第十八章 1

 午前六時十分前。

 怪しい人物が、安楽市絶好町繁華街を走っている。

 ジャージ姿の小柄で細身の男。体型からして少年に見える。これだけなら問題は無い。問題は、頭部をプロレスラーが被るようなマスクで、すっぽりと隠している事だ。目も口も完全に隠れているタイプのマスクである。


 彼が何をしているかというと、ただ走っているだけだ。ようするに早朝ジョギングである。

 やがて少年は、カンドービルの裏口へと入る。扉は虹彩認証で開ける必要があるため、マスクは取らないといけない。

 マスクを取ると、中から柔らかそうなプラチナブロンドがあふれ出た。そして翡翠と同じ色の瞳の認証をカメラに済ませて、少年――雫野累はビルの中へと入っていった。


「ただいま」


 荒い息をつき、累は雪岡研究所のリビングに入り、純子に帰宅の挨拶をした。ジョギング自体を始めて間もない事もあるが、呼吸もままならないマスクをかぶってのランニングは、かなりキツい。

 しかし累にとっては必要な事だ。運動不足を解消すべく、そして人目を避けるべく、早朝ジョギングを始めた累であったが、早朝の人の多さに辟易とした。年配が多いが、かなりの数の人間が早朝に走っていたのである。


 朝早くなら人が少ないと思っていた累の目論見は外れ、どうにかして人目につかないようにジョギングをしたいと考えた累であるが、ルームランナーは味気無いし、苦肉の策としてマスクで顔を見えないようにしたら、少しは安心できるかもと思い、試してみたら、これが意外にいけた。

 そのため最近累は毎朝、マスクをかぶって走るという日課が出来た。マスクによるランニング効果は羞恥心抑制効果だけではなく、トレーニング向上の一環にもなる。


「どうしました?」


 純子が腕組みして小首をかしげ、いかにも声をかけてほしそうに悩んでいます的ポーズを取っていたので、累は声をかけてみる。


「実験台志願者が一気に八人くらい来る予定なんだよ。皆、睦月ちゃんの被害者ばかりだねー」


 睦月の名を出され、真剣な眼差しへと変わる累。


「しかもその人達は皆、百合ちゃんがここに行くようにって勧めたみたい」


 百合の名を出され、険悪な眼差しへと変わる累。


「僕はてっきり……睦月の音沙汰が無いのは……百合が睦月を回収したからだと見なしていましたが……」

「うん、私もそう思ってたよー。それなのに睦月ちゃんに刺客を放つような真似をするってのは、どういうことだろうねえ? 読みが外れたのか、睦月ちゃんが反旗を翻したので邪魔になったのか、それともただの遊びか」


 睦月を作ったのが百合であることは、二人共知っている。それがどうして、睦月に敵対する者を量産するのかは謎であった。


「睦月が噛み付いて邪魔になって……処分したいとしたら、わざわざそんな回りくどいことも……しないでしょう。ただの遊びではないでしょうか」

「百合ちゃんが睦月ちゃんを回収してないにしても、刺客を放つからには、居場所は知っていそうだね」

「それで、どうするのです……?」


 純子はそれでも躊躇いなく、これから訪れる者を改造するであろうことは、累もわかっている。問題は、真にこの話をするかどうかだ。そのニュアンスを込めて累は尋ねたし、今の一言で、純子に伝わらないわけもない。


「黙っておいていいと思うよ。多分、何かあれば真君も自然と知るだろうし、首も突っこむだろうしさあ。さて、御飯作ろうかなあ」


 お気楽な口調で言う純子であったが、百合が絡んでいるという事があり、累は不安を覚えていた。


***


 雨岸百合が持つ邸宅の一つには、百合を含め、常に四人の人間が寝泊りしている。

 あくまで所有する邸宅の一つに過ぎないが、百合は最近、ずっとこの家にいる。以前はいろんな家を転々としていたが、睦月と亜希子という同居者がいるために、移りづらくなってしまった。

