第十九章 羊飼いになって遊ぼう
第十九章 五つのプロローグ
コルネリス・ヴァンダムは女神と出会った。
ヴァンダムはその時、死を経験していた。失恋という名の一つの死。愛が終わる事の悲しみ。その計り知れないダメージを、齢三十にして生まれて始めて味わっていたその時だからこそ、彼は女神と巡りあえた。
女神の存在は、ヴァンダムにとって衝撃だった。誰よりも清らかな心を持ち、自分のような冷徹で薄情な人間ですら認めて、包み込んでくれる。
失恋直後は惚れやすくなるという俗説があるが、もしかしたらそれもあったかもしれない。その時の彼の心は無防備状態であったが故、女神の言葉も眼差しも、ヴァンダムの心にダイレクトに突き刺さった。
ヴァンダムは己の悪などとうに自覚している。悪魔のような自分が、女神に惹かれ、愛している滑稽さもわきまえていたが、その想いは止められなかった。失恋の二次被害になることを恐れつつも、彼は女神に愛の言葉を囁いた。
かくして悪魔は女神と結ばれた。悪魔の心も許容し包容するほどに、彼女の心は清らかであった。
彼女はヴァンダムが人々の善意を糧に財を成す男と知りつつも、まるで悪戯っ子を軽く注意する程度に留めている。
無神論者のヴァンダムは思う。仮に神が本当にいたとしたら、聖書に出てくるあの傲慢極まりない独裁者のような、人の陳腐な発想の産物の域を超える事のない代物などでは、断じて無いであろうと。途轍もなく慈悲深く、暖かく、柔らかく、懐が深く、賢い存在でなければ、神とは呼べない。
無神論者であったヴァンダムは結婚式にて、神父に神の前で誓いを立てさせられた際に思った。己が選んだこの女性こそ――悪魔である自分の心を浄化する彼女の中にこそ、神が宿っていると。
それが二十年程前の話。
***
ニュース番組は、今日もあるニュースを流していた。最近どの局の番組でも、週に何度も流すニュース。
その日、そのニュース番組は、特集にまで組んで取材を行っていた。画面には、街中に列を成して行進する、大勢の人々の姿が映る。所謂デモ行進という奴だ。
彼等が掲げる横断幕やプラカードには、『地球を守れ』『自然と調和せよ』『自然環境は人類の文明よりずっと大事』『安易で便利な科学に溺れるなかれ』などといった言葉が書かれている。
『最近、グリムペニスのデモに参加するメンバーには、学生が増えてきているようだ。彼等は何を思って、この活動に参加しているのか』
ナレーションがそう語ると、二十歳前後と思しき、冴えない顔をした青年の顔が画面にアップになる。
『科学文明の闇雲な発達は、人間を幸福にはしないと思います』
目をキラキラと輝かせて、青年は淀みない口調で断言する。
「ふわぁ~、どこの知識人様の言葉の受けうりかなァ」
リビングで昼食を取りながらテレビを見ていたみどりが、微苦笑と共に呟く。
『このデモに参加し続ける彼等の気概を聞いてみた』
ナレーションが語り、異なる学生の顔が次々と現れ、言い分が流れる。
『僕達は一人一人が、自分の頭で真剣に考えたうえで行動しているのですっ!』
『そうそう、こう自慢するのもどうかと思いますけどね、僕達、同年代と比べて、意識高くて頭使ってて優秀だと思いますよ。フヒヒヒ……』
『自分の考えをもたず、ただ流されるだけという、社会の人形にはなりたくありませんから』
そのどれもが、人を食ったようなドヤ顔であった。
「操り人形の分際で何言ってるんだか」
呆れ果てた様子で蔵が口走る。
「グリムペニスは、こないだのドリームポーパス号の人さらい事件のせいで、一時的に評判が悪くなった一方で、一部の学生層をうまいことオルグして取り込んだようだねー」
と、純子。
「デモがどんどん活性化して……グリムペニスは、勢いを……盛り返してきましたね」
累が純子を見る。
「そのうえこのタイミングで、グリムペニス会長のコルネリス・ヴァンダムが来日か」
「取り込んだばかりの学生達を直接鼓舞するのが狙いだろうな」
真の言葉を受け、蔵が言う。
「組織のトップが――それも世界的に名の知れた外人が日本に来て激励したとあれば、効果は覿面だろう。日本人はそういうのに弱いからな」
と、蔵。
「あばばばば、しかもあんな純粋さ丸出しな餓鬼共が相手なら、余計に効果ありそうだわさ」
みどりがおかしな笑い声を発する。
『隣の中国での急速な文明の発展が何をもたらしましたか? 公害による自滅だったでしょう? 科学文明の発展の代償として、公害による病人、奇形児、死者が続出しました。あんな形が幸福なものですか』
スタジオで熱弁を振るうコメンテーター。彼もどうやら、グリムペニスの思想に同調するエコロジストのようだ。
