第二十六章 8
「ごめんね……優さんの手を汚させてしまって」
二人の刺客の姿が完全に消えてから、岸夫がぽつりと呟く。
「手は汚れていませんよ。二人共」
岸夫の手を取り、さらには空いている自分の手を見せて、優は言った。
「降りかかる火の粉を払っただけですもの。気にしなくていいです。私は全然全くちっとも少しもこれっぽっちも何とも思いません」
何の感慨も無しに、割り切った風にきっぱりと告げる優。
(人を殺したのは初めてじゃないのかな? 殺人倶楽部での活動で、個人での殺人は一切した事無いって聞いたけど……。あるいは仲間と一緒に依頼殺人に何度も臨んでいるから、今更って感じなのかな?)
いろいろと勘繰る岸夫。
「しかし改めて凄い力だねー……」
見ただけで物を消すという力の凄まじさに、岸夫は感心するとか慄然とするとか以前に、現実味を覚えなかった。
「空間そのものをターゲッティングするので、力を発動する前にかわすことはできますし、よけきれなくても抵抗(レジスト)も可能ですよう。大雑把な原理としては、鋭一さんの透明つぶてと同じですねえ。最初にロックオン――私はターゲッティングと呼んでいますが――空間をターゲッティングして、その空間の中にある何かを消すんです」
優が改めて自分の能力を解説したが、岸夫にはいまいちわからなかった。
「それより次の場所に行きましょう。余計なことに時間を取られてしまいました」
優が土手から降りていく。
(何で急いでいるのかよくわかんないけど、また襲撃されるかもしれないし、今日何かしようとするのは無理があるんじゃないかな……)
優の後をついて行きながら岸夫は思ったが、口には出さないでおいた。
***
絶好町繁華街へと戻った優と岸夫は、とあるデパートのレストラン前へと来ていた。
「ここも母さんがまだいる時に、家族三人で来ました。父さんの小説がベストセラーになったお祝いにって」
「う、うん……」
優の解説に、わけがわからないまま相槌をうつ岸夫。
「では次に行きましょう」
すぐに移動を促す優。
(デートにしてはせわしないというか、楽しんでいる風ではないよね)
そう思いつつも、今の所はやはり黙っておく岸夫。しかしそろそろ、この意味不明な連れまわしに対し、疑問をぶつけたいという気持ちが強くなってきている。
その後も何箇所かへと赴き、その度にそこが思い出の場所であったと優は語った。
「これくらい……ですかね。安楽市内の近場だと。他にも行った場所はありますけど、遠いですしねえ」
優は立ち止まり、重い溜息をついた。
「そろそろ教えてくれない?」
岸夫が思い切って質問する。
「君の家族の縁(ゆかり)の場所に行って、どうしたかったの?」
「本当に何も感じないんですかあ? 何も……思い出さないんですかあ?」
咎めるかのような目で自分を見る優に、岸夫は鼻白む。
「父さん、いつまで夢の中にいるつもりですか? 今見ている光景は、夢の中でも異世界でもないです。現実ですよ」
優が口にしたその台詞は、岸夫の心に突き刺さり、岸夫の記憶の奥底を刺激した。
(父さん? 夢? 異世界? 現実……)
途轍もなく重要で、しかし思い出したくない何かが、強引に意識の浅い層へと引きずり出されていくような気分を味わう。
「キジ……」
最初に思い浮かんだのは、それだった。
「キジを見た?」
岸夫が優に尋ねる。一軒脈絡が無いように思える問いかけだが、優は理解し、驚きに目を丸くしていた。
「さっきの浅川だよ。頭の中に今、思い浮かんだ。小さな女の子が、キジを見つけて捕まえようと突っこんでいく光景」
喋りながら、岸夫の記憶が急激に鮮明になっていく。この体に精神が宿る際に、封じ込めていた一切合財全てが、解き放たれていく。
「何も想わない……感じないなんてことはない。いろいろと感じていた。でも俺、ぼやけているんだ。それに今の俺は、暁光次じゃなくて藤岸夫だからさ」
優の顔をしっかりと見つめながら、岸夫は告げる。
「わかっていますけど、それでも言わせてください」
うつむき加減になって、少しダークな響きの声で、優は話を続けた。
「父さんは……私がどんな気持ちで生きてきたかも、考えていなかったですよね? 父さんがどんどんおかしくなっていって、夢と現実の境の区別もつかなくなって、頭の中で作り上げた別の世界へと逃げ続けていた時、私が……どんな気持ちで父さんのことを見ていたか。どんな気持ちで接していたか、小説家のくせに、ほんの少しも想像できなかった――いや、しなかったんですね?」
自分を責める優に、岸夫は魂を切り裂かれるような胸の痛みを覚える。
(この痛みは、藤岸夫としての僕ではなく、もう一人の俺――暁光次のものだ。いや……あっちが本体なんだろうけどさ)
今ある自分は、擬似人格でしかない。それがはっきりと岸夫にはわかった。優の言葉を引き金にして、記憶が呼び起こされ、自分が何者か、おおまかに理解できた。
「父さんと同じ目線に立ち、父さんと同じ時間を本当の意味で共有したくて、そして――もしかしたら何か刺激があって、父さんが元に戻ってくれるかもと思って……そんな惨めで淡い期待で、こんなことしてみました。馬鹿ですよね、私」
優の声が震えているのを聞き、優が涙を懸命に堪えているのを見て、岸夫は優を抱きしめたい衝動に駆られる。
