第三十一章 8

 夜の住宅街。取り壊し途中の廃屋の近くの道。

 ここら辺は薄気味悪い場所だと、まだこの町に引っ越してきたばかりの、帰宅途中の青年は思う。


 幽霊は実在するものらしいが、青年は見たことがない。しかしその場所はどうも本能的に恐怖を刺激されるので、早足で通り過ぎるようにしている。


「タスケテ……タスケテ……」


 廃屋から聞こえた確かな声に、青年の足が止まる。


 何故そこで足を止めてしまったのか? 答えは簡単だ。恐怖よりも好奇心という感情の方が、はるかに強いからだ。

 おそるおそる廃屋の中を覗きこむ。


 そこにあっさり幽霊らしきものがいて、しかも自分と目が合って、青年は絶句した。

 全身が淡く赤く光っている、五歳か六歳くらいの男の子――の上半身。下半身は楕円形の巨大な球体で、この球体だけでも青年の喉までの高さがある。

 しかも男の子の右目にあたる部分には、小さなイボのようなものがびっしりとできている。左目はやはり赤く光っていて、青年をじっと見つめている。


 霊というより、妖怪のように思えるそのおぞましい姿を直視し、青年は固まっていた。


「タスケテ……オニイサン……。ボクヲタスケテ……」

「ど、どうすればいい?」


 お化けでも相手が子供で、しかも助けを求めているとあって、青年は放っておけなかった。

 その優しさが、彼の命を救った。


「ボクニタベラレテ。ヒトツニナッテ」


 子供がとんでもない事を口にして、口を大きく開くと同時に、その頭部が五倍以上に膨れ上がり、口の大きさもそれに比例して広がり、人一人が入りそうなサイズになる。


 青年が死を覚悟したが、子供の化け物の大きくなった頭部が、みるみると萎んでいく。


「ダメ、オニイサン、タベルコトデキナイ。オニイサン、ヤサシイヒト、ボクヲタスケヨウトシタ。ダカラタベレナイ。ヒトツニナレナイ。アリガトウ。サヨナラ」


 そう言い残し、小さく微笑むと、子供の化け物は消えた。


 青年は自分の頬をつねって痛みを確認すると、ぎこちない動きで、しかし足早に、帰宅を急いだ。


***


 彼は真面目に生きてきた。

 真面目にこつこつと頑張っているし、業績もあげているが、出世できないサラリーマン。


 一方で、何をやっても駄目な、同じ部署の馬鹿女が、社長の愛人になって自分よりも出世していったのを見て、絶望してしまった。

 真面目にこつこつやる自分が馬鹿を見る、世知辛い社会。真面目に頑張ればきっと報われると、親から教え続けられ、従ってきた自分は、馬鹿丸出しだった。


 とぼとぼと夜道を帰宅する彼の前に、それは現れた。


 黄色く発光する女。しかしその姿はかろうじて女の形状も保っていたが、常に不定形に輪郭が蠢き、膨れ上がったり縮んだりしている。特に顔に至っては人間の時どんな容姿だったか、全くわからないほど変形が激しい。しかしどんなに縮んでも、2メートル以上はある巨大さだ。


「アナタ……アタシと似てイルね」


 突如目の前に現れた化け物女は、硬直している彼に、聞き取りづらい声をかける。


「ヒトツにナロう……アナタの望ミ、キっトカナウ」


 黄色い女の不定形な輪郭が膨張したかと思うと、彼の頭部へと降り注いだ。


「うわあぁぁああぁあぁぁ!」


 彼は絶叫をあげた。女は幽霊であった。女の情報が彼の中に流れ込む。


 女の名は葦塚千鶴。ブラック企業に勤めていたが、上司に出世をネタに肉体関係を強要され、断ったら根も葉もない噂をバラまかれ、精神的に疲れて退職。

 雪岡研究所に赴いて超常の力を得て、上司に復讐したが、超常の力を発動させたことで怪しい組織にマークされて捕まり、毎日拷問され続けながら殺されたうえに、幽霊になってもなお苦しめ続けられた。


 憑依された彼の自我は、脳の奥へと封じられた。

 彼の意識は消え、葦塚千鶴の意識が彼の肉体を支配してしまった。


 好吉が力霊に憑依された際には、我の強い好吉は己の意識を保つことができた。だが、この男性の場合は無理だった。虚弱な精神は押し込められて、千鶴の意識によって肉体の主導権が握られてしまった。


「あれ……私……男になってるし……」


 力霊の中にも、完全に狂気に冒されきっていない者もいる。千鶴もわりと自我と理性を保っていた。


「とりあえず……この人を苦しめた連中を殺してあげよう……」


 せっかく憑依したのだから、宿主のために、それくらいの恩返しはしてやるべきだと思う千鶴であった。


***


 夜のホテル、純子が窓の外を覗くと、新宿の夜空に、色とりどりかつ様々な形状の、複数の力霊が舞っているのが見えた。


「累君、こっち」

 累を窓の方へと招き、空を見せる。


 力霊の形状が人間離れしたものが多い理由は、あまりの苦痛と怨恨のために、己の姿を人として保つことすらできなくなっているが故――という説が有力である。


「随分な数ですね」


 霊感の乏しい人間には見えないだろうが、見える者が見たら驚くだろうなと、累は思う。


(ただ空を飛んでいるだけの霊でもあれだけの数なら、地上にて憑依を試みる力霊もかなりいるはずです)