「失敗があるからこそ成長するんだけどねえ。もちろんやりすぎはよくないけど、かといってやらなさすぎもよくないって、わからないのかなあ。どんな思想にせよ、片方の軸に極端にぶれるのってどうかと思うし、こういった極端思想に走ることそのものが、人類の一番の悪だと思うんだけどねえ」
純子にしては珍しく露骨にうんざりした表情を見せ、持論を展開した。
それが三日前の話。
***
「なあ清次郎、グリムペニスの会員にならないか?」
大学のキャンバスを出た所で、九十九里清次郎は、中学から高校大学とずっと同じだった友人の市川善太から、そんな誘いを受けた。
清次郎は純粋で温和な性格であったが、主体性が無く、高校も大学も自分では決めなかった。かといって親や教師に決められたわけでもない。全て善太に誘われるがままだった。
「俺、実は一昨日からグリムペニスの会員になったんだよ。デモにも参加した。いやー、あれは燃えるぜ。地球を守る一員になったって感じで、最高に躍動感あるというか、充実してるっていうか、感動したよ」
興奮気味の口調で語る善太であるが、清次郎にその感動が伝わるはずもない。
「やっぱり環境保護は大事だし、人類もこの自然環境の中で生きている一生物に過ぎないんだから、自然を一方的に食い物にしちゃ駄目なんだよ。それに気がつかないと駄目なんだよ。科学文明の恩恵は程々にして自然と調和して生きなくちゃ駄目なんだよ」
それは誰の受け売りなんだろうと清次郎は疑問に覚えたが、気分よく喋っている善太の前では口にしなかった。清次郎の目から見ても、善太は聞きかじりの思想に感化して舞い上がっているとしか思えなかった。
「そのために一緒に戦おう。一人一人の力が大事なんだ。お前もやるべきだ」
「うん、いいよ」
胡散臭いこと甚だしいと思いつつも、清次郎はあっさり承諾してしまう。
清次郎は一切の自信が無い。未来は不安だらけで、やりたいことも見つからない。グリムペニスの思想に共感はしないが、何かやりがいや生き甲斐が欲しいと、漠然と思っていた所ではある。
どうせ退屈な日々だ。ただ流されて生きる日々に、そんな刺激があってもいいのではないかと、そんな軽い気持ちであった。
それが二ヶ月前の話。
***
神奈川県薬仏市。
裏通りの住人達が跳梁跋扈する暗黒都市と呼ばれる都市の中でも、特に危険と呼ばれるその都市で、今夜も殺し合いが展開されている。
薬仏市は港湾部に隣接しているため、海外マフィアの中継地であり、同時に防波堤となっている都市でもあった。日本の裏社会と、日本を食い物にしようとしている海外勢力との対立構図が出来上がってしまっている。
彼が現在戦っている敵は、マフィアではない。しかし海外勢力である事には変わりない。
褐色の肌がライトに照らされる。激しい動きの合間にも、赤茶色の髪が一房垂れてくるのを後ろの撫でつけることは忘れない。
彼の動きに合わせて、白い牙の飾りがついた皮紐のチョーカーも踊る。その飾りがライトの光に照らされて白く輝いた直後、唐突に踊りを止めた。飛来した銃弾によって砕かれたのだ。
「ちっ」
お気に入りのアクセサリーを砕かれた事に、忌々しげに舌打ちをして、己の敵を見据える。
敵は一人。最初から一人。
「この代償は高くつくぞ。大型便器が」
裏通りで『タブー』と指定された、特に危険な強者の一人であるその男――バイパーは、己の敵を見据えて呟いた。
「あんただって大型なんだから、丁度いいんじゃない」
甲高くも可愛らしい声で、バイパーの視線の先にいる女性は答えた。
一言で言うと、彼女はカウガールの格好をしていた。白いテンガロンハットを被り、水色のネッカチーフを絞め、胸元に大きく切れ込みが入ったウエスタンシャツを着て、破れまくった煤けたジーンズをはいている。さらには御丁寧にガンベルトまで絞めているのが、ベルトに収まっていたリボルバーは右手に握られており、作り物ではなく本物だ。さらに左手では、
余談であるが、カウボーイの被る帽子が全てテンガロンハットではない。カウボーイハットの中にある、一種類の呼び名である。しかし日本人の認識としてはテンガロンハットになってしまっている。
彼女の容姿は、愛らしく見えなくも無いが、美人と呼ぶには抵抗があるであろう。何しろその顔には肉がパンパンについている。体の方も非常に太ましく、その上腕部は下手な女性の太股より太いであろう。だがその太い腕や脚は脂肪だけではなく、鍛えられた筋肉で覆われている。
女の名はキャサリン・クリスタル。エコロジカル・テロリスト『海チワワ』の幹部であり、戦士だ。
バイパーが本日何度目かの接近を試みる。直後、キャサリンの左手の投げ縄が放たれ、バイパーの首に巻きつかんとする。
際どい所でかわした直後、銃撃。本日何度目かのパターン。銃弾一発は当たった所で大した事が無いが、強力な溶肉液入りのようで、一応ダメージにはなっている。撃たれた箇所が溶け出している。何発もくらえばダメージが蓄積しているので、避けられるものは避けたい。
