第二十八章 5
八丈勝美は一晩明けて夕方になってから、ようやく気分を少し落ち着けて、警察へ電話をかけ、夫である八丈啓次郎を殺害した事を連絡した。
安楽警察署裏通り課の梅津光器と松本完は、現場を訪れ、殺人を自供してきた勝美を見た。
「頭の中に赤猫が現れて……気がついたら……あの人のことが物凄く憎らしくなって、そこから殺すことしか頭の中に無くって……」
「取り合えず落ち着いて。話は署でゆっくり聞くからね」
泣き崩れ、明らかに錯乱している八丈勝美を、人の良さそうな顔の初老の警官がなだめて、立たせようとする。警察に連絡できるほど落ち着いたと思いきや、思い出して口にすることで、また精神のバランスが崩れてしまった。
「赤猫……」
近くで聞いていた梅津は、その言葉に反応した。
「先日と同じく、闇の安息所に通っていた者の犯行ですか……。どう考えても関連無しとは思えませんね」
松本がもっともらしい神妙な顔で、梅津に話しかける。前回の殺人事件の狛江誠は裏通りの住人であるが、同時に心の病を患い、ケアの一環として、闇の安息所へと足を運んでいた。
「しかし今回殺されたのは、先日とは逆に、ケアを受けていた亭主の啓次郎の方だ。前回は加害者がケアを受けていた狛江誠で、被害者がその母親である狛江忍だった」
梅津が思案顔で言った。確かに今回も同じ闇の安息所に通っていた人物が関わっているが、今度は立場が逆転しているというミステリーだ。
現在、狛江誠は精神鑑定に回されていて、そこで奇妙な供述を幾つか行っている。曰く、殺す気など全く無かったのに、気がついたら殺していた。普段から母親を疎ましく思ったことなど一度も無いし、そんなこと考えたことも無かったと。
狛江誠はこんな供述もしている。殺意一色に染まる前に、頭の中に赤い猫が現れたと。
(今の女も、同じ言葉を口にしていた。確かに関連無しではないだろう)
これで何の関連も無いと考える方が、無理がある。
(赤い猫……赤猫か。赤猫ってのは……確か放火とか放火魔のことを指す隠語だ。火が猫の赤い舌に見える事、もしくは飼い猫に火をつけて家に火を放つ手口とも言われているが……)
そこまで考えた梅津は、ふと、たった今松本が口にした台詞を思い起こし閃いた。
「関連無しと思えない……か。お前、物凄く馬鹿で鋭い発言したぞ」
「ど、どういう日本語ですか、それ」
褒めているのかけなしているのかわからない梅津の言葉に、松本は戸惑う。
「関連も糞も無く、加害者と被害者がはっきりと出ている。これで事件解決というわけではないが、逮捕も済んでいるし、あとは立件するか、精神鑑定の結果病院送りかのどちらかだ。しかし……こんな短期間に同じ施設に通う者が二名、しかも殺人に至る原因も一致しているとあれば――だ。本人の意思とは無関係に、意図的に殺人を発生させられている可能性もある」
突拍子も無い推理だと、梅津自身でも喋っていて思うが、どうしてもそう考えてしまう。そしてそれが事実なら、とんでもない悪党がいて、これからも殺人を起こしていくのが容易に予測できる。
自分の推理が正しければ、二人共何者かに操られて、愛する者を手にかけたということだ。
(反吐が出そうな事件(ヤマ)だ)
口に出さず呟き、梅津は眉をひそめた。
***
暁優は私立ヴァン学園に通う十五歳の少女である。
それは表の顔であり、彼女にはもう一つの顔がある。まだ正式な名前も決まっていない、国家の秘密機関の構成員としての顔が。
そこは霊的国防の一環として、超常の力を持つ者ばかりが集められた機関。個の力を極限まで高めた戦闘者達を、強大な武力の一つとして扱う場所。
いろいろあって優は半強制的にその一員となったが、別に苦には思っていない。学生生活もさせてもらっているし、足を運んでも今は訓練をするだけだ。まだ機関として完全にできあがったわけでもない。
「父さん、純子さんから声がかかりまして。裏通りの住人で、心の病を持つ人達が通う交流所に、父さんも来ないかって」
自室にて小説の執筆をする父に、優が声をかける。
今までずっと寝たきりであった暁光次は、ようやく寝たきりから復帰し、さらには小説家としても復帰を試みて、最近執筆に取り掛かった次第である。