 昼間に戦闘した好吉のような輩が、今夜中に増えると累は見た。


「あ、さっちゃんからメール入ってた。ヨブの報酬の一部隊がアジトを突き止めて交戦になったけど、首謀者と思しきアブラハム吉田さんごとアジト自爆だってさー。で、全滅しちゃったって」

「いきなり首謀者自爆とか、胡散臭いんですけど」

「影武者とかじゃないのかなー。さもなきゃ分身。昼のあの子は、分身を作って本体が他所にいるタイプだったけど、それを他人にも使えるかもしれないねえ。あるいはそういう装置があるか、その能力は実はアブラハムさんの力とか」


 いろいろと推測する純子。


「力霊の対処をしましょう」

 再び夜空を見上げ、累が言う。


「夜になるとはっきりと現れますし、今がいい機会ですね。ヘリコプターで近づいて、浄火の炎で焼き払ってまわれます」

「そっか。じゃあ明日の晩にそれやろう」

「今夜はいいんですか?」


 累が不審げに純子を見る。


「もう今日はゆっくり休もう。お風呂も入っちゃったしさー。湯冷めしちゃうよー」

「それじゃあ何のために、研究所に戻らず泊まったんだって話になりますけどね……」

「お風呂前だったら行ったんだけどねー。残念」


 呆れる累であったが、純子は構わず、白衣を着た格好のままベッドに寝転がった。


***


 凜、晃、十夜、アリスイ、ミサゴ、ビトン、そしてビトンの部下の六名の兵士達は、裏路地に避難して落ち着いた。

 夜空に様々な形をした色とりどりの力霊が飛んでいるのが、アリスイとミサゴと凜には見えたが、他の者の目には映らない。


(実体化はそれほど強くない。もう少し強くなれば、霊感が強くない常人の目にも見えるだろうよ)


 凜の中で町田博次が告げる。


「アリスイ、生きていたんだな。何故ツツジ達に連絡をせぬのか」


 ミサゴがアリスイに声をかける。イーコ達からは、アリスイが死んだと聞いていたミサゴである。


「えーっと、それは……」


 言葉に詰まるアリスイ。ミサゴに理由を話すとややこしくなりそうなうえに、ツツジ達にバラされてしまいそうな気がしてならない。


「あんたら、あのアジトをどうやって知ったの?」


 ビトンに向かって晃が問う。すでに何者かは聞いている。


「衛星カメラに映ったから、それを追っていっただけだ。同じ方法でヨブの報酬も突き止めたようだ」

「ズルいなー、そんなの使えるとかさー。こっちは地道に自分の足で聞き込みしてたのにさ」


 ビトンの答えに、苦笑をうかべる晃。


「しかしどうやら囮のようだな。アジトごと吹き飛ばしても、何とも思わない。しかも吹き飛んだアジトから新たなゴースト・ウェポンが解き放たれるという、最悪のコンボだ」


 空を舞っている霊はそれなのだろうかと、ビトンの話を聞いて、凜は思う。


「街中にそんなヤバいもん解き放つとか、イカれてるなー」

 晃が顔をしかめて言った。


(自分の利益が1セントでも上乗せできるなら、意図的に紛争を起こして他人を何十万、何百万と死なせても、心が痛まない連中だからな。アブラハムもきっとそうなんだろう)


 口には出さずにぼやくビトン。


「ビトン、すまんが僕はこいつらと共に行動する。放っておくのは危なっかしい故。特にこのアリスイはな。そういうわけでさらばだ」

「わかった。何かあったらすぐ連絡してくれ」


 ミサゴがビトンに了承を取り、ビトン達の方から先にその場を離れた。


「ど、どどどどういう意味ですかーっ。オイラだってさっき、ちゃんと活躍していたじゃないですかーっ」


 アリスイがミサゴに食ってかかる。


(まあ、アリスイが危なっかしい感じなのは相変わらずだからなあ。ツツジとセットなら安心できるけど、今は同じ目線で御目付け役が必要と、ミサゴも考えたのかな)


 ミサゴとアリスイを見やり、十夜はそう思った。


***


 ヨブの報酬は三つの部隊が活動し、幸子だけは指揮官兼、単独遊軍行動だった。

 部隊の一つが、敵のアジトを発見して侵入したものの、自爆によって全滅するという憂き目をシスターに報告する。


「そのうえ力霊が街に解き放たれてしまい、街中に大量に放たれてしまっています」


 ろくでもない報告ばかりしなければいけないのは、気が重い。聞いているシスターの方も気が重いだろうと意識する。


『純子から連絡がきましたー。明日の晩に、累が浄化してくれるそうでーす』

「わかりました」


 今夜のうちにやっておかないと、力霊に憑依されるか殺される被害者が多く出るというのに、明日にせざるをえない理由とは何なのだろうかと、歯がゆい気持ちになる幸子であるが、それが何であるかは不明であるし、わざわざ聞いて確かめようとは思わなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る