限度というものがある。それを踏み越えた者には、リスクの代償が待っている。ルキャネンコはその商売の時点で踏み越えていると言えるが、あの娘はさらにその先を行った。我輩が容認できぬほどにな。あの娘は……我輩と同じ領域にまで踏み込んだ。我輩だけが見てよい世界に入ってきよった」

「すぐに手配します」


 恭しく一礼し、ディスプレイを目の前に投影する執事。


「待て」

 執事を制止する山葵之介。


「ルキャネンコの娘も呪われた身であるし、祭りへ参加できよう」


 その言葉だけで、執事は主の考えを察した。


「時期を待ち、殺さぬように気をつけながら、誘導せよ。死ぬ前に我輩の祭りを楽しませてやるのだ」

「承知いたしました」


 再び恭しく一礼し、執事はディスプレイを消した。


「あの海を我輩だけのものに出来ずとも……」


 己のルーツとなった光景を思い浮かべながら、山葵之介はぽつりと呟く。


 それが八ヶ月前の話。

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