「最初はこっちでもあっちでも、頭がぼやけてて、記憶も曖昧で、何が何だかわからなかった」
それ以上優が話そうとしないので、今度は岸夫が語りだす。
「今はかなりはっきりしている。メンタリティが岸夫と光次では異なるけど、俺……優さんの気持ちがわからないなんてことはない。馬鹿とか思ってない」
そう前置きしたうえで、はっきりさせなければいけないことがある。これを口にして、優がどんな風に思うか、どんな反応をするか、岸夫は怖かった。しかし言わないといけない。
「ごめん。今の俺は、例え同じ魂でも、暁光次ではない。だから……君の父親という意識を持ちづらいし、君のこと、自分の娘とも思えない。いきなりそんなこと言われても、受け入れられない。そして暁光次にとっては、暁光次が異世界に転移したつもりでいる、別人格なんだよ。でも……」
そこで言葉を区切って逡巡したが、岸夫は頭の中に思いついた台詞を言い切った。
「でもさ……変なこと言うけど、それでも……優さんの気持ちがわからないことはないし、今の藤岸夫がお望みでなくても、俺は今の藤岸夫で、優さんの力になりたいと思う」
「似てますね……当たり前のことですけど」
やにわに優がおかしそうにくすくすと笑う。
「私も、父さんも、岸夫君も……不器用です」
「それって笑う所なの?」
岸夫もつられて微笑みをこぼす。
「私の望む形にはならない気がしてきましたが、今の岸夫君の話を聞いて……もう、これでもいいかなって気分です。これでもう十分というか、これが限界なのかなって……」
それは妥協のようなものかもしれないが、岸夫の真摯な訴えを聞いて、優の心は大分救われ、楽になったのもまた事実である。
***
ホルマリン漬け大統領のとある支部にて、香と四股三郎は昨日の戦果をチェックしていた。
一斉襲撃を開始した昨日に続いて、今日も殺し屋達には殺人倶楽部の会員達を襲わせている。
「敵にも被害を与えたものの、こちらで雇った者は、想定以上にやられてしまいましたよ」
四股三郎が仮面の下で不安顔になる。数字のうえでは、圧倒的にこちらの方が負け越している。死者の数でダブルスコアどころか、トリプルスコア近い差がついている。
「流石は雪岡純子のマウス共といったところか。しかし補充のメドも立っている。こちらは殺されてもまた新しい刺客を雇えばいいだけだ。先にこちらの予算が尽きるか、殺人倶楽部が全滅するか、果たしてどちらになるかな」
香はまるで小事であるかの如く嘯くが、それよりも難しい問題にどう対処するか、頭を悩ませていた。
予想はしていたが、初日に比べて二日目は、戦闘発生件数がずっと少ない。殺人倶楽部の会員達の多くは警戒し、雲隠れしたからだろうと察する。
そして戦闘が発生しても、昨日以上に負け越している。今殺人倶楽部の会員で堂々と外をうろついている者は、腕に自信のある強者だからであろうと、香は判断している。
二人のいる部屋の扉を何者かがノックし、入室の了承を待たずに扉が開かれる。
「あ……どうしてここへ」
香が驚いて、椅子から立ち上がる。四股三郎もその人物を見て緊張して立ち上がり、深々とお辞儀をした。
「いいから楽にしてくれたまえ」
スーツ姿に翁の仮面を被ったその男が、低く渋い声で告げる。
その男は笹熊と呼ばれている。ホルマリン漬け大統領の最古参幹部の一人であり、ホルマリン漬け大統領の最高幹部の中では、実質上のリーダーポジションにいる。
「予算をさらに上乗せするよう、他の大幹部達を説得してやったぞ」
「ありがとうございます」
笹熊の言葉に、香が恭しく頭を下げる。
「敗北した場合、どうなるかわかっているか?」
笹熊の問いかけに、四股三郎は身震いした。
(まさか、俺達が責任取らされて殺されるとか……)
悪い想像を浮かべる四股三郎。
「ホルマリン漬け大統領の顔には泥が塗られ、組織の総力をあげて、雪岡純子そのものと雌雄を決する事になりますね」
香が冷静に述べる。
(何だ、殺されるんじゃないのか)
安堵する四股三郎。
「そうなるな。今までも散々あの女には煮え湯を飲まされてきた。そろそろ限界だ。商売度外視の抗争をせねばならない」
「すでに度外視ですよ。殺人倶楽部と殺し屋達の抗争を撮影して販売できればいいのですが、ほとんどの殺し屋が、手の内を晒せるかと拒否しました。逆に宣伝になると撮影を歓迎した者もいましたので、それらにはカメラマンをつけていますけどね」
オンドレイ・マサリクという、世界的に有名な殺し屋のことを思い出す。スラブの怪人、超常殺しなどと呼ばれ、いかなる困難な依頼であろうと、規格外の方法で達成してきたという。何より超常殺しの異名通り、超常の能力を持つ者達を数多く屠っている。
「その者達にはギャラをはずめよ。そして贔屓にしてやるといい。いつかまた使えるだろう」
「もちろんそのつもりです」
「しかし……ただ殺し屋を差し向けているだけでも芸が無いな。もう少し何か盛り上る要素を加えてみてはどうかな?」
笹熊が意見する。
「そうですね。せっかく協力してくれている者もいますし、考えてみます」
それ以前に、殺人倶楽部の会員達の動きが補足しづらい問題もあるし、それらもまとめて解決できるイベントを起こさねばならないと、香は頭を巡らせた。
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