 睦月と亜希子にとっては、今やほぼ自宅のようなものだ。睦月は退屈しのぎに一人旅などにも出ていたが、最近はまた百合の家にいる毎日である。


「ママは直接手を出さないで、間に誰かを挟むやり方が多いようね。私には死体人形や使用人を間に入れてたし」


 朝、リビングにて白金太郎の作る朝食を待ちながら、亜希子は睦月と会話を交わしていた。睦月と亜希子はすっかり仲良くなっており、互いの素性もすでに打ち明けていた。


「一人ではチェックしきれないからだろうねえ。百合が言うには、全く面白くない育ち方した子は、適当に処分しているみたいだし」

「うわ、最悪だわ~。ママは本当に地獄に落ちるべきよね。私がいずれ落としてあげる予定だけど」

「不幸のドン底人間を意図的に創る所業を続けさせないためには、今すぐ殺したほうがいいんじゃないかなあ」


 そう話す二人ではあるが、それを今実行するつもりはない。実行しようとしたとしても、それが不可能であることも知っている。単純に、百合にはかなわない。

 よく亜希子と睦月の二人で手合わせをして、戦闘訓練に励むが、これに百合も混ざってくることがある。その度に、二人がかりでも完膚なきまでに打ちのめされる。


「今はドン底じゃない。恵まれているよ。ママのおかげでドン底だったのが、ママの気まぐれのおかげで、幸せになれた私。すっごく複雑だわ……」

 大きく息を吐く亜希子。


「もし神様が現れて、世界を生贄にして、世界中の人間を地獄に落として、永遠に幸せにしてやると言われたらどうする?」

 唐突に出した睦月の問いに、亜希子は顔をしかめる。


「神様が嘘ついてる可能性あるって考えるのは無し?」

「無しで」

「気になる人もいるからね。私はそんな話にのらないよ」


 きっぱりと亜希子は答える。


「睦月はどうなの? 他人を犠牲にしても自分だけずーっと幸せになりたいの?」

「あはっ、俺も断るさ。でもさあ、逆に言えば、その気になる人や親しい人がいなければ、神様とのその取引にものるよ、俺は」


 一瞬笑いかけた睦月であったが、急にダークな面持ちになる。


「俺はこの世界そのものをずっと憎んでいたからねえ。もうそんな憎しみは無いけど、でも未練も無い。亜希子と俺って似てるようだけど、そこが決定的に違うんだよ。亜希子は狭い世界から出て、世界の素晴らしさを堪能してる。でも俺にはそんな気持ち無かったんだ。ただただ憎しみと嘆きばかりだったよ」

「うーん……」


 睦月の話を聞いて、亜希子は反応に困った。睦月がここに来るまでの経緯は聞いているが、自分よりはるかに悲惨な境遇にあったために、理解も共感もできにくい部分が多い。


「亜希子さんは今、新たな人生を前向きに進もうとしていますが、睦月はそこまで踏み出せないからこそ、亜希子さんのことが眩しいのでしょう?」


 リビングに現れた百合が、声をかける。からかうような声音ではなく、いつになく真面目な口調であった。


「あはっ、いつから聞いてたのさ」

 百合の方を向いて、苦笑をこぼす睦月。


「私が地獄に堕ちるべきと亜希子さんに言われていた所からですわね。亜希子さんに落としてもらえるとも言っていましたかしら? 楽しみですこと」

「聞いてたなら今すぐ自殺して地獄に落ちて欲しいなー」


 意地悪い口調で亜希子。


「睦月、貴女はまだ宿題を終えていませんのよ」

「宿題?」


 百合の言葉を受け、睦月は問い返してみたものの、何となく意味はわかっていた。


「ですから私が宿題の提出をするよう促してみましたわ。貴女も最近退屈しているでしょうし、良い暇つぶしにもなるでしょう」


 思わせぶりに告げると、百合は口元に義手をあて、笑みをこぼす。


「またママがろくでもないこと企んでいるのだけはわかった」


 軽口を叩く一方で、亜希子は睦月の様子が気になって、睦月の方に視線を向けている。


「ねえ、百合。前から訊きたかった事があるんだけどさあ……」


 亜希子に視線に気づくこともなく、睦月は百合の方を向いて尋ねた。


「何で亜希子はさんづけで、俺は呼び捨て?」

「何となく、ですわね」


 釈然としなかった睦月に、ますます釈然としない答えを返す百合。


「ママ、私も呼び捨てにしてよ。さん付けとかいらない」

「亜希子さんは亜希子さんの方がよろしいのですが、貴女が望むならそうしますわ、亜希子」


 亜希子の要求に、百合はにっこりと笑い、呼び捨てにする。それを聞いて亜希子も、満足そうに笑ってみせた。

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