第二十八章 精神障害と遊ぼう

第二十八章 三つのプロローグ

 彼女は夢を見る。

 赤猫の夢を。

 彼女は目が覚めていても想う。

 赤猫の事を。


 それは一体何なのか?

 呼び名通りだ。全身が鮮やかな赤一色で、ほのかに輝いている猫。しかし目は真っ黒で、まるで目の中が暗黒空間のようだ。

 赤猫には体毛があるのかわからない。全身が赤く輝いているせいで、体毛がいまいちよく認識できない。


 赤猫は――いつからか、彼女の中で思い描くようになったヴィジョン。


 彼女は真実を知っている。

 自分の中にもう一人の自分がいる。

 もう一人はひどく癇癪持ちで、暴力的で、破壊的で、衝動を抑えられない。そのうえ残忍で利己的ですらある。


 赤猫の正体はただの猫だ。彼女の飼い猫だった白猫だ。

 彼女の中のもう一人が、思い通りにならないという理由で壊した。中味を取り出し、白い毛を全て赤くしてみようなどと思い立ち、全ての毛を丁寧に真っ赤に染めた。


 赤猫は彼女の記憶に焼きついた。赤猫は彼女の心に住むようになった。赤猫はもう一人の自分と一体化していた。

 赤猫は殺意の化身。彼女の中で時々暴れる。彼女は抑える努力をしてきたが、次第に抑えられなくなり、段々大きくなっていった。


 彼女はいつも不思議に思う。何故人は争うのか。何故仲良くできないのか。何故思いやりをもって接することができないのか。あの猫は自分に思いやりを持てず、自分を引っ掻いたから、白猫から赤猫になった。しかしこの世の多くの人々も、あの愚かな猫と似たようなものだ。


 彼女に赤猫が宿る。赤猫は死の結果であり、赤猫は死の兆しであり、赤猫は殺意の前触れであり、赤猫は殺意の引き金であり、赤猫はもう一人の自分。


 後々になって彼女は知った。赤猫を這わすという言葉と、その意味を。まさにぴったりだと彼女は思う。


 それがいつだったかよく思い出せない。とにかく昔の話。


***


 久留米狂悪(くるめくるお)は全てを憎悪している。


 最初に憎悪したのは親だ。この両親は久留米が違法改造したドリームバンドの作用によって、目出度く廃人と化した。

 しかしそれが久留米の仕業であると発覚してしまい、彼は逮捕され、務めていたドリームバンドの製造会社も当然クビになった。


 出所後は、違法ドリームバンド製造専門のマッドサイエンティストとして、裏通りで細々と商売をしていた。


 久留米は人も、人の世も、悪としか思えなかった。単純に自身の人生が報われないものであったが故に、厭世観に満ち溢れた人格となった。


 人を悪に至らしめている原因は何か? それは脳ではないかと久留米は思う。

 ならばその脳をいじればいいと、久留米は早急に結論づける。


 久留米はある人物に出会った。彼女もまた、自分と似たような考えの持ち主であった。

 そして久留米は彼女を通じて実験を試みる。今度はバレないように裏方に徹する。彼女を通して行えば、例えバレてもまず彼女が疑われる。彼女に異変があったら、すぐに逃げればいい。そう思った。


「連絡は定期的に頼む。実験の結果は当然として、少しでもイレギュラーと感じたことがあれば、連絡して相談してくれ」


 予期せぬ事態が発生したら、すぐに高飛びする手筈を整えている久留米であった。自分も相手も裏通りの住人とはいえ、これから行おうとする実験は、明らかに人の命を奪うものだ。バレたら警察の手が回るのは間違いない。大組織の庇護も無ければ、あの雪岡純子のように権力と通じるコネも無い自分では、ひとたまりもない。