だがそれより厄介なのは、キャサリンの左で生き物のように踊るラリアットであった。
あの縄がバイパーの体に一度巻きついた時、バイパーは切り札の一つである長針を使用しながら振りほどいたくらいだ。バイパーの怪力をもってしても引きちぎれないうえに、キャサリンのパワーも、相当なものだった。
「うおっ!?」
かわしたと思った縄の輪の部分が、キャサリンの手元に戻ることはなく、空中で変則的な動きを見せて、バイパーの首にかかり、瞬時に締め上げる。
両手でもって拘束を解こうとしながら、同時にバイパーはキャサリンめがけて突進する。これによって縄が緩むのを狙ったが、キャサリンは右手にした銃で、向かってくるバイパーめがけて何度も撃つ。
頭部、胸部、腹部に受け、撃たれた箇所が溶け出し、血が吹き出す。しかし全身血まみれになりながら、凄絶な笑みをひろげ、バイパーはキャサリンに迫った。
「ワオ、惚れそう」
キャサリンも笑う。バイパーの拳がくりだされる。
文字通り岩をも砕くバイパーの一撃を、あろうことかキャサリンは両手で受け止めた。手には銃も縄も握られたままである。
銃が破壊された直後、キャサリンは全くひるまずに動いていた。今まで攻勢であったキャサリンが、バイパーに背を向けて一目散に逃げ出す。
バイパーはそれを追わなかった。自身も深刻なダメージを受けていたからだ。
「畜生……ひでえ痛み分けだ。全く割が合わねえ」
アドレナリンが切れると同時に、体のあちこちが痛くなってくる。特に頭の出血がひどかった。バイパー本人からは見えないが、肉が溶けて頭蓋骨が大きく露出していた。
「あいたたた、ひどいことになっちゃったわ。でも脂肪のおかげで助かった」
走りながら両手を見て、キャサリンが呟く。バイパーの拳を受けて、両手ともに骨が砕けているようであったが、単純骨折で済んでいる。
「中々クールでワイルドでパワフルでデンジャラスな男だったわ。嗚呼……敵だってのに、もしかして私惚れた? これは禁断の恋の始まり?」
自分に迫ってきた時の、バイパーの悪鬼の如き顔を思い出し、頬を赤く染めるキャサリンであった。
それが二週間前の話。
***
イタリアにある高級カフェにて、その白人の男女は向かい合っていた。
女性の方は二十代。ウェーブのかかった長い赤毛が印象的で、淡いピンクのセーターと濃い紺のコートを着ている。その顔立ちは、ややあどけなさが残っている。
男性の方は五十代に見える。スーツ姿で、目がぱっちりと開いて、口元には作り笑いが張り付き、背筋はぴんと伸びている。精力的なビジネスマンといった印象だ。
「それで、協力はしてくれないのかな?」
「どうして協力しなくてはならないのですかー?」
男性の問いに、女性はやや間延びした口調で問い返した。
「貴方は人の善意を商いにしている、天国の門の狭き人です。そのような人に力を貸す謂われはないですねー。貴方の奥さんはあんなに立派な人だというのに」
女性――シスターと呼ばれる、世界を陰から牛耳るフィクサーの一人は、冷めた口調で告げた。
「ワイフのことは私も尊敬している。彼女から学ぶことは未だに多い。そしてこの現実において唯一存在している女神だと崇拝している」
男性――環境保護団体グリムペニス会長コルネリス・ヴァンダムは、張り付いた笑みを苦笑いに変えつつも、堂々たる口調で恥ずかしげも無く言い切った。
「だったら少しは奥さんを見習ったらどうですかねー」
「ふーむ。神という幻影を崇めよと説くペテン師集団の頭領が、私に説教かね?」
「神様を愚弄するとお尻ペンペンですよー」
「幻影を愚弄することが罪だと本気で口にしているのであれば、それは極めて原始的な思考回路だ。狂気とも呼べる。それに、善意を商いにしているのは、貴女も私も同じだ。無論、貴女は否定するであろうが、いくら否定しても、私には同じにしか見えん」
「むー」
ヴァンダムの皮肉めいた言い回しに、シスターは頬を膨らませてヴァンダムを軽く睨む。
「雪岡純子にはすでに宣戦布告済みだ。互いにどちらかが滅びるまで、とことんやろうと」
露骨に不満げな顔をするシスターを内心キュートと思いつつ、ヴァンダムは話を続ける。
「彼女と仇敵である貴女が誘いにのってくれないのは残念だ。力不足と判断されたのか、単に気に入らないだけなのか、理由を聞かせてくれないか? はっきりしないことが、私は好かないし、参考にもしたい」
「両方でーす」
ヴァンダムの質問に、シスターははっきりと答えた。
それが十日前の話。
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