「私は別に裏通りの住人ではないんだが……」
娘の方を見て苦笑いを浮かべる光次。
「でももう一人の岸夫君の方は、私と一緒に例の機関にも通っていますし、堅気とは言いがたいじゃないですかあ」
「ま、まあそれはそうだが……」
「父さんにとって刺激にもなると思いますし、せっかく純子さんがお声をかけてくださったのですから。私も付き添いで一緒に行きますし」
「うーん……それは……」
娘に付き添いしてもらう父親など、いくらなんでも恥ずかしい。しかし本音としては、一人では不安なので、優に付き添いでついてきて欲しいと思う光次である。
「別に父さんのその体で行かなくてもいいでしょう。例の機関と同様に、岸夫君の体を使えばいいですよ」
「そ、そうだね」
優の言葉に躊躇いがちに頷く光次。
光次には二つの人格がある。光次とは別の、自分を異世界の主人公に見立てた、藤岸夫という少年の人格だ。こちらの人格を出す際には、今の暁光次とは別の体を用いて――純子からもらった肉人形に、精神を宿して捜査する形で活動していた。
***
檜原真菜子と檜原華子は、姉妹で二人暮らしだった。
闇の安息所から自宅マンションへと帰り、玄関に入った瞬間、真菜子は妹をひっぱたいた。
「お、お姉ちゃん?」
華子はその場にへたりこみ、叩かれた頬を押さえて震えながら、怯えた眼差しで姉を見上げる。
外では決して見せない冷たい眼差しで、真菜子は華子を見下ろす。
「今日のあれは何よ。たかが人が増えたくらいで、露骨にだんまりになっちゃってさ。みっともないったらありゃしない」
眼差し同様の冷たい声で言うと、華子の腹部を爪先で蹴りつける。
一応手加減はしてあるが、それでも痛みは十分にある。
「ご、ごめんなさい……お姉ちゃん」
「私が必死にフォローもしていたんだけど、それもちゃんとわかった?」
謝る華子に、真菜子が問う。
答えられない華子に、再度蹴りを飛ばす真菜子。
真菜子の妹への暴力は、日常的なものであり、子供の頃からずっと続いている。
要領が悪く、心に病も抱えたこの妹が、真菜子は鬱陶しくて仕方が無い。見捨てない代わりに、こうしてウサ晴らしをし続けている。
しかし真菜子のウサ晴らしは、これだけでは済まない。妹を嬲るだけではない。
「昨日の分、まだ済んでなかったよね。さっさと済ませましょう」
「うん……」
姉に促され、重い足取りで華子は奥の部屋へと向かう。
厳重に錠が成された扉。隙間もぴっちりと埋まった扉を開くと、非常に狭い部屋が現れ、その先にさらにもう一つ扉がある。
もう一つの扉の先には、ビニールシートが敷かれていた。ビニールシートは血まみれだ。肉片や体毛もわずかに散乱している。ここで何が行われたかは明白だ。そしてこの部屋では、処理がしやすいようになっている。
姉妹は揃って『恐怖の大王後援会』という始末屋組織で働いている。だがこの部屋は仕事とは関係無い。仕事のノウハウが、この部屋で活かされているだけの話だ。
檜原真菜子が恐怖の大王後援会に入ったのは、効率良く殺人を楽しむためである。
恐怖の大王後援会は裏通りで有名な始末屋組織である。その業務は後始末専門を謳っているので、常に需要がある。構成員も極めて多く、裏通りでは珍しい、四桁規模の人数を抱える大組織だ。
抗争後に破損した部分を速やかに元に戻したり、殺人後の死体の処理をしたりといった、主に証拠隠滅と犯罪隠蔽をこなすのが恐怖の大王後援会の仕事である。
依頼は表通り、裏通りを問わず、毎日ひっきりなしに入る。ただし、表通りからの依頼は極めて慎重に受ける。その表通りの住人が、裏通りの住人になることを条件にして、仕事を引き受けるというスタイルだ。そして裏通りの仕事を斡旋する。あるいは、自分の組織へと引き入れる。
真菜子も最初の犯罪でこの組織を利用し、それからこの姉妹でこの組織の一員として働くようになった。
真菜子が犯した犯罪は殺人だ。近所に住んでいた頭のおかしな老人。虚言癖と被害妄想があり、妹の華子が電信柱に放火をしていると、毎日騒ぎ続けていた。
ある時、ゴミを捨てにいった華子に絡み、喚きながら殴りかかっているのを見て、真菜子は衝動的にその老人を殺した。
罪悪感は全く無く、害虫を殺した時のような爽快感だけがあった。
その時から、真菜子は殺人行為そのものに取り憑かれるようになった。
姉妹揃って恐怖の大王後援会に入り、そこで学んだ死体処理のノウハウを活かし、姉妹で協力して、殺人とその後始末を行うようになった。
もちろん組織には言えないことである。バレたら自分達が始末されるだろうが、皮肉なことに、組織のノウハウを活かして組織にもバレていないという有様であった。
(でも……そのうちバレたらどうするんだろう……)
幾重にも敷かれたビニールシートを丸めながら、華子は思う。
真菜子が殺しているのは無国籍チンピラ移民だけだ。いなくなっても、不審にも思われない。そししていなくなった方が、社会的には助かる連中だ。大抵が軽犯罪者であり、裏通りでは最底辺のチンピラ達だ。
「ねえ……もうそろそろ、こういうのやめた方がいいかも」
処理をしながら、今まで何度か姉に向かって口にした言葉を、また口にする華子。
この後どうなるかも華子は知っている。知っていてもなお、何度も口にしてしまう。
「またそれなの?」
真菜子は容赦なく華子をひっぱたく。華子の予想通りの展開だった。
「華子、貴女は私だけに従っていればいいの。私は貴女の何? さ、言ってごらんなさい?」
「はいぃ……お姉ちゃんは、私の神様です。お姉ちゃんは私にとって絶対です」
何百回口にしたかわからない台詞を述べる華子。予想通りかつ予定通りの展開だった。
***
雪岡研究所リビングの夕食後。
「純子……」
リビングでソファーに座った累が、思いつめた表情で純子を見る。
「どうしたのー?」
「僕のこと、性転換手術してくれませんか?」
突然の要求に、その場にいた純子と毅は啞然とした。
「ちょっ、いきなり何言うのお?」
「だって真はいつまで経っても男色に目覚めないようだし……」
「諦めたらだめだよー。私もこっそり応援してるからさー。それに累君が女の子になっちゃったら、綾音ちゃんが悲しむと思うよー。あ、男性器は残しておいてアンドロギュヌスにしておけばいっか」
「いや、それはちょっと……」
純子の提案に、難色を示す累。
「その真は、薬仏市で派手に暴れてるみたいですね」
ディスプレイを開き、現在薬物市で繰り広げられている抗争の情報を見ながら、毅が言った。
「父親の敵討ちか……。羨ましい」
「何が羨ましいの?」
毅の呟きを聞いて、純子が尋ねる。
「羨ましいですよ。仇をとってくれるくらい、想われているってことが。こんなこと言うのもなんだけど、蔵さんが殺された後、蔵さんが作った組織の人らが、蔵さんの仇討ちにいったって話聞いた時も、正直凄く羨ましかったんです。俺には例え死んでも……仇を討ってくれるような、俺のこと大事に思ってくれる人もいないし、今死んでも何も残せない。俺はまだ何もしてない」
「今はちょっと離れてるけど、青島さんは毅君のこと大事に思ってるよー」
かつて毅が『日戯威』という組織の長を務めていた時、先代から側近を務め、毅にも親身になって仕えてくれていた老人の名を出す純子。彼との取引があったからこそ、純子は毅を殺さずに生かしておいた。
「それに蔵さんが独り立ちしようと思ったのって、毅君の影響だし」
「え? 嘘でしょ?」
純子の言葉を聞き、毅は驚く。
「いやあ、本当。心当たり無いの? いや、覚えてないのー?」
「あ……あれか……」
思い当たる会話はあった。
「でもそれを言うなら、俺に影響されなければ蔵さんも死ななかったってことですかね?」
「それは意識すべきことじゃないと思うなー。毅君のせいだと思うような人間、誰もいないと思うしねえ。それに、蔵さんのおかげで、来夢君達に新たな道が開けたんだよー。もちろん蔵さんにしてみても新しい道が開けた。それらは全部毅君がいたからこそだよ」
「そうですか……」
純子の口にする道理を受け入れつつも、毅は完全に気持ちの整理がつかなかった。自分の振る舞いに蔵が影響を受け、その後大勢の人間にも影響を及ぼしたという事実を知り、極めて複雑な気分に陥った。
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