 それが何週間か前の話であるが、以降、一度も彼女から連絡が無いことに、久留米は不審に思っていた。


***


 狛江誠は現在、母親と二人暮らしだ。昔は兄と母との三人暮らしだった。


 母親は自分と兄を育てるために身を粉にして働いてくれた。結果、体を壊して病状に臥せってしまった。

 兄は薄情にも、家の金を持ち出して蒸発した。おかげでただでさえ貧乏な家が、余計に貧窮となった。借金も抱えてしまった。


 どうにかするには、実入りのいい裏通りの仕事に就くしかなかったが、誠には合わないと感じている。人を貶めたり傷つけたりするような事はできるだけ避けているが、それでも悪事に加担していると意識し続け、罪悪感に苛まれている。

 誠はフリーの運び屋をやっていた。報酬は安くても、できるだけ危険の無い仕事だけを選んでいた。安いといっても、それなりの額はもらえる。

 できるだけ危険は避けているつもりでも、危険に晒されることは何度かあった。命に関わるような修羅場も幾度かくぐりぬけた。それらの経験は誠にとって多大なストレスとなり、やがて誠は心を病んだ。


 メンタルクリニックに行ったり、同じ裏通りの住人で心の病を持つ者同士の交流所に赴いたりしている誠だが、後者は特に癒しとなった。『闇の安息所』という名のその交流所には、同じ裏通りの住人とは思えないほど――心の病を抱えているとは思えぬほど、優しく穏やかな人達が集っていた。誠は仕事の無い日は、ほぼ必ず闇の安息所へと通った。

 闇の安息所での交流や、ドリームバンドを用いた治療を続けているうちに、誠の心は次第に安定していった。


 そんなある日のことであった。

 闇の安息所から帰った誠は、いつも通り夕食の準備を行っていた。


「いつもいつもすまんこってすたい」


 枕元に食事を持ってきた息子に、寝たきりの母が冗談めかして言う。


「それを言わない薬物注射……」


 と、冗談で返そうとした誠の台詞が途中で止まった。


「誠……?」


 明らかに誠の様子がおかしいことに、母が不審げな面持ちになる。息子の表情が虚ろになっている。


(何だ……?)


 誠の意識は暗黒の中へと沈んでいった。いや、暗黒ですらない。白も黒も無い、色の一切消えた完全無色の闇。


 しかしその無色の世界に、突然色のついた存在が現れる。

 全身が赤く輝く猫。しかしその目だけは黒い。白目の部分が一切無く、瞳だけが巨大であるかのように、真っ黒だ。


 やがて誠の意識は別のものへと塗り替えられていく。たった一つの感情だけに心が塗りつぶされる。


「ま、誠っ!?」


 母はうわずった声をあげた。自分を見下ろす息子の瞳の瞳孔が、異常な程に散瞳していたからだ。虹彩の部分がほとんど線に近くなるほど、瞳が黒一色で埋まっている。


 その母の喉に向けて、誠は無表情のまま箸を突き刺した。

 驚愕と恐怖と痛みに、母の顔が歪む。明瞭な狂気と殺意を宿した息子を目の当たりにし、そして何の躊躇いも無く自分を殺そうとしている事に、底無しの恐怖と絶望に包まれていた。

 無表情に、何度も何度も箸を突き刺す。血が飛び散る。くぐもった断続的な悲鳴が幾度かあがるが、やがて声も消える。


 やがて誠の散大していた瞳孔が元に戻り、誠の顔にも表情が戻る。箸を振る動きが止まる。


「え……?」


 目の前の惨状を見て、誠は愕然とした。喉の気道と動脈を破られて血まみれとなり、苦悶の表情で果てている母。血まみれの箸を握った自分。

 何をしたか、誠は理解していた。母を殺す際の記憶はちゃんとあった。


「母さん……? 嘘だろ……? 何で……何で俺がこんなこと……」


 記憶はあったが、目の前の現実を受け入れることはとてもできなかった。突然自分の心が、殺意一色に染まり、自然とその衝動に従って動いていた。そして守るべき平和な世界は壊れていた。守ろうとしていた自分が壊していた。


 それが数日前の